第336話 お疲れ様(後編)


 冬丘街の駅で、爽太はぼんやりと佇んでいた。


 これできっと、ようやく終わった――。


 逢沢や森田達と会っていた時間は、十分程度と短かったが、とても長い時間あの場にいたような気がして、なんだかひどく疲れた。


 電車に乗ると、カタンカタン――と、軽快な音と心地よい揺れに、爽太はついウトウトとしてしまうが、何とか寝過ごすこと無く夏城駅で下車し、改札を出る。


「あ、雪だ……」

 白く、細かい雪が空から舞い降りて、爽太は手のひらを差し出し、溶けゆく様を眺めた。


 傘は無い。

 雪の量もだんだん増してきたが、爽太は家とは違う方向に向かって歩き、今すぐ会いたい人の元を目指す。


 ピンポーン――と、相楽家のインターホンを鳴らすと、「はーい!」と亜梨明の明るい声が聞こえた。


 ガチャッとドアが音を立てて開くと、扉の向こうにいる亜梨明は、やや青白い顔で微笑む爽太を見て、「お疲れ様……」と出迎えてくれた。


「さっき、お母さん達買い物に行っちゃって、今一人でお留守番なんだ」

 亜梨明はそう言いながらスリッパを用意し、爽太を家の中へ招く。


「外寒かったよね?雪すごく降って来たし――?」

「…………」

 スリッパを履いた爽太は、リビングへ案内しようとする亜梨明を後ろから抱き締め、腕の中へ収める。


「お別れ、ちゃんとしてきた……。頑張ったよ……」

「うん、頑張ったね……」

 亜梨明が自分を抱き留める爽太の腕に触れて言うと、爽太は「もっと褒めて……」と、亜梨明を正面に向き直らせた。


「うーんと……爽ちゃん、よく頑張りました!」

 亜梨明は爽太の頭を撫でようと、背伸びをしてつま先立ちになる。


「もっと……」

 爽太は、亜梨明が自分の頭を撫でやすいように背中を丸め、まだ足りないとおねだりした。


「よしよしよしよし……」

「まだまだ……」

「え~っ……」

「まだ、ダメ……もっといっぱい撫でて褒めて……」

 爽太がしつこくまだ、まだと強請り続けると、亜梨明はクスッと笑って、「今日の爽ちゃん、小さい子みたい!」と言いながら、彼のふわふわの髪の毛を両手でたくさん撫でまくった。


 爽太は、褒めるどころか『小さい子』なんて言われてちょっぴり、むっと口先を尖らせたが、きゅっ……と、亜梨明に優しく抱き締められると、安堵したように深いため息をつき「ありがとう……」と礼を言った。


 *


 抱擁を解くと、亜梨明が温かい飲み物を用意すると言って、爽太をリビングに通してくれた。


 爽太が上着とマフラーを取って、ソファーに座ろうとすると、テーブルの上には絵描き歌の本と、うさぎっぽい何かの絵が描かれたらくがき帳が広げられている。


「さっきまでね、うさぎの絵の曲考えてたんだ!まだ完成はしてないんだけど、イメージは湧いてきてて……」

 亜梨明はそう言って、電気ケトルのスイッチを入れ、マグカップを二つ取り出した。


「あ、爽ちゃん何飲む?今ならココアも紅茶も、カフェオレもあるけど……」

「ピアノが聴きたい」

「えっ?」

 亜梨明が首を傾げると、爽太は「飲み物より先に、亜梨明のピアノが聴きたい……」と、リビングのグランドピアノに目を向けた。


「亜梨明と僕が――初めて出会った時に聞いた、あの思い出の曲……」

「新しいのじゃなくて?」

「うん……。今は、あの曲がすごく聴きたいんだ……」

「わかった……」

 亜梨明はマグカップを置くと、ピアノの椅子に座り、ソファーに座る爽太に微笑みを向けた。


「…………」

 静かに、静かに――二人を繋いだ音楽が、リビングに響き渡る。


 爽太は、亜梨明の奏でる音色一つ一つを聴きこぼさないように目を閉じ、曲に意識を集中させた。


 耳元へ流れる、懐かしくて心地よい音楽が、疲れ切った爽太の心の中へ綺麗な水のように沁み込んでいく――。


 幼い頃と同じだ。


 寂し気で、ほんのり切なさを感じるのに、優しくあたたかな気持ちになれるこのメロディーが、爽太の心を癒し、救ってくれる――。


 安心したせいなのか、強い眠気が再び爽太の元に戻ってきた。


 ――が、彼はそれに抗うことはせず、亜梨明のピアノの音を聴きながら、幸せな気分で眠りについた。


 *


 演奏を終えると、亜梨明は「ふぅ~っ」と大きく息を吐き、爽太が座る方へ振り返った。


「えへへっ、久しぶりに弾いたけどどうだった?」

 亜梨明が爽太の反応を楽しみにしながら近寄ると、彼はソファーに身を任せ、スースーと寝息を立てている。


「あ、あれ……?寝ちゃったの……?」

 返事が無いとは思ったが、眠っていたとは――と、亜梨明は少々戸惑いながら彼の寝顔を見つめる。


「あ……」

 爽太の長いまつ毛に残る、涙の跡。


 亜梨明は一瞬、悪い夢でも見ているのではないかと心配になったが、彼の寝顔はまるで微笑んでいるような、穏やかで柔らかいものだった。


「(悲しいんじゃなくて、ホッとしたのかな……?)」


 きっと、今日のことだけではない。

 同窓会の日から、爽太はずっと気を張り続けていたはずだ。


「爽ちゃん、お疲れ様……」

 亜梨明は、もう一度労いの言葉を掛けながら爽太の頬に触れ、貴重な彼の寝顔をじっと観察する。


「うーん……寝顔も本当に綺麗だなぁ……」

 女性としてはちょっぴり悔しい気もするが、見ているうちに愛おしい気持ちが抑えきれなくなった亜梨明は、爽太が起きぬようにそーっと顔を寄せて、軽いキスをした。


「……っ、ひゃ~っ!ホントにしちゃった……!」

 爽太に気付かれぬよう、声を出さずに叫んだ亜梨明は、自分の両頬を押さえながら静かにその場で悶絶する。


「……と、とりあえず風邪引かないようにあったかくしてあげて、爽ちゃんには、寝てる間にチューしたのバレないようにしなきゃ……!」


 亜梨明はそんな独り言を呟きながら、ブランケットを爽太にかけ、何事もなかったかのように、作りかけの絵描き歌の作曲に取り掛かる。


 爽太は、亜梨明の行動に気付くことなく、安心しきった顔で眠り続けた。


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