第315話 水族館(前編)


 十二月二十四日の朝。


「んじゃ、行ってくる!」

 風麻が待ち合わせ時間の二分前に家の外に出ると、隣の松山家からもドアが開く音が聞こえた。


「おはよーっす」

「おはよう」

 緑依風が扉を締めながら振り向き、挨拶を返すと、風麻はそんな彼女の雰囲気がいつもと違うことに気付く。


 頬がほんのりと桜色に染まり、目元にほのかな陰影がついて、普段より大人っぽさを感じる。


 唇も艶やかで、開かれたグレーのダッフルコートのから見える服装も、いつもより優雅さを感じるスカートだ。


「あ、化粧……してる、のか?」

「えっ?う、うん……星華に、教えてもらったの……」

 緑依風がそう言って横髪を掻き上げると、今日はいつものイヤリングはしていないが、代わりに風麻が彼女の誕生日にあげた、葉っぱのネックレスが首元にある。


「服……も……はじめて、見るやつだな……」

「うん、私ファッションにうといから……晶子達が選んでくれて……」

「…………!」

 風麻は、ネックレスのすぐ下の強調された部分に目線が行くと、急に顔がカッと熱くなるのを感じ、慌てて視線をずらす。


 緑依風は、風麻が無言のまま顔を逸らしてしまうと、変な格好だと思われたと勘違いし、「ごめん、浮かれ過ぎたかな……」と気まずそうに俯く。


「い、いや!そーじゃなくてっ!!普段と違うから、びっくりしたというか……なんつーか……あの……めっちゃいいし、に、にあってる……っ!」

 風麻が照れくさそうに感想を伝えると、緑依風も彼が嫌ではなかったと安心し、「そっか、よかったぁ……」と顔を上げ、「じゃ、早く行こう!」と歩き出した。


「(ただ、その……目立つんだよな、胸が……)」

 ――という感想は、風麻の心の中でのみ述べられた。


 *


 緑依風を追いかけ、手を繋いだ風麻は、歩きながらチラチラと横目で彼女を見ては、むず痒い気分になっていた。


「(化粧のせい……だけじゃ、ないよな……)」


 近頃また、緑依風の姿が『少女』から『女性』へと変化してきている気がする。


 横顔も、体つきも――半年前より大人に近付いて、日に日に美しく成長していく。


 風麻が、寂しさと期待と恥ずかしさが混ざった、何とも言えない感情を渦巻かせていると、「今日は昨日よりあったかいね」と、緑依風が言った。


「――えっ?あ、あぁ……そう、だな……」

 我に返った風麻がぎこちなく返事をすると、「さっきからどうしたの?」と、緑依風が上目遣いになって聞く。


「な、なにが?」

「様子が変……」

「あ……」

 緑依風の表情が心配そうなものになると、風麻の脳裏に、爽太の言葉が蘇る。


「あ~……ちょっと、緊張……してるかもしんねぇ。初デートだし」

 風麻が誤魔化すと、「緊張~?」と、緑依風が首を傾げた。


「お前はしてねぇのかよ……」

「してるよ、ちょっぴり。でも、それより楽しみな気持ちの方が大きくて!水族館だし、風麻と二人っていうのが……嬉しいから」

 緑依風がそう言って微笑むと、風麻も自然と口元が緩み、「俺も……今日が超楽しみだった」と言って、緑依風と繋ぐ手に軽く力を込めた。


「(そうだ……今日は緑依風の笑った顔たくさん見るって決めたんだ!俺がぼんやりしたり、しょげたりして緑依風に心配かけたら、楽しめなくなっちまう)」

 風麻は自分の心に言い聞かせると、改めて、今日のデートで緑依風を楽しませることへ、気合いを入れ直すのだった。


 *


 夏城駅に到着すれば、風麻や緑依風と同じくデートでどこかへ行こうとする人と、クリスマスイブというイベントも関係無く、仕事へ行く人でホームは少々込み合っていた。


 電車が到着すると、椅子はもう座れる場所が無く、立ったまま乗車している客が多かった。


「つり革、掴まれるか?」

「うん、今のところなんとか……」


 これだけ人がいると、緑依風をどこに立たせれば安全なのか……。

 風麻は自分達の周りにいる乗客の姿を確認し、緑依風の左側へと回り込む。


 人が多い車内では、夏休みの時のように、若い女性を狙う者が潜んでいるかもしれない。


 そう思った風麻は、自分がスーツを着用した男性側になるように立ち、緑依風を中年女性の隣に立たせ、彼女がなるべく他の人と触れ合わぬよう、自分の体で壁を作った。


 しかし、冬丘駅に到着した所で、人は更にたくさん乗り込んできた。


 乗車してくる客に合わせて、奥へと詰めていけば、通路の真ん中へと追いやられてしまい、風麻はかろうじて手を伸ばしてつり革を握れたが、緑依風は届かない。


「大きく揺れたらこけちゃいそうだなぁ……」

 緑依風が、伸ばした手を引っ込めながら、転倒への不安を口にすると、風麻はそんな彼女を自分に抱き寄せ、「俺に掴まってろ」と言った。


「……っ、うん……!」

「…………」

 風麻は、自分でも恥ずかしいことをしてるなと自覚はあったものの、彼女の安全――何より、緑依風が嬉しそうにしがみ付いているので、「ま、いっか……」と心の中で呟き、緑依風を支えた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る