第286話 視線(後編)


 翌朝。


 車で送迎してもらった奏音が、教室に辿り着くと、「おーっす!加藤!!元気になったか?」と、彼の友人が、奏音の後ろにいる人物に向かって手を振りながら挨拶する。


「おおっ、おはよ!」

 背後の加藤の声に、うっかり振り向きそうになった奏音だが、もう関わらないと約束したので、そのまま席に着く。


「ノートあとで借りていい?」

「いいぞ~!途中寝て書いてないけど」

「いや、書けよ……つか、寝るな」

「三橋にでも借りたらいんじゃね?」

 加藤と友人のやり取りを聞く限り、すっかり元気そうだ。


 ということは、やはり彼は姉の記憶を封じて、今まで通りの日常を過ごすつもりなのか……。


 そう思うと、奏音の心がキュっと苦しくなる。


「(やめよ……考えたって、何もできないし言うつもりも無いし)」

 加藤が自分を今後も避け続けるなら、私も加藤にとって『いない存在』だ。


 奏音も、加藤を『まぼろし』や『幻覚』のようなものと思うことにしないと、虚しくなるだけである。


「はよーっす!」

 教室に入るなり、元気にクラスメイト全員に聞こえるボリュームで挨拶をする直希は、自分の斜め前の席に座る奏音のそばまでくると、「おっす!奏音!!今日もリムジン登校か?」と、ジョークを言った。


「残念、普通の赤い車でした~!」

 奏音が返すと、直希はニシシっと笑いながら鞄を机横のフックに掛けた。


「三橋」

 奏音の横を、加藤が通過する。


「おっ、加藤!体調はいいのか?」

「ああ、一日休んだら良くなった。昨日の授業のノート写させてもらっていいか?」

「おう、いいぞ!」

 奏音はなるべく加藤の視界に入らないようにしようと、杖を持ち、行きたくもないトイレに向かう。


 その後も、別室での授業の際の移動、教室で緑依風達とおしゃべりを楽しむ際も、奏音はなるべく加藤の視界に入らないよう、配慮しながら行動した。


 何故、自分がここまで気を遣わなきゃいけないのかという気持ちもあるが、先日のように、顔を合わすたびに不機嫌な顔をされたり、吐きそうにされるのも不愉快だ。


 *


 昼休み。


 いつもなら緑依風の机に集まって昼食を食べる奏音達だが、彼女が怪我をしているため、最近は奏音の机にお弁当を持ち寄り、ランチタイムを過ごしている。


「足、まだ痛そうだね……」

 緑依風が、うっかり床に付けた足に体重を掛けてしまった奏音が、顔をしかめるのを見て言う。


「これでも結構腫れは引いて来たんだけどね~……。でも中身の方がどのくらい回復してるのかはわからないから、明日病院行って、またレントゲン撮るみたい」

「打撲の方は?すねめっちゃ紫色になってたらしいじゃん」

 星華が聞くと、「まだらになってる」と奏音が答えた。


「んで、押すと痛いっていうのに、ネコがさ~……遠慮無しに伸ばした脚に乗って来てさ~」

「奏音、ソファーでフィーネとケンカしてるもんね!」

 亜梨明が家での奏音とフィーネの様子を思い出して笑うと、「ちゃんとしつけてよ飼い主」と、奏音が文句を言った。


「ん……?」

 チョコパンにかぶりついた星華が、何かに気付く。


「どうしたの?」

 緑依風が聞くと、「いやぁ……さっきからさ~……」と、星華が顔を上げ、教室の前にある扉付近を見る――が、こちらをじっと凝視していたと思われる人物は、ふいっと視線を逸らした。


「加藤が、用ありげにこっちを見てた気がするんだよね……」

「…………」

 奏音と亜梨明がそっと目を合わせあうが、緑依風は「そうなの?」と、特に気にならない様子で玉子焼きに箸を伸ばす。


 奏音が目玉だけを動かして、加藤のいる方角を見れば、彼は確かにこちらを気にしているようだ。


「(話し声がうるさいとか……?)」

 加藤は、奏音が友達と話す姿すらも、彼にとって姉を彷彿させるものだと語っていたし、その時はそうだろうと思っていた。


 だが、それからも彼の視線は奏音に向けられ、何か言いたげに感じる。


 彼に理由を問いたい気持ちではあるが、こちらからはもう話しかけないと言ってしまったので、聞くことができない――。


 トイレに行って戻ろうとすれば、先日と同じように、加藤と遭遇する。


「……っ」

 一瞬、口を開きかけた彼だが、奏音は痛む足を庇いながら、無視して教室に戻った。


 もはや彼のトラウマをこれ以上思い出させないため――というよりも、絶対に私からは関わらないのでという、意地みたいなものになってしまっている。


 *


 掃除の時間。


 奏音達の班は、今週教室前の廊下の当番だったが、この足で歩き回って掃除をするのはできないので、みんなに配慮してもらい、他の人が集めたちりゴミを、箒でちりとりに入れるだけの役割を務めていた。


 すぐそばには、階段掃除の当番である加藤の姿も見え、相変わらずこちらの様子を観察されている気がした。


「よしっ、これで終わりかな?」

「うん!」

 ちりとりを持っていた亜梨明が立ち上がると、「相楽奏音!」と、奏音をフルネームで呼ぶ声が聞こえた。


 奏音と亜梨明が振り向くと、すぐ後ろには去年同じクラスだった、脇田わきたという男子生徒が立っている。


「放課後さ……中庭に来てほしいんだ。話がある……」

「へっ?」

 脇田は要件だけ伝えると、すぐに去っていってしまった。


 ポカンとした奏音の隣で、亜梨明は赤くなっていく両頬を押さえながら、「ひゃ~っ……」と小さく叫ぶ。


「か、奏音!これはもしかして、もしかするんじゃ……!」

「え、えぇぇぇ!?」

「だってだって、それしかない感じだよ……!!」

「でもだって……わ、わたし、に……?」

 皆まで聞かずとも、亜梨明が言いたいことも、今自分に何が起きようとしているかもわかってしまった奏音は、口をパクパクさせながら脇田が帰っていった教室を見る。


 そして加藤も、そんな奏音の様子を、少し離れた場所からじっと見つめているのだった。


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