第288話 マイナスからの始まり(後編)


 奏音が地面に座り込んだまま、脇田の走っていく様子を目で追っていると、「立てるか……?」と、後ろから加藤の声がした。


 奏音は、無言のまま鞄と松葉杖を拾って、自力で立ち上がると、「……自分だって、私とお姉さんを一緒にしてるくせに」と素っ気ない声で言う。


「……助けてくれてありがと。じゃ、私帰るね」

「相楽」

 加藤が奏音を呼び止めた。


「なぁに」

 奏音は背を向けたまま返事をする。


「夢に……姉貴が出てきた」

「そう、お姉さんが夢に出たのは私のせいだって?」

「そうかもしれない……けど、お前を責めるつもりじゃない」

 加藤はそう言って、奏音に一歩近付くと「こっち向いてくれないか」と言った。


「見てると辛いんでしょ?やめときなよ」

「いいからこっち向いて」

「…………」

 奏音がゆっくり後ろを振り向くと、加藤の表情はやはり強張っていて、青白い顔の表面は、脂汗が滲んでいる。


「姉貴に……怒られた。死んだ人間の面影を重ねるなんて、相楽に失礼だって……」

「それは……別にいいけど」

 奏音は、なるべく加藤と真正面で顔を合わさぬよう、斜め下を向いて言う。


「それから、私のことは忘れてもいい。私はあんたを忘れないからって……」

「ふーん……」

「でも、俺っ……やっぱり姉貴のことを忘れられない……忘れたく、ない……っ!」

「…………!」

 加藤の絞り出すような声を聞き、奏音はハッと顔を上げた。


「正直言うと、姉貴を思い出すこと……今も辛い。姉貴が死んでから、俺の姉貴との記憶はいつもあの事故の日で……だから、事故の記憶と姉貴の存在を全部無くしてしまいたいって、思ってた」

「…………」

「でも、この間相楽にああ言われて……その言葉が、胸ん中にすごく残って……。姉貴のことを忘れるっていうのは、俺は自分の中で、もう一回姉貴を死なせようとしているんだって気付いたんだ……。そんなの、できるわけない……」

「……よかった」

 奏音はクスッと笑い、小さく背を丸めながら言った。


「えっ……?」

「お姉さんのこと……忘れないでいようとしてくれて!」

 奏音がにっこりして言うと、加藤が初めて奏音に笑みを見せる。


「さて……私、お母さんに迎えにきてもらうから、門の前まで行かないと……」

「……っ、ごめんな!」

 背を向けようとする奏音に、加藤が謝った。


「今まで、ずっと嫌な態度ばかりとって!」

「理由わかったし、もういいよ……」

「おれっ……俺、お前と友達になりたい!」

「はぁ?」

 驚いた奏音の口から、間の抜けた声が漏れる。


「無理しなくていいよ、そんな青白い顔して我慢された友人関係なんて嫌だよ……」

「それはっ……何とかするし、もうお前と姉貴を混同しない!」

「でも、似てるんでしょ?かといって私、この性格で生きてきたから、話し方とかも変えられないよ?」

「変えなくていい……それに、姉貴と似ててもいいんだ」

 加藤は自分の胸元の服をクシャっと掴み、息継ぎをした。


「相楽といれば、今まで逃げてたことに向き合える気がする……。姉貴と相楽の違う部分も見つけながら、笑ってた姉貴のことをいっぱい思い出して、大丈夫になりたい……。もしかしたら……これも、相楽を利用してることになるかもだけど……」

 加藤はグッと喉を動かすと、青ざめた顔でしっかりと奏音を見据えた。


「俺がトラウマを克服するために……協力してくれませんか?」

 加藤に頭を下げられた奏音は、少々戸惑ったものの、仕方ないなという気分で深くため息をつく。


「なーんか、大変な気もするけど……いいよ!今までみたいな嫌われっぱなしのままより、仲良くできた方が嬉しいし!」


 友達というより、まるで手のかかる弟が出来たような気分だ。


 奏音はそう思いながら、無意識に手を伸ばし、そっと加藤の頭を撫でる。


「…………!」

「あっ、ごめんっ!」

 加藤がビクッと肩を震わせたと同時に我に返った奏音は、彼の頭に添えた手を慌てて引っ込めようとする――が、加藤はその手を両手でしっかりと掴み、握手を交わすように包み込んだ。


「だ、大丈夫……手冷たいけど?」

 加藤の手のひらは、滲み出た汗に濡れてひんやりと湿っぽく、緊張しているのが伺える。


 しかし、加藤はふっと息を漏らすと、「うん、違うな……」と呟き、目元を潤ませた。


 *


 二日後――土曜日。


 午後二時になると、毎週恒例の勉強会のため、爽太が相楽家にやって来た。


「爽ちゃん、いらっしゃい!」

「お邪魔します」

 爽太が靴を脱ぐそばで、亜梨明は「ちょうど今、だーれもうちにいないんだ!」と言いながら、来客用のスリッパを取り出す。


「えっ、相楽さんも?」

「うん、今日はね……加藤くんと一緒におでかけしてるの!」

「加藤と?」

 先週、彼のことで憤慨していた奏音の様子を思い返す爽太は、意外な組み合わせにちょっぴり目を丸くしながら驚く。


「この間、仲直りしたんだって!しかもお友達になれたんだよ!」

 亜梨明が嬉しそうに話すと、爽太もふわっと笑って「そっか」と言った。


 二人は階段を上り、亜梨明の部屋に入ると、用意された折り畳みテーブルの前で並んで座り、教科書を広げる。


「遅れた分の勉強、今日で追いつくね」

「ホント?」

「亜梨明、教えた所全部覚えてたし、これなら明日からは勉強会しなくても……」

「えっ、それは……ちょっと寂しいな……」

 亜梨明が残念そうにすると、爽太はクスッと笑って、「明日は、勉強が追いついた記念に、木の葉にデートしに行こうか」と言った。


「デート!?」

 まだ外に出かけるデートをしていなかった亜梨明は、夏休みに話した二人で木の葉にケーキを食べに行く約束を思い出し、ぱあっと表情を輝かせた。


「いいの!?」

「もちろん!……まぁ、勉強が好きならずっと勉強でもいいけど……」

「うん!それでもいい!」

「?」

 からかうつもりで言った爽太だったが、亜梨明はやる気に満ちた様子で爽太を見つめる。


「あのね……私、勉強得意じゃないけど……爽ちゃんと同じ高校に行きたいの!だから……ちゃんと勉強頑張るから、またわからない所あったら……教えてもらっていい?」

「当たり前じゃないか……。僕も、亜梨明と同じ高校に行けたらいいなって思ってたんだから」

 爽太に言われると、亜梨明は嬉しそうに微笑んだ後「さっ!頑張るぞ〜!爽ちゃん先生お願いします!」とペンを持ち始めた。


 亜梨明と爽太がそんなやりとりをしている頃。


 奏音は、加藤とバスに乗り、春ヶ﨑にある霊園に向かっている。


 奏音は金曜日の診察で、松葉杖はもう必要ない。

 捻挫した足に気を付けながら少しずつ歩いて、もう片方の脚の筋力を落とさないよう、日常生活にリハビリを取り入れるようにと医者に告げられた。


 霊園の最寄りのバス停に着き、降車すると、「足、大丈夫か?」と加藤が奏音を気遣う。


「うん」

「ゆっくり歩くから、急がなくていいぞ」

「わかってますって……」

 今まで嫌悪感を示していた加藤に優しくされると、なんだか胸の奥がむずむずしてしまう奏音。


 加藤はまだ、姉の面影を感じる奏音の顔を、正面で長く見続けることはできないようだが、なるべく慣れていこうと努力しているようだ。


「ここだ……」

 霊園前までやって来ると、加藤がぽつりと呟く。


 加藤の姉――綾が眠る場所。


「姉貴の墓に……行ってみたいんだ」

 仲直りした翌日、加藤は奏音に言った。


 綾の死後、加藤は一度もここに訪れたことが無いのだという。

 仏壇のある部屋にも、仲直りした日にようやく、足を踏み入れることができたらしい。


 すぐに気分が悪くなり、遺影すら見れなかったようだが、彼の母は息子が前に進もうとする姿を目にし、嬉しそうに涙ぐんでいたそうだ。


 加藤は設置されている桶に水を汲み、両親から聞いた加藤家の墓石を探す。


 奏音は、先程まで彼が手にしていた花束を代わりに持ってあげていた。


 駅前で購入した、濃いピンクと淡いピンクのガーベラやスプレーマムの可愛い花束。


 奏音は、一般的によく仏前に添えるものにした方がと言ったが、「姉貴は多分、こっちの方が好きだ」と、加藤がそれを選んだのだ。


 墓石に水を掛け、花を添え、火を灯した線香を置く。


「姉ちゃん……久しぶり。長い間、一度も来なくてごめんな……」

 加藤はそう言って、墓石を撫でるように触れて、瞳を閉じる。


 顔色はみるみる悪くなっていき、「うぐ……」と、唸るような声を漏らして口元を押さえた加藤だが、奏音が心配すると「大丈夫……」と言って、弱い笑みを浮かべた。


「――今はまだ、こんなんだけど……俺、強くなるから……」

 加藤がしゃがみ込んで手を合わせる横で、奏音も両手を合わせ、静かに目をつぶる。


「(加藤のお姉さん……どうか加藤を見守ってあげてください)」

 奏音は綾にそう語りかけ、加藤の心の傷が癒える日まで、そばにいることを誓うのだった。


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