第345話 思い出話(2)
出会いから約一年半後――。
緑依風と風麻は、現在末っ子の優菜と冬麻が通っている幼稚園に入園した。
そして、その幼稚園で晶子と利久に出会った。
互いに同性の友達ができると、園内ではそちらをメインに遊ぶことも増えたが、風麻は時々緑依風を誘って、ヒーローごっこのヒロイン役になって欲しいと言って、遊び仲間に入れてくれた。
この頃の緑依風は、風麻に恋愛感情こそ無かったものの、いつも仲良くしてくれる風麻が親友として大好きだったし、風麻からも同じ気持ちが伝わってきて、楽しい日々を過ごしていた。
だが、幼稚園に慣れてきた頃。
「おまえのなまえがへんって、うちのかあちゃんがいってたぞー!」
同じクラスの意地悪で体格のいい男児が、緑依風の珍しい名前について指摘するようになった。
その頃の緑依風は、自分の名前が世間ではあまり無いものだとは知らなかったので、「へんじゃないもん!」と言い返し、そっぽを向いた。
それを見ていたクラスメイト達は、家に帰って親にこの出来事を話したのだろう。
翌日、意地悪男児が再びからかってくると、一緒に遊んでいた女の子の友達までもが、それに同調するように次々と口を開いたのだ。
「うちのママもいってた。ふつうじゃないって」
「りいふちゃんのなまえって、えいごではっぱなんだって~!」
「よめない“じ”をつかってると、しょうらいこまるのは、りいふちゃんだって。かわいそうだよねって、うちのパパがしんぱいしてたよ」
緑依風がショックのあまり、言葉を失っていると、晶子が「りいふちゃん、あっちであそぼう……」と、緑依風の手を引っ張り、その場から連れ出してくれた。
そばで見ていた風麻と利久も、心配して二人を追いかける。
「きにしちゃダメよ。りいふちゃんのなまえ、へんじゃないから!」
「そうだよ!ぼくのおかあさんは、へんっていわなかったよ!」
力強い言葉で励ます晶子の後ろから、利久も緑依風を元気付けようとする。
「……っ」
鼻の奥がツンとして、涙が出そうになる緑依風。
だが、ここで泣いてしまっては、あの子達の言葉を認めてしまうことになりそうで、グッと耐え忍ぶ。
「(ふうまくんも、なにかいってよ……)」
変じゃないよって。
普通だよって。
だが、一番の仲良しであるはずの風麻からは、何の言葉もなかった。
今思えば、きっとなんと言って励まそうか、彼なりに一生懸命言葉を探そうとしていたのかもしれないと思えるが、当時の緑依風は、最も信頼する友からの慰めの言葉が無いことが、余計に悲しかった。
*
その日の夕方。
元気の無い娘の様子に気付いた母の葉子が、緑依風にその理由を尋ねた。
緑依風が名前のことを悪く言われていることを話し、どうして自分の名前を『緑依風』にしたのか尋ねると、すぐそばで話を聞いていた父の北斗が、名前の由来を教えてくれた。
「……緑依風は、緑の葉っぱがいっぱいの季節に生まれただろう?その葉っぱが風に揺られると優しい音がして、聴いた人の気持ちを癒してくれるんだ。緑依風には、その葉っぱと風のように、人の気持ちを安心させてくれる優しい子に育って欲しいって、お母さんが考えてつけてくれたんだよ」
北斗は緑依風の小さな手を包み込み、ゆっくりと優しい声で教えてくれた。
だが、そんな話を聞いたところで緑依風の気持ちは晴れない。
最初に名前を指摘した男児達からは、すっかりからかいの対象とされてしまったし、あの三人組以外にも彼らと同調する子達の言葉を思い出すと、幼稚園に行くことが怖い。
それでもなんとか勇気を振り絞って通うことができたのは、晶子の存在が大きかった。
晶子は緑依風のことを気遣い、いじめっ子が来ると別の場所に連れ出してくれたし、お遊戯の間に緑依風にちょっかいを出そうとするものなら、すぐにそれを先生に報告してくれた。
利久は、晶子のように守ってくれるわけでは無いが、緑依風の味方でいてくれたし、元々ああいうタイプは大嫌いなようで、「いつかおおきなバチがあたるよ」と、言っていた。
風麻は相変わらず、緑依風の名前について何も言わない。
三人組の肩を持つわけでもなければ、晶子達のように緑依風側についてくれるわけでもない。
あの発言以来、幼稚園で一緒に遊ぶことは減り、たまに誘ってくれたとしても、風麻と遊ぶ男友達の中には、緑依風の名前を疑問に思っていた子の一人がいたし、「しょうこちゃんとあそぶから」と言って断っていた。
*
しばらくして、幼稚園は夏休みに入った。
毎日いじめっ子と顔を合わせずに済むことにホッとしていた緑依風だが、園内のプールが解放される日に、風麻が「りいふちゃんもいっしょにいこう!」と誘ってくれた。
あまり気乗りしなかったが、葉子の勧めと晶子や利久も行くと聞いていたので、それならと思って参加することにした。
だが、そこにはあの三人組もいて、その日のいじめは夏休み前よりも酷いものへと変わっていた。
「おい、はっぱ」と言われるだけならまだしも、着替えの最中に靴下を取られたり、通園時に被る緑依風の帽子をフリスビーのように投げて遊び始めたり。
先生が注意しても、おとなしくなるのはその時だけで、お迎えの時間になり、晶子や利久が先に帰って、先生の目が離れると、それを絶好の機会といわんばかりに、いじめっ子達はひとりになった緑依風の前へ群がってくる。
無視しよう。
お母さんも晶子ちゃんも相手にしちゃダメって言ってたから。
そうすれば、いつか飽きてやめてくれるから――。
そう思い、緑依風は彼らに浴びせられる心無い言葉に耐えていたが、突然後ろから髪を強く引っ張られ、短い悲鳴を上げる。
「いたっ!」
「あれ~?はっぱだからすぐちぎれるとおもったのに~」
「……っ」
ようやく反応を示した緑依風に、他の二人も続いて腕や服などを引っ張り、緑依風が嫌がる様子を面白がって笑っている。
その笑い声を聴きたくなくて、耳を塞いで母の迎えが来るまで我慢しようとすると、今度は手拍子をしながら酷い言葉を緑依風に浴びせてくる。
「(だれかっ……せんせい、おかあさん……っ、しょうこちゃんっ……!)」
心の中で助けを求めた途端、ずっと堪えてきた涙が溢れ出し、緑依風はその場に蹲って泣きだした。
誰でもいいから助けて――!
緑依風はそう願うが、担任の先生は他の園児の保護者との話で気付いていないようだし、雑談を楽しむ親達も見て見ぬふりだ。
誰も助けてくれない。
晶子もおらず、母もいつも通りの時間に来てくれないことに絶望している時だった。
「うわぁっ!」
――と、いじめっ子のリーダーの叫びが聞こえた。
「(えっ……?)」
緑依風が顔を上げると、まんまる太った体の彼が地面に転がっており、反対を見れば右手を握り締めた風麻が、息を荒げながらリーダーを睨み付けている。
「りいふちゃんを、いじめるなっ!!」
風麻が顔を真っ赤にしてそう言い放つと、「なにすんだよぉっ!!」と、今度は起き上がったリーダーが風麻に仕返しと言わんばかりに彼の頬を殴る。
「あっ――!」
緑依風が短く息を呑んで、倒れ込む風麻を見れば、彼はすぐにまたいじめっ子達に向かっていき、取っ組み合いのケンカになってしまった。
*
その後、騒ぎにようやく気付いた先生によってケンカは仲裁された。
保護者も混ぜた話し合いの後、風麻は伊織から相手に怪我をさせてしまったことを注意されていたが、彼は全然懲りてない様子で、「ふーんだ!ぼく、わるくないもーん!」とそっぽを向いた。
「ぼく、わるものやっつけただけだし!りいふちゃんもそうおもうでしょ?」
そう言って、風麻は誇らしげな笑顔を緑依風に向ける。
だが、緑依風はこのことを素直に喜べなかった。
あの時助けてくれた風麻には感謝している。
しかし、そのせいで風麻は全身傷だらけ。
伊織や先生にも叱られてしまった。
そんな痛々しい友の姿を見ていると、『ありがとう』なんて言葉は言えなかった。
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