第304話 背の高いきみと


 終礼を終えた後も、亜梨明の心はほわほわとした温かい気持ちに包まれ、部活中も顔が緩みっぱなしだった。


 亜梨明のニコニコの理由を聞いた、他のクラスのメンバーの反応は様々で、星華は「え~っ、一人だけ賢くならないで~!」と焦り、晶子は「おめでとうございます!」と。


 楓は特に何も言わなかったが、亜梨明と目が合うとにっこりと笑って、内心では「よかったね」と思ってくれていることがわかる。


 皆が褒めてくれることで、亜梨明はますます嬉しさいっぱいになるが、一つ気になっているのは緑依風のことだ。


 みんなと話している時はいつも通りだが、会話が途切れると急に表情を陰らせ、不安げに瞳を揺らしている。


 気になった亜梨明は、緑依風に何かあったのかと尋ねてみたが、話しかけられた途端彼女は笑顔を作り、はぐらかすだけだったので、それ以上は聞かないことにした。


 *


 部活を終えた頃には、外はもう真っ暗だった。


 途中まで一緒に帰っていた緑依風や風麻達と別れた後、亜梨明は家まで送ってくれる爽太に、テストの成績がクラスで十位以内に入れたことを告げた。


「――えっ、本当!?」

 爽太は亜梨明の話を聞いた途端、パアッと笑顔になり、「おめでとう!」と喜んでくれた。


「ありがとう!爽ちゃんに比べたら、全然かもだけど……」

「ううん、ずっと学校を休んでいたのに上位に入れたのは、やっぱりすごいことだよ!」

「でもね、私一人で勉強してたら、いい点数なんて取れなかったと思う。爽ちゃんがいっぱい勉強教えてくれたおかげ!ありがとう、爽ちゃん!」


 亜梨明が感謝の気持ちを伝えると、爽太は「僕は、教えただけだよ」と謙遜し、「……結果を出せたのは、亜梨明の力だ!」と言った。


「――実は、僕も亜梨明に報告があって……」

 爽太はそう前置きすると、かしこまるように肩に掛けているスポーツバッグを持ち直す。


「今回の期末テスト……初めて、学年一位になれたんだ!」

「学年一位!?」

「うん!……ほら、これ!」

 亜梨明が爽太から渡された紙を開くと、赤と青の『1』という文字が、二つ並んでいた。


「すごい……!おめでとう爽ちゃん!!」

 亜梨明が小さく拍手をしながら、爽太の功績を讃えると、爽太は「ありがとう!」と嬉しそうに微笑み、亜梨明から返してもらった紙をコートのポケットにしまった。


「……今回一位になれたのは、多分亜梨明のおかげかも」

「私の……?」

「うん……。亜梨明に教えながら一緒に勉強したおかげで、しっかり復習できたし、自分がつまづきやすいポイントとかも、見つけることができたから。だから……僕の方こそ亜梨明に感謝してる!」

「そっ、それこそ私何もしてないし、爽ちゃんの実力だよ!」


 亜梨明が軽く手を横に振りながら言うと、爽太は「ははっ」と笑い、「じゃあ、二人で頑張ったおかげってことで!」と言った。


「また次も、一緒に頑張ろう!」

「うん!次は学年十位目指しちゃう!」

 爽太が亜梨明の頭にポンっと手を置くと、亜梨明は元気良く頷き、次の試験に向けて意気込みを見せる――が。


「あ……でも、爽ちゃんが一位ってことは……今回……緑依風ちゃんは二位以下ってことだよね……?」

 ピタリと足を止めた亜梨明は、終礼時間の緑依風の様子を思い出した。


「緑依風ちゃんのお母さん、確か勉強とか成績にすごく厳しい人だって言ってたよね……?大丈夫かな……?」


 成績が下がれば、パティシエールへの修行の一環としている店の手伝いを禁止すると、母の葉子に言われている緑依風。


 あの時、緑依風が動揺していたのは、その事への不安だったのではと思うと、亜梨明は急に親友のことが心配になった。


「松山さん、今回はクラス順位どうだったの?」

 爽太が聞くと、「最初に呼ばれたから、一位だと思うよ」と亜梨明は答えた。


「……まぁ、松山さんのことだから、学年十位以内には入ってると思うし、松山さんがお母さんに出された条件もそうだったよね?」

「うん、学年十位ならセーフって……」

「それなら、きっと大丈夫だよ!」

「……そうだね」


 いくら緑依風の母親が教育熱心だとしても、首席から陥落したくらいじゃ、そんなに怒られることもないだろう。


 葉子のことを深く知らない亜梨明と爽太はそう思い、再び暗くなった道を歩き始めた。


 すると――。


「あっ……?」

 ぽつり――と、亜梨明の頬に小さな雨粒が落ちる。


 それを合図に、雲に覆われた夜空からは、ぽつぽつと雨が降り注ぎ、次第に強くなってきた。


「雨だね……」

 爽太が手のひらを上に向けて言った。


「うん……爽ちゃん、折りたたみの傘持ってる?」

「いや、今日は持ってないや……」

「じゃあ、今日はここまででいいよ。爽ちゃんが濡れて、風邪引いたら大変だもん……」

 亜梨明がそう言って、爽太を帰そうとすると、彼は「ちょっと待ってて……」と言いながらバッグのファスナーを開ける。


「これ、被ってて……」

 爽太は、部活で着ていた『NATSUSHIRO Vバレー.Bボール.Cクラブ』という文字が書かれた黒いジャージの上着を亜梨明の頭の上にそっと乗せた。


「重いし、ちょっと汗臭いかもしれないけど……まだ家まで距離あるし、濡れないように……」

「あ、ありがとう……!」


 汗というより、爽太が愛用している清涼感のある制汗剤の匂いと、彼自身の優しい香りがして、まるで爽太に全身を包まれているような気分になった亜梨明の顔は、恥ずかしさと多幸感で、真っ赤になる。


 爽太は厚手のスポーツタオルを被り、それを雨具代わりにすると、「このまま送るから」と言った。


 坂を登り切り、横断歩道を渡る頃には、ますます雨足が強まっていた。


 亜梨明はなるべく顔や頭が濡れないようにするために、ジャージの前を押さえ、雪ん子のような姿になる。


「爽ちゃんって、細いけどやっぱり大きいんだね。ジャージぶかぶかだ!」

「そりゃあ、亜梨明に比べたら大きいよ」

 爽太は頭の上のタオルを押さえながら笑った。


「でもでも、坂下くんと比べても背高いよね!大きい男の子、かっこいいと思う!」

「あっはは!小さい頃の僕が聞いたら、すごく喜ぶだろうなぁ〜!昔は僕、直希より小さかったから」

 爽太が言うと、亜梨明は「今は嬉しくないの?」と首を傾げる。


「うーん……嬉しいけど、身長差がある人と話す時、背中を丸めることが増えたから、猫背にならないか心配でさ」

「そうなんだ……ちなみに今、爽ちゃん何センチくらいあるの?」

 亜梨明が尋ねると、「春に測った時は172センチだったけど……多分、今はもう少し伸びてるかもね」と爽太は答えた。


「じゃあ、もしかして……私と話す度に爽ちゃんの姿勢悪くさせてる……?」

 亜梨明が四月に測定した時は、151センチだった。


「別にそれは気にしなくていいけど……亜梨明は怖くない?大きい人間に見下ろされたり、顔近付けられるの。大きいと、それだけで威圧感が出るっていうし」

 爽太が少し心配そうに聞くと、亜梨明はふるふると首を振り、「そんなことないよ!」と言った。


「全然怖くないし、私の目線まで合わせてくれる爽ちゃん、優しいなって思う!それにね……爽ちゃんの顔、普通に見上げるだけじゃ遠いから、近くなるとすっごく嬉しいんだ……」

「…………!」

 亜梨明の言葉に、爽太が目を丸くすると、ちょうど彼女の家の前に到着した。


「あ、ビニール傘だけど、予備の傘あるから帰りはそれさして帰って!私、取って来るね!」

 亜梨明が傘を取りに一旦家の中へ入ると、爽太は熱くなる顔を隠すように俯いて、両手でタオルをぎゅっと握り締める。


「今のは、ずるいよ……っ」

 爽太は小声でそう呟くと、先程亜梨明が言った言葉を何度も頭の中で繰り返し、胸を高鳴らせていく。


 しばらくすると、亜梨明が「おまたせ~!」と言いながら、家の外へと出てきた。


「ジャージ、貸してくれてありがとう。濡れたとこ拭いたんだけど、もし良かったら洗って返してもいい?」

「いや、どうせ洗うつもりのものだし、家に持って帰るよ」

 爽太は亜梨明からジャージを受け取り、タオルと一緒にバッグの中へとしまった。


「それから、傘……お母さんが、車で爽ちゃんちまで送るって言ってるけど、乗って行かない?」

「ううん、それだと僕が亜梨明の家まで送った意味無くなっちゃうし、雨も小降りになったから、歩いて帰るよ」

「そっか、ごめんね……」

 亜梨明が少し小さくなって謝ると、爽太はゆっくりと背中を丸めて、亜梨明の顔を見つめる。


「…………」

「な、なに?」

 亜梨明が黙ったまま自分の顔をじっと見る爽太にドキドキしながら聞くと、「……今、嬉しい?」と、爽太が言った。


「えっ、えと、えっと……」

「…………」

「うん、すごく嬉しい……。近くなるのすっごく嬉しいよ……」

 亜梨明が顔を真っ赤にして頷くと、爽太はそっと彼女の両肩に両手を置き、更に顔を近付ける。


「……っ」

 爽太の整った顔を目前にすると、亜梨明はドキドキと大きく鳴る心音が聞こえてしまわないか心配になり、キュッと胸の前で手を組み、目を閉じた。


「(も、もしかして……これは……っ!)」

 期待と興奮が高まる亜梨明は、瞼や唇にも力を込め、爽太との距離が縮まっていくのを感じながら、その時を待つ――が。


「……ッ」

 爽太の鼻先が亜梨明の顔に触れそうになった瞬間、彼はサッと彼女から離れ、距離を取る。


「……?」

 亜梨明が目を開くと、爽太は茹でられたように耳まで真っ赤になっており、口元を手の甲で押さえ、小さく震えていた。


「あ、あの……っ」

「――ごめんっ!!」

 亜梨明が声を掛けると、爽太は勢いよく頭を下げて謝った。


「爽ちゃ……っ」

「――かっ、傘っ……ありがとう!ま、また明日……っ!!」

「えっ……?」

 爽太は、亜梨明の手から傘をやや強引に受け取ると、それを開きもせずに持ったまま、濡れたアスファルトの道をバシャバシャと音を立てて、去って行った。


「…………」

 亜梨明はポカンとした顔のまま、爽太の背中が小さくなるのを眺めていたが、彼は一切振り向かずに走り続け、亜梨明の視界から見えなくなっていった。


 *


 自室のベッドに寝転がり、スマホで動画を観ていた奏音は、二階から駆け上がって来る足音を聞き、「ん?」と顔を上げた。


 そして、バン――!とノックも無しにドアを開けた亜梨明が、そのまま床に崩れ落ちるように座り込む姿を見て起き上がると、「……今度は何?」と、項垂れる姉の元へと歩み寄る。


「あと……もう少しだったのに~っ!!」

 詳しく話を聞かずとも、悔しそうに歯を喰いしばって喚く亜梨明を見て、爽太に関することだと察した奏音は、「あんたは本当に日下の悩みが尽きないね……」とため息をついた。


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