第294話 部活の顧問


 物語の時間は少し戻って、日曜日の夕方――。


 夏城町から駅四つ分程離れた町で一人暮らしをしている梅原先生は、住んでいるマンションの最寄りのスーパーに、買い出しに来ていた。


 油揚げ、タマネギ、タイムセールで値下げされた、パック入りのたまごなどなど。


 この食材は、明日の月曜日――料理部の調理実習に使うものだ。


「部活の顧問になるなんて、ますます教師らしくなった気分!まぁ、私ももう二年目だものね!」

 なんて小さな独り言を呟きながら、梅原先生は今にも鼻歌を歌いだしそうな調子でレジに向かう。


 *


 梅原先生がスーパーを出る頃には、薄闇の空に星の姿が見えるようになっていた。


 来る前より冷えた空気に、ちょっぴり身を縮こませた梅原先生は、自宅に向かって足を進めながら、自分の少女時代――教師になりたいと考えるようになった出来事を振り返る。


 当時中学生だった梅原先生の担任の女性教師は、とても朗らかで優しく、生徒の長所を見つけるのが得意な人だった。


 中学時代の梅原先生は、成績も身体能力も平凡な自分に、ある日漠然とした不安を感じ、このまま何の取り柄もない大人になって、きちんと生きていけるのかと悩みを担任の教師にこぼしたことがあった。


 すると、その教師は「だぁいじょうぶよ~」と、俯く梅原先生の肩を抱き、励ましの言葉をくれた。


「梅原さんは、お料理が得意でしょう?調理実習の時、いつも大人しい梅原さんが、テキパキと手を動かしながら、他の子に教えてあげてるのを見てたの。何の取り柄もないなんてことないわよ~」


 それは、母親の手伝いを繰り返す内に自然と身に着いたもので、当時の梅原先生は料理が得意という自覚も無く、別に好きというわけでもなかった。


 しかし、恩師のそのたった一言が、梅原先生を大きく変えるものとなる。


 今まで何とも思わなかった料理が好きになった。


 もっと作れるものを増やしたいと挑戦しているうちに、腕前はどんどん上達し、家族や友人にも褒められるようになった。

 

 いつか私も先生のように、悩める年頃の子供達の道標になりたい。


 高校に上がる頃には、その恩師と同じ家庭科の教師になろうと決意が固まっていた。


「(野田先生……今も元気にされてるかしら……?会いたいなぁ……)」


 卒業したきり、その恩師に再び会うことは無かったが、梅原先生はあの日の野田先生の温もりや声を、今も昨日の出来事のように思い出すことができる。


 *


 翌朝。


 いつもより早い時間に目が覚めた梅原先生は、普段使う電車よりも一本早い電車に乗って、学校へと出勤していた。


「梅ちゃん先生、おはよう!」

 コーヒーの香りが漂う職員室のドアを開けた梅原先生に声を掛けたのは、現在二年一組の担任となった、波多野由香里先生だ。


「波多野先生、おはようございます!」

「それ、料理サークルの?」

 波多野先生は、ギィっと椅子を鳴らしながら、食材一式が入った白い袋を指差す。


「はい、今から調理室に置きに行くんです!」

「今日から調理実習やるって言ってたもんね~」

 梅原先生がコートを脱ぎ、鞄から必要な物を自分のデスクの上に置いていると、マグカップに入ったブラックコーヒーをひと口飲んだ波多野先生が、「嬉しそうですね」と言った。


「えっ?」

「だって今日の梅ちゃん、いつもの三倍くらいニコニコしてる」

「そ、そうですか……?」

 梅原先生は笑顔を保ったまま、照れた様子で頬に手を当てる。


「もしかして、調理実習のせい?」

「はい!料理サークルが始まってしばらくは、これからの活動について話し合いばかりでしたが、いよいよ実習となると、顧問としても気合いが入りまくっちゃって!」

「料理サークルの顧問、楽しくやってるようで何よりだよ」

「はい、運動部の顧問になったら無理そうと思いましたけど、料理は私の得意分野ですから!」

 波多野先生は、『運動部は無理』と、はっきり言ってしまう梅原先生に少々苦笑いしてしまうが、そんな先輩の心境に気付かぬ梅原先生は、「レシピもちゃんと作って、プリントアウトしたんですよ!」と、得意げな顔でコピー用紙に印刷されたレシピを一枚取り出した。


「へぇ〜、今日はこれを作るんだ?」

 波多野先生は頬杖をつきながら、梅原先生から差し出されたレシピを見る。


 白いご飯、味噌汁、だし巻き卵焼き。


 まずは和食の基本的なものから始めていこうと、緑依風が提案し、味噌汁の中に入れる具材や卵焼きの味などは、みんなで決めたものだ。


「確か、部長は松山だよね?去年私のクラスだった」

「はい、松山さんの他にも、去年一年一組だった亜梨明さんと、今も波多野先生のクラスの空上さんもいますよ」

「亜梨明はどう?楽しく過ごしてる?」

 波多野先生は、去年の教え子だった亜梨明を、担任から外れてもずっと気に掛けていた。


 特に、三学期の途中から元気を無くしていた亜梨明が、二年になってすぐ重態で病院に運ばれたと聞いた時は、心の底から無事を祈った。


「復学してから、毎日楽しそうにしています。松山さんも、先日の男子生徒との事件での心の傷を心配していましたが、とても元気にクラス委員を務めてくれてます」

「二人共いい子達だからね〜。またあの子達の担任やりたいな~」

 波多野先生はそう言って、高く結んでいるポニーテールの結び目の部分を締め直すと、「さて、そろそろ準備しないと」と立ち上がり、一時間目の体育の授業に備えてジャージに着替えに行く。


 梅原先生も、食材を調理室に置きに行くため席を立ち、職員室を出た。


 *


 放課後――。


 終礼が済み、三組の生徒がそれぞれ帰り支度をして教室を出て行く中、先に終わっていた星華が「さ~!部活部活~!」と、声を張り上げて教室内に入ってきた。


「亜梨明ちゃん、エプロン持ってきた?」

 緑依風が聞くと、亜梨明は「うん、ちゃんと忘れずに持ってきた!」と、部活で使う物を詰めた手提げ袋に目配せした。


「待ちに待った実習~!」

「ね~っ!私、昨日の夜からワクワクしっぱなしで、なかなか寝付けなかったよ~!」

 星華と亜梨明が、互いの手を組み合わせながらキャッキャと声を上げて跳ねると、「遠足前夜の小学生か……」と、奏音が姉の言葉にツッコミを入れた。


「でもこれから実習の日は、朝昼晩と合わせて一日四食になっちゃうな……」

 緑依風が体重の増加を気にしてぽつりと呟くと、それを聞いた途端、亜梨明はハッと我に返り、「うぅ……太りそう……」と、はしゃいだ様子から一転して、渋い表情になる。


「私、手術前から……体重十キロくらい増えちゃったんだよね……」

 一時は、スカートのアジャスターを最大まで締めても、ずり落ちてしまいそうな程痩せてしまった亜梨明だが、今は元の位置よりも緩めにしてちょうどいいくらいになった。


「亜梨明ちゃんは大丈夫だよ〜!」

 緑依風がお腹周りを気にして、胴元に手を当てる亜梨明に言うと、「そうだよ~!」と、星華も同意する。


「むしろ、まだまだ全然細いから!奏音と並んでるとよくわかるよ〜!……あだっ!!」

 星華の頭に、奏音の固い拳が落とされる。


「誰が太いって……?」

「太いなんて言ってないじゃん!」

「同じようなこと言ったでしょアンタっ!!」

 奏音はゲンコツ一発じゃ気が済まないらしく、今度は星華のこめかみを両拳で挟み込み、グリグリとねじ込ませている。


 緑依風と亜梨明が、そんな二人のやり取りを苦笑いしながら眺めていると、「何時に終わる?」と、風麻が緑依風の横から顔を覗かせた。


「五時過ぎには終わるように作るけど、初めてやるし、片付けも入れるともう少し伸びるかな?」

「んじゃ、俺らとそんなに変わらないな……。先に終わったら調理室に行くけど、そっちが早めに終わったら下駄箱前で待っててくれ」

「わかった」

「ちなみに、今日作るって言ってた卵焼き……余ったりする?」

 風麻が期待した目を向けて、緑依風に問う。


「残念だけど、今日のは余らないかな。きっちり食べ切る量で作る予定だし」

「ちぇ……」

 風麻が唇を尖らせてがっかりすると、緑依風は少々呆れたように肩を上下させ、「余る日はちゃんと残しておくから」と笑った。


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