第310話 陥落
期末テストが返却された日。
梅原先生から手渡された、白い紙の数字を見た緑依風は、短く息を呑み、動揺していた。
「(……どうしよう)」
いつもなら、赤と青の色をした『1』の文字が並んでいるはずの紙。
だが、開いた紙の中に記されているのは、赤い『1』と青い『2』
学年二位。
一年生の頃から常に学年トップを維持し続けていた緑依風にとって、初めての首位陥落。
主な原因はわかっている。
社会のテストで、解答欄をひとつ空けてしまっていることに気付くのが遅れ、試験終了間際になって、慌てて修正したものの間に合わず、そのまま提出することになってしまったのだ。
不幸中の幸いで、訂正できなかった部分の問題は、一問の加点が小さかったため、それほど大きな減点にはならなかった。
テスト点数も九十二点と、酷い点数にはならずに済んだ。
だが、その結果がこうだ。
一位の人間よりも、一問でも正解数が少なければ一番にはなれない。
あの時、もっと早く気付けていれば――。
それよりも、解答欄を最初から正しく埋めることができていれば……。
今更悔やんでも、後の祭りだ。
「(お母さん、何て言うだろう……)」
将来に向けた修行の一環として、休日に父の店で手伝いをさせてもらうために母が提示した条件は、テストの成績で学年十位以内を維持すること――。
学年二位なら、充分条件を満たしている。
しかし、母の日頃の言動を思うと、「二位でも充分頑張った」なんて言うはずが無い。
そもそも、この条件も最初はもっと簡単で、テストの点数を八十点以上キープできればいいという約束だった。
それが、中学校最初のテストで学年一位を取ってしまったが故に、母はさらに条件を厳しいものへと変更し、こうなってしまったのだ。
好きなことをするためには、頑張って努力しなきゃ――。
緑依風はそう自分に言い聞かせ、本当は好きでもない勉強を必死にこなしてきた。
成績が下がれば、手伝いを辞めさせ、進学塾に通わせると言われている緑依風は、
自由な時間を奪われるかもしれない不安で、胸が詰まりそうになっていた。
*
夜九時半――。
妹達が寝静まった頃、緑依風は母の葉子にテストの結果を見せるように言われ、暗い面持ちでテーブルにそれを置いた。
百点を取った理科、国語、家庭科を上の方に置き、一番下に社会のテスト。
「うん、悪くはないわね――。社会だけ後半が不正解続きなのが気になるけど……」
「あ、その……解答、ずれちゃって……」
「ずれ……?」
葉子がピクッと眉を動かし、目の前で縮こまる緑依風を見る。
「……それで、順位は?」
「…………」
緑依風が小さな紙を渡すと、葉子は無言で受け取り、折りたたまれた紙を開く。
「……十位以内を維持できれば、少しくらい下がってもいいと思った?」
葉子の冷たい声に、緑依風が小さく首を振る。
「考えてもわからないっていうなら、まだ目を瞑ってられたけど……うっかりで減点して順位を落とすだなんて、完全に油断よね?」
「はい……」
本音では、「それでも九十点代を取れたのだから、大目に見て欲しい」と、緑依風は言いたかったが、そんなことを言えば余計に面倒なことになるので言えない――言ってはいけないと思い、大人しく頷く。
すると、玄関の方から「ただいま」と、帰宅したことを知らせる父、北斗の声が聞こえてきた。
北斗はドアを開けると、リビングに漂う重苦しい空気に眉を
「緑依風の成績が落ちたの」
「え……?」
「…………」
俯いたままの緑依風を見た北斗は、「そんなに酷かったのか?」テストを手に取るが、葉子がここまで不機嫌になるような点数ではない。
だが、順位が書かれた紙を見て、その理由を察すると、「葉子……」と妻に向き直る。
「このくらいのことで、緑依風にそんな顔をさせる必要があるか……?」
「…………」
葉子が無言のまま頬杖をつく。
「君の言いつけはきちんと守ってる。二位でも充分じゃないか……」
「…………」
北斗は、自分の言葉に返事をしない妻を見て肩を落とすと、「緑依風、落ち込むことないよ」と、娘の頭にそっと手のひらを置き、励ましの言葉を掛けた。
「緑依風の学年には、他にも賢い子がたくさんいるんだろう?そんな子達の中で勝ち続けて来たんだ。たまにはこんなこともあ――」
「甘やかさないでっ!!」
葉子が急に叫ぶような声を出し、北斗と緑依風はビクッと体を震わせる。
「あなたがそうやって、緑依風を甘やかして好きなことばかりさせるから、一番になれなかったのよ!」
葉子が椅子から立ち上がって夫を責めると、「どうして君はいつも勉強、勉強ばかりなんだ!」と、北斗も負けじと妻に言い返す。
「勉強ばかりが人生じゃない!緑依風の好きなことを伸ばして褒めてあげようって気持ちに、なんでなれない!?それだけじゃない……君に代わって家のことを手伝ってくれる娘に、何故もっと優しくしようって思えないんだ!?」
「甘やかすだけが優しさだなんて思ってるあなたに、何も言われたくないわ!!」
二人の言い合いがどんどんエスカレートしていくと、「もういい!やめて!!」と緑依風が二人の間に入って、ケンカを仲裁する。
「そんなに大声出してたら、千草と優菜が起きちゃう……」
緑依風の言葉を聞いた途端、二人はハッと我に返り、赤い顔のまま静かになった。
緑依風は、テーブルの上で乱雑に広がったままのものをまとめると、「私も、もう寝るから……」と言って、ドアノブに手を添えた。
「お母さん、次はまた一番になれるように頑張るから……。お父さん、庇ってくれてありがとう……おやすみなさい……」
両親に背を向けたまま、緑依風はそう言ってリビングを出て、自分の部屋へと向かう。
そして、部屋のドアをパタン――と締めると、そのまま床へ座り込み、静かに涙を流した。
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