第305話 恋人らしいこと(前編)


 翌朝。


 雨の匂いが残る朝の道を、奏音と共に歩く亜梨明は、前日の爽太の行動が頭から離れず、悶々としたままだった。


「それは怒ってんの?悲しんでるの?」

 奏音が、昨日から何とも言えない顔をしたままの姉に言うと、「わかんない……」と、亜梨明は返す。


 上がり目になったり、下がり目になったり、ほっぺが膨れたりしぼんだりを何度も繰り返す亜梨明。


 きっと、あの時爽太はキスしようとしてくれていた。


 緊張で身構えてはいたが嫌じゃなかったし、ずっと望んでいたことだ。

 

 それなのに、彼は「ごめん」と謝り、逃げるように走り去っていった。


 嫌がっているような顔をしてしまっただろうか。

 それとも、嫌だと思ったのは爽太の方だろうか?


 そう考えているうちに、爽太がいつもの待ち合わせ場所に立っている姿が、亜梨明の視界に入る。


「おはよ、日下」

 奏音が爽太に挨拶すると、彼も「おはよう二人共」と挨拶をした。


「おは、よう……ござい、ます……」

 亜梨明が敬語混じりでぎこちない挨拶をすると、いつも通りを振る舞おうとした爽太も気まずくなったのか渋い顔になり、「……行こっか」と、学校に向かって足を進めた。


 *


「緑依風ちゃん、ちょっとだけ坂下くん貸してっ!!」


 教室に到着し、荷物を置いた亜梨明が、大声で緑依風に叫ぶ。


 亜梨明の気迫に、緑依風は少々戸惑いながらも、隣にいた風麻に手を差し出し、「ど、どうぞ……」と言って許可した。


 亜梨明は、「ごめんね、すぐ済むから」と緑依風に謝ると、風麻についてくるよう促し、風麻は「えっ、なんで俺??」と、困惑しながら亜梨明と共に教室を出て行った。


「どうしたの亜梨明ちゃん……?」

 緑依風が奏音の元へと近寄り、そっと尋ねる。


 奏音は、マフラーを外しながらため息をつくと、「もう説明するのもバカらしくなるよ……」と言ってジト目になり、呆れ果てていた。


 一方、いつもと違う亜梨明に校舎の一番端まで連れてこられた風麻は、ちょっぴり緊張した様子で、ソワソワしながら立ち尽くしている。


「……こんなとこまで連れてきて何の用だ??」

 風麻が、周囲に誰もいないことをキョロキョロと確認している亜梨明に聞いた。


 すると亜梨明は、神妙な面持ちで風麻を見上げ、「変なこと聞くけど、正直に答えてね……」と言い、キュッと目に力を込めた。


「あのね……緑依風ちゃんと初めてキスした時、どんな感じだった!?」

「はあっ!?」

 予想の斜め上を行く内容に、風麻の甲高い声が響く。


「初めてチューした時、どうしてそうしたいって思った?緑依風ちゃんがどんな顔してる時にしようって思う?したいって思うフンイキって!?お願い教えて~っ!!」

「ちょっ、ちょちょちょ待て!まずどうしてそんな話になったんだ!?」

 赤面し、狼狽える風麻は、両手を合わせて必死に乞う亜梨明から、とりあえず事情を聞き出そうとする。


「――なるほどな。爽太に寸止めされて、逃げられたと……」

「うん……。だから、男の子側の意見が知りたくて……」

 亜梨明が、じんわりと目に涙を浮かべながら言った。


「昨日の夜、お父さんにどんな時にお母さんにキスしたいって思うのか聞いたんだけど……はぐらかすし、部屋に籠っちゃうしで、教えてくれなくて……。男の子でそういうこと聞けそうな子って、坂下くんしか……」

「そりゃ普通、娘にそういうこと教えたい父親なんていないだろ。……ってか、よく聞けたな」

 風麻は亜梨明の父に同情しながら、「相楽姉のためにやめたんじゃねーの」と言った。


「前にも言ったけどさ、爽太は相楽姉のことをすごく大切に思ってる。多分、爽太は自分がもし気付かぬ内に風邪引いてて、それを伝染うつしたら……って、ことを考えたのかもしれないな」

「……っ」


 大事にされてる。わかってる。幸せなことのはず。

 それなのに、爽太のその気持ちを上手く消化できない亜梨明は、俯くしかできない。


「爽ちゃんが責任を感じてできないなら……やっぱり私からするしかないのかな……」

 亜梨明が俯いたまま、ぽつりと呟く。


「え?」

「爽ちゃんがもし私に何かあって、「自分のせい」って思っちゃうなら、私からすれば、爽ちゃんが悪いことにはならないよね……」

「いや、それは……」

「キスしたいのだって、私のワガママだもん。本当は、爽ちゃんからして欲しいけど……私が自分でそうしたんだったら、全部私のせいで爽ちゃんは悪くないでしょ?」

 亜梨明はそう言って、風麻の顔を見上げると、「……って、無茶苦茶だよね」と、自嘲するように笑い、肩を落とした。


「でも、私……爽ちゃんとの距離をもっと縮めたい。坂下くんや緑依風ちゃん達みたいに――恋人同士じゃないとできないこと、してみたいんだ……」


 風麻はまた、この間の時のように怒るだろうか。

 自分本位なことばかり言って、爽太の気持ちを無下にしようとしたことを――。


 亜梨明がそう思っていると、風麻は「ふっ……」と息を漏らし、「自分からするのはやめてやれよ」と言った。


「そこはやっぱり、男の方からリードしたいもんだ」

「でも……」

「爽太の彼女なら、そこは理解してやれ。それに……相楽姉からしたところで、結局その時爽太が風邪引いてたら、あいつが責任感じることに変わりはないと思うぞ」

「…………」

 風麻に指摘されると、亜梨明はそうなってしまった時のことを想像し、押し黙る。


「……ま、相楽姉の気持ちもわかるよ。誰かを好きになったり、その人としてみたいことってのは、丈夫だとか、そうじゃないとかは関係ねぇ。でも、今はまだその時じゃないんだろ」

「…………?」

 亜梨明が首を傾げると、風麻は「爽太と相楽姉の気持ちが、向き合っていないと意味無いだろ」と言った。


「あ……」

「俺が、そのっ……緑依風にキ……っ、そうしようとした時は……今の緑依風だったら、大丈夫だって思ったからで……。他のも……したいって気分になった時に、緑依風もそれに気付いてくれてるって、空気で感じるんだ。そうじゃないって時は我慢だってするし、緑依風が同じ気持ちで受け止めてくれなさそうな場合は、絶対にしない。俺の気持ち優先にして、緑依風を傷付けたら本末転倒だからな……」

 風麻は慎重に言葉を選び、照れながら、亜梨明の最初の質問に答えた。


「相楽姉がよくても、爽太がまだ乗り気になれないうちは、後味が悪くなるかもしれない。初めてのがそれじゃ、嫌な思い出になっちゃうだろ。そんなのもったいないじゃん」

「うん……」

「爽太は、相楽姉と“したくない”わけじゃないんだ。それは俺の考えじゃなくて、爽太本人が言ってた。だから、あいつがその気になるまで、もう少し待ってやれ」

 風麻から爽太の本意を聞いた亜梨明は、ようやく不安が和らぎ、「わかった」と言って頷いた。


「さて……もう予鈴鳴るだろうし、教室帰るぞ」

「うん、坂下くんありがとう!」

 気持ちが軽くなった亜梨明は、くるっと回れ右をして教室へ戻る。


 風麻は、亜梨明の後ろを歩きながら「愛されてんなぁ~」と小声で呟き、爽太へのフォローを考え始めた。


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