第295話 自信喪失
緑依風、亜梨明、星華が調理室に向かうと、すでに二組所属の晶子と楓が先に来ており、長い髪を一つに結び直したり、エプロンを取り出したりと、準備を始めていた。
緑依風達も通学鞄を置き、身支度を始める。
「材料は、梅原先生が用意してくださったんですよね?」
晶子が緑依風に聞いた。
「うん。冷蔵庫とその横に食材置いてるって、朝聞いたよ」
緑依風はそう言いながら、先週の金曜日の部活の光景を思い出していた。
梅原先生は料理サークルの顧問だが、常に部室となった調理室にいるわけではなく、職員室で行う事務作業の合間に顔出しする程度だ。
熱心な運動部の顧問に比べると、それほど部員の生徒と関りが深いわけではないが、緑依風達はそのことに特に不満は無く、むしろ自分達で話し合って、のびのび取り決めができる環境に満足しているし、いざというときに相談できる大人がいることで、安心して部活動に専念できると思っている。
「先生、あとで来るって言ってたよ」
亜梨明が言うと、「火を使うから、その注意でもしに来るのかしら……」と、楓が軽く首を傾げた。
「どうせ今日も他の仕事忙しいんだろうし、完成したら梅ちゃんにも味見してもらおっか!」
星華の提案に、「そうだね、味の評価もしてもらいたいし」と緑依風も賛同した時だった。
「さぁ~!実習頑張りましょうね~!」
調理室に、梅原先生の張り切った声が響き渡る。
「えっ……?」
一同が声の方に振り向くと、フリルがあしらわれた、ピンクの可愛いエプロンを付けた梅原先生が、調理室のホワイトボード前に立ち、髪を結んでいる。
「あれっ……?梅ちゃんも一緒に作るの?」
星華が少々戸惑った声で聞いた。
「そうよ、言ってなかったかしら?」
料理サークルのメンバーは、『誰か聞いていたか?』と確認するように顔を見合わせたが、どうやら皆初耳だったらしく、全員で首を横に振る。
「えと……聞いていませんでした……。けど、先生も一緒に作ってくださるのは嬉しいですよ!」
緑依風がややぎこちない笑顔で言うと、「レシピも全員分用意したのよ!」と、梅原先生はクリアファイルから取り出し、五人に手渡していく。
『さすが、梅原先生!』
――という、部員達の言葉を期待していた梅原先生だったが、五人はそれを手にした途端、ますます固い表情になり、どうしたものかと困惑している。
「――先生、言いにくいのだけど……」
プリント用紙から目を離した楓が、小さく右手を上げる。
「レシピは先週、松山さんが考えてくれて、みんなそれぞれノートに書き写してます」
「えっ……?」
「…………」
楓に目配せされた緑依風が、梅原先生に作り方を記したノートを差し出す。
梅原先生がノートを手に取り、目を通してみると、緑依風のレシピは要点、失敗しにくいポイントなどが詳しく書かれており、初心者でもわかりやすいよう、イラストなども添えられている。
一方、梅原先生が作ったレシピは文字のみとなっており、緑依風に比べると単調な説明ばかり。
料理を作り慣れた人間ならそれでも充分だが、部員は初めて作る者が殆どだ。
あまり親切な内容ではない。
「…………」
「じゃ……じゃあ、今日は梅原先生のレシピ見てやろっか!みんな、手洗お?」
緑依風は、ポカンと小さく口を開いたまま立ち尽くしている梅原先生から、そっとノートを回収すると、部員達に声を掛け、活動を開始させた。
*
手洗いを済ませた料理サークルの部員達は、早速活動を開始する。
せっかく梅原先生が自分達のために考えてくれたのだからと、先生のレシピを使って料理することを決めた部長の緑依風だが、材料の分量を見た彼女は、正直困惑していた。
部活が終わる時間は、夕食前。
なので、緑依風はお腹をしっかり満たすのではなく、みんなで作る工程を確認し合い、味見さえできれば量は少なくても大丈夫と考えていた。
しかし……。
「ご飯、三合は多いかなぁ……」
緑依風は渋い表情を浮かべながら、炊飯器のスイッチを押す。
どうやら梅原先生は、およそお茶碗六杯分のご飯。
他にも味噌汁、卵焼き、全て先生を含め六人前の分量を計算し、レシピを作ったらしい。
「緑依風ちゃん、これおにぎりにして爽ちゃんや坂下くんに食べてもらおうよ。卵焼きも一人一本で作ったらかなり多いし、晩御飯食べられなくなっちゃう」
「そうだね……。みんなにも、ここで食べ切れない分は持って帰ってもらって、家族に味見してもらったらいいかも」
「…………」
緑依風と亜梨明の会話が聞こえてしまった梅原先生は、なんとか汚名を返上しなければと、困っている部員がいないか注意深く観察する。
すると、タマネギを切っていた楓がピタリと手を止め、しかめっ面になっている。
「(光月さんが何か困ってるみたい。チャンスだわ……!)」
梅原先生が楓の様子に気付き、歩み寄ろうとした時だった。
「松山さん、タマネギの切り方……これで合ってる?」
「…………!」
梅原先生が声を掛ける前に、楓は斜め後ろにいた緑依風を呼び出す。
「うん、切り方は合ってる。でも、もう少し大きさを揃えた方が、均一に火が入るかな?」
「……目にタマネギが染みて……っ」
「あははっ、わかるわかる!これ裏技があるんだけど~……」
「緑依風~っ!油揚げの油抜きってどうすればいいの~?」
「えっと、私はお湯かけて抜くけど……先生のは~……」
すぐ目の前に顧問がいるのに、誰も頼ってくれない……。
「…………」
梅原先生はしゅんと肩を落とし、生徒達が料理する姿を眺めるしかできなかった。
*
それから約一時間後。
完成した料理を並べた部員達は、後日活動記録として残すためにスマホを取り出し、写真撮影を始める。
テーブルにもなる調理台の上には、お茶碗約半分程に盛った白いご飯。
味噌汁は持ち帰ることができないので、お椀いっぱいに入れて、残らないようにした。
一人一本ずつ焼いた、黄色いふわふわのだし巻き卵は、ふた切れのみを食べ、緑依風と亜梨明はそれぞれ残りを風麻と爽太に。
星華と晶子と楓は、家族に持ち帰ることにした。
「んじゃ、食べよっか!いただきます!」
「いただきまーす!」
緑依風の合図に合わせて手を合わせた四人の部員達は、「おいし~い!」「ですね!先生のレシピもすごく美味しいです!」と、口にしながら料理を味わっている。
梅原先生も、五人が座るテーブルのすぐそばで生徒達の作ったものを試食する。
美味しい。だが、しぼんでしまった梅原先生の心は、料理で膨れることはなかった。
「次は何にしましょうか?」
「うーん、今日は基本の和食だったから、今度は洋食とか……?」
晶子の隣で緑依風が次回の調理実習のテーマを考えていると、「私、次はお菓子がいい!」と、亜梨明が元気よく手を上げて言った。
「いいじゃん!私も簡単で美味しいスイーツチャレンジしたい!」
「私も……」
星華と楓も亜梨明の案に賛成すると、「じゃあ、次はお菓子にしようか!」と、緑依風も頷く。
「(お菓子作りなら……私より……)」
中学生といえど、パティシエの娘の緑依風の方が、きっと上手く作るだろう。
「……っ、今日は……最初の実習だったから先生のレシピで作ってもらったけど、次からはみなさんに考えてもらおうかな?」
梅原先生が苦しい気持ちを何とか押さえ込み、平然を装いながら言うと、部員達は何も疑うことなく、「はい!」と返事をして、今日の出来栄えの感想、どんなお菓子が食べたいかという希望を述べ合い、食事の続きを楽しんでいる。
「…………」
梅原先生は、味噌汁の水面を見つめながら、かつての恩師――そして、自分を比べてため息をついた。
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