第346話 思い出話(3)
結局緑依風は、お礼もごめんねも何も言えぬまま、風麻と別れた。
家の中へ入ると、緑依風は部屋の隅で膝を抱え、そこに顔を埋めるようにして丸くなる。
「(わたしのなまえが、へんじゃなかったら……)」
自分の名前が“普通”なら、あの子達からいじめられることも、助けに入ってくれた風麻が怪我をすることも、伊織に叱られることもなかった。
そんな罪悪感が、幼い少女の心を圧し潰していく――。
*
数日後。
「緑依風、風麻くんが遊ぼうって言ってるよ?」
「……あそばない」
あれから緑依風は、風麻の誘いを断り続けていた。
薄いレースカーテン越しに風麻を見ると、葉子が風麻に今日も遊べないことを告げている。
しょんぼりと肩を落とす風麻の顔には、大きな絆創膏。
手足にもまだ同じように負傷した傷を覆うものが貼られており、それを目にすると、緑依風の胸の中心がズキズキと痛む。
きっと、風麻はもっと痛かったはずだ。
そんな彼に会わす顔なんて無い――。
「……あっ、りいふちゃん!!」
「…………!」
風麻に気付かれた途端、緑依風は身を隠し、耳を塞ぐ。
「りいふちゃん、あそぼうよっ!ねぇってば~っ!!」
風麻は窓の外から何度も緑依風を呼ぶが、緑依風は彼の前に姿を見せなかった。
そしてまたしばらくして――。
八月八日。
緑依風の五歳の誕生日。
せっかくの日なのに、今日も緑依風の気持ちはあの日と変わらず、沈んだままだ。
両親は笑顔が消えた娘のことをとても心配していたし、妹の千草もずっと暗い顔をしている姉にちょっかいを出してはいけないと感じたのか、遊びたい気持ちを我慢している。
「今日の夜は、緑依風の誕生日だからご馳走作るからね!お父さんもお店早く出て、一緒にお祝いしてくれるって!」
「…………」
いつもなら嬉しいはずの誕生日。
なのにそんな気持ちは微塵も湧かない緑依風は、ただ頷くだけしかできない。
すると、ピンポーン!とインターホンが鳴った。
「おばちゃーん、りいふちゃんにプレゼントもってきた!」
マイク越しに風麻の元気な声が響くと、葉子は「ちょっと待っててね」と言って、緑依風のそばへ歩み寄る。
「ねぇ、風麻くんがプレゼント持って来てくれたって。緑依風も会ってお礼言いに行こう?」
会いたくなかったが、カーテン越しに窓の外を覗けば、風麻が小さな両手でプレゼントをギュッと握り締め、緑依風が出てきてくれるのを待っている。
プレゼントを受け取って、お礼を言えたらすぐにおうちに戻ろう。
そう思っていたのだが、未だ傷が癒えきらぬ風麻の目の前に立った途端、幼稚園での出来事が緑依風の頭の中を駆け巡りだした。
「……――っ!!」
「あっ!」
緑依風が庭の方へと逃げ出すと、後ろから自分を追いかける足音が風麻の声と共にやってくる。
「りいふちゃん、なんでにげるの?」
「やめて……なまえ、よばないで……」
「どうして……?」
「だって、へんななまえだもん……」
「でも、りいふちゃんのなまえは、“りいふ”でしょ?じゃあ、なんてよべばいいのさ?」
「……っ」
緑依風――これが、私の名前。
生まれてからずっとこの名で呼ばれてきた。
そしてこれからも……きっと、色んな人にからかわれ、冷たく笑われる私の――。
「……っ、うぅ、うわあぁぁぁ~ん!!」
そう思ったら、途方もない恐ろしさと恥ずかしさがが襲ってきて、緑依風はぺたんと地面に座り込み、声を上げて泣いた。
「わたしっ、わた、しっ……なんで、このなまえなのっ!?もっと、“ふつうのなまえ”がよかったのにっ……!!こんななまえっ、だいっきらいっ!!」
もし、名前を捨てることができるなら、今すぐ捨ててしまいたい。
誰にも笑われない、みんなが“普通”と思える名前に。
きっと、そばにいる風麻だって、本当は変な名前だって思っているはず。
風麻だけじゃない。
晶子も利久も、自分がいない所では二人揃って、おかしいと笑っているかもしれない――。
誰も、何も信じられないと、緑依風の心にどんどんマイナスの気持ちが芽生えて、涙が止められないでいると、背後に立っていた風麻が緑依風の前へと回り込む。
そして――。
「ぼくは、りいふちゃんのなまえすきだよ」
「え……?」
緑依風が泣き腫らした顔を上げると、風麻がにぱっと笑顔を向ける。
「おかあさんがいってた。りいふちゃんのなまえのこと。りいふちゃんのなまえは、すてきないみがこめられてるって!」
「……でも、みんなはへんっていうよ」
「ぼくはすてきだとおもう!」
「…………!!」
真っ直ぐな目で、はっきりとそう言い切る風麻に緑依風が息を呑むと、彼は「ぼく、みどりのはっぱだいすき!だってきれいだもんね!」と言って、両手を庭の木に向かって広げた。
緑依風が彼の両手の先に視線を合わせると、見慣れた枝葉が陽の光に照らされて、とても美しく見える。
「あ、そうだ――!」
風麻はポケットから取り出したプレゼントの袋をビリビリと破くと、葉っぱのような形をしたイヤリングを取り出した。
「みて!これきれいでしょ?りいふちゃんのなまえとおなじだね!」
「…………!」
太陽の光を浴びて、キラキラと輝く葉っぱのイヤリング。
そしてその上では、そよ風に揺られる緑葉が、サヤサヤと心地よい音色を立て、苦しかった緑依風の心を癒してくれた。
「(わたしのなまえと、おなじ……)」
両親が願いを込めてつけてくれた名前。
風麻が綺麗と言ったものと同じ名前――。
「りいふちゃん、おたんじょうびおめでとう!」
呼ばれるのが怖くなっていたはずの『緑依風』という名前。
なのに、目の前にいる風麻に呼ばれた今、緑依風はもっと呼んで欲しいなんて、さっきまでとは全く違う気持ちになっていた。
周りが何と言おうが、ここにいる風麻は、緑依風の名前を心の底から素敵だと思ってくれている。
そのことがたまらなく嬉しくて、緑依風に久しぶりの笑顔が戻る。
「ふうまくん、ありがとう!」
緑依風がお礼を言うと、風麻は彼女の手のひらにイヤリングを乗せてくれた。
この日の出来事。
この日に芽生えた、親友の風麻への新たな感情。
緑依風は、今でも昨日のことのように鮮明に覚えている。
*
「――とまぁ、これが風麻を好きになったきっかけかな?」
緑依風は語り終えると、残り一口となったドーナツをぱくりと頬張った。
「やっぱり、風麻は小さい頃からかっこよかったんだなぁ〜」
爽太は、緑依風から聞いた風麻の勇姿に感服し、尊敬の念を抱く。
「しかも、松山さんがいつも付けてるそのイヤリングに、そんなエピソードがあったなんて」
爽太が、緑依風の耳についているイヤリングを見ると、緑依風はそっと自分の耳に手を当てて「ふふっ」と笑った。
「これはね、私が私の名前を少し好きになれて、風麻を大好きになったきっかけの大事な物なんだ」
「でも、不思議だなぁ……。そんなに昔から風麻のことが好きなのに、会ったばかりの頃の松山さんって、風麻に対してお姉さんぶってる……っていうか、ツンツンしてることが多かったでしょ?好きなのを隠すにしても、今思うとやり過ぎな感じがするよ」
爽太に指摘されると、緑依風は「それは反省してる」と言って、肩を落とす。
「けどさ、そうでもしないと風麻に好きってバレちゃうし。あと、周りにからかわれるのも怖かったから、それで余計に言い方がキツくなっちゃって、加減がわからなくなって……」
「確かに、こういうのを面白がる人っているもんね」
「だから、亜梨明ちゃんみたいに日下と自然に話せるのが羨ましくて……。そのおかげで、小学校の時よりはだいぶ抑えるように意識してたんだけど――」
緑依風はそう言って、今度は小学校に入ってからの思い出を語り始めた。
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