第296話 理想の教師


 炊飯器に残ったご飯を塩むすびにし、使った食器類などの後片付けを済ませると、時刻は午後五時十五分を過ぎていた。


「気を付けて帰るのよ~」

 部員達を調理室前で見送った梅原先生は、戸締りの確認をして、鍵を掛けると「はぁ……」と重いため息をつく。


 薄暗くなった校舎を歩き、職員室に戻ると、今は誰もおらず静かな空間だった。


「…………」

 梅原先生は自分の席に座るとギュッと目をつぶり、俯きながらまた深いため息をつく。


 つい数時間前まで頭の中で思い描いていたのは、部員達と一緒に楽しく料理をする光景。


 自らが中心となって、手順がわからず困っている生徒に優しくアドバイスをし、羨望の眼差しを受ける自分――。


 だが、実際に頼られていたのは部長の緑依風。


 おまけに、一緒に料理するつもりでいたのは自分のみで、みな自主的に取り組む姿勢を見せ、梅原先生が手助けする場面は、殆ど無いに等しかった。


「そりゃそうよね……」

 しんとした室内に、ぽつ……と、梅原先生の声が溶ける。


 今思い返せば、確かに一緒に実習をやると伝え忘れていたし、料理サークルの活動が開始されても、やらなければならない仕事に追われて、彼女達にずっとついていることができなかった。


 教師の仕事は想像以上に忙しく、元々何かを素早くこなすことが苦手な梅原先生にとって、それは気持ちの面でもかなり大きな負担だ。


 つい浮かれて、簡単に顧問を引き受けてしまったが、半人前の自分ではまだ無理だったのでは――。


 そう思い悩んでいると、ガラッと職員室のドアが開く音がした。


「あれっ、梅ちゃん先生!」

 職員室に入ってきたのは、ジャージから通勤時に来て着た服に着替えた波多野先生だった。


 波多野先生は、「お疲れ!」と言いながら梅原先生の二つ隣の席に腰掛け、梅原先生も「おつかれ、さまです……」と、力無い声で返す。


「どうしたの?実習あんなに楽しみにしてたのに……」

「…………」

 波多野先生は、暗い表情の梅原先生を見るなり帰り支度を一旦止め、話を聞こうと椅子に腰を掛ける。


 *


「あ~、そっかそっか~。なるほどねー……」

 組んだ足の上で肘をつく波多野先生は、しょんぼり顔の梅原先生の話を聞き、眉を下げて言った。


「…………」

 梅原先生はスカートの裾を握り締め、ちょっぴり唇を尖らせる。


「別にいいじゃないの。しっかりした子が部長を務めてくれてるのはありがたいことだよ?ラクだし、部員同士の結束力が強ければ、問題ごとも滅多に起きないし」

 波多野先生は背もたれに背中を預け、俯く梅原先生に言う。


「そもそも部活っていうのは、生徒が主体となってやるものでしょ。私達は生徒達だけじゃできない所をサポートして、安全に取り組めるようにするのが役目なんだから。梅原先生が主役じゃないんだよ」

 波多野先生の口調は柔らかかったが、その役目すら理解できていなかった自分の不甲斐なさに、梅原先生の心はますます苦しくなる。


「……私、やっぱり教師に向いていなかったんでしょうか」

 暗い声で呟くように言う梅原先生に、「まだ二年目でなーに言ってんの」と波多野先生が慰めるが、梅原先生は俯いたまま更に背を曲げて小さくなる。


「私、ずっと学校の先生になりたかったんです……。悩みを抱えやすい年頃の子供達にとって、身近な存在になれるお仕事……。すごくかっこよくて、そうなりたくて……勉強して、苦手だったこともなんとか乗り越えて……。ここに採用が決まった時、やっと夢が叶う。どんな生徒にもきちんと向き合って、支えてあげられる先生になろう!……そう、思っていました……」


 梅原先生は膝上に乗せていた手を組むと、ギュッと力を込め、今日までのことを振り返る。


「でも……いざ教師としての生活が始まったら、元気過ぎる生徒は怖くて、強く注意できないし。何か予想外のことが起きると、すぐ不安になって焦ってしまう……。松山さんが嫌がらせを受けた時なんて……生徒を心配する気持ちよりも、自分のクラスでいじめが起きてたらどうしようっていう、私自身のことを優先した方が大きくて……っ!こんなの……っ、私がなりたかった先生じゃない……っ!」


 教師になりたいと夢見始めた頃から、自分が教卓の前に立つ姿、たくさんの生徒に囲まれて、慕われる姿――様々な葛藤に苦悩する生徒に真摯に接する自分の姿を思い描いていた。


 しかし、今の自分は理想の教師像に程遠い、『教師』とは名ばかりの、弱い大人だ。


 梅原先生は目を赤くさせ、こんな人に誰が頼りたいと思うのかと、自分を責めた。


「――でもさ、逃げたことは無いじゃない」

「…………!」

 波多野先生の言葉に、梅原先生がピクッと肩を震わせる。


 顔を上げれば、波多野先生は頬杖をついたまま梅原先生を見つめていた。


「悪さした子に注意する時も、生徒同士のケンカを仲裁する時も、この間の事件の時だって……ちゃんとその場に駆け付けて、松山達を守ろうとしたじゃんか」

「それは……っ、当たり前のことで……」

「その当たり前を、ちゃんとできる先生だよ。梅原先生は……」

 波多野先生にそう言われた梅原先生は、なんと返そうか迷うように二、三度口を開きかけたが、やがてピタリと上下の唇をくっつけて、小さく下を向く。


「梅原先生も知ってるだろうけど、世の中には困ってる生徒を見て見ぬふりをする教師もいるし、生徒に困りごとを相談されても、解決しようともしないでほっておく人もいる。でも、梅原先生は問題が起こるたびに、「怖い」「どうしよう」って私や竹田先生達に助けを求めながらでも、生徒を放っておいたことはないじゃんか……」

「…………」

「まぁ、まだ学生気分抜けてないな~って、感じることは多々あるけども……」

「ははっ」と笑い声混じりに言った波多野先生は、パンっと音を立てて梅原先生の肩に手を置く。


「自信だとか、度胸だとかは、ちゃーんと場数を踏んでる内に身に着くもんだよ。向いてるか向いてないか決めるのは、まだまだ先でいいんじゃない?……ね?」

「…………」

 波多野先生の優しくも力強い眼差しを見つめ返していると、梅原先生の心に再び元気が戻ってきた。


「はい……!」

 梅原先生がようやく笑顔を咲かせて頷くと、波多野先生も安心したように静かに頷いた。


「それにね~!梅ちゃん、自分ばっか怖いって感じてるって思ってるかもしれないけど、私だって割とドキドキすること結構あったよ~!特に、この間の刃物持って暴れてる生徒なんて、あの時必死だったからそう思うヒマも無かったけど、後からゾッとしたんだから~……」

 波多野先生が項垂れるように語っていると、ガラッと職員室のドアが開かれ、「すみません、遅くなりました~」と、養護教諭の柿原かきはら真穂まほ先生が入室した。


「おっ!お疲れ様でーす!」

 波多野先生は、片手をヒョイっと上げながら柿原先生に言葉を掛けると、「さてと……」と言って立ち上がり、上着を羽織る。


「柿原先生も来たことだし、木の葉に寄ってお茶して帰りますか……」

「えっ、木の葉!私も行きたいです~!」

 梅原先生が羨ましそうに二人に訴えると、「もちろんいいですよ。ねぇ、波多野先生?」と、柿原先生が言った。


「うんうん、梅ちゃんもおいで!」

「はぁい!」

「おや、今日は三人でガールズトークですか……」

「あ、竹田先生お疲れ様です」

 柿原先生がドアを開けたと同時に、二年二組担任の竹田哲弘たけだてつひろ先生が職員室へ戻ってきた。


「いいなぁ~、仕事の後に美味しいケーキ!」

 竹田先生が帰り支度をしながら言うと、「へへっ、いいでしょ~!」と、波多野先生がちょっぴり自慢げな笑顔を向ける。


「全然羨ましくないですよ~!僕には愛する妻と娘が待っててくれるんで~!」

「はっはっは!」

 竹田先生の返しに、波多野先生は笑い声を上げると、「それじゃ、お先に失礼します!」と言って、梅原先生達と職員室を出る。


 竹田先生も、「楽しんできてください」と三人に手を振り、コートを着た。


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