第285話 視線(前編)
次の日。
奏音は部活のある亜梨明達と教室で別れ、帰宅してすぐバイオリンのレッスンに向かう準備を始めた。
着替えて、隣町の春ヶ﨑まで送ってくれる母の車に乗り込み、憂鬱な気分でため息をつく。
ため息の理由は、バイオリン教室の講師のことだ。
二十代後半の女の先生は、とてもプライドが高く気分屋で、その日によって態度が変わり、機嫌の悪い時に当たれば、指導に関係ない嫌味っぽい発言もある。
発表会までは、あと三週間だ。
部活に出られない分、しっかりバイオリンの練習に時間を割くことができたので、前回上手く弾けなかったところも、今日は上手くいった気がした。
――が、先生の顔はとても不満気で、ふんと鼻を鳴らしてツンとしている。
練習を終えて、帰り支度をしていると、先生が「……その足で、部活はどうしてるの?」と単調な声で聞いた。
「あ、休んでます……。杖が無いと歩けないので、手伝いもできないですし……」
「ふぅん……じゃあ、練習できる時間は確保できたはずよね?」
「え……?」
楽譜を鞄にしまい終えた奏音が振り向くと、先生はつまらなさそうに、くるくるとした髪の毛先をいじりながら、「全然、練習が足りてないのよねー……」と言った。
「今までは、運動部に入ってるわけだしと思って大目に見ていたけど、私が奏音ちゃんと同じ年齢の頃は、言われたところだけじゃなくて、他の所だってもっと突き詰めて練習していたし。そもそもこの曲なんて、私は小五の頃にとっくに弾けていた簡単すぎる曲よ……。まぁ、前の教室のレベルが低かったのでしょうけど、私の生徒になったからには、もっと向上心を持って励んでもらわないと、教えがいが無いのよ……奏音ちゃん、やる気ある?」
「……っ」
あんまりな物言いに、奏音の顔がカッと赤くなる。
「……失礼します」
バイオリンと楽譜の入った鞄を持ち、松葉杖を取って教室を出る奏音。
レッスンを受けている間、時間潰しに買い物をしている母の明日香に、終わったことをメッセージで伝えると、待合場所の椅子に腰をかけ、悶々とした気分を心の中で整理しようとする。
「(ムカつく……)」
馬鹿にされたことも、前の教室の先生を悪く言われたのも、あの女の全てが腹立たしい。
「……やる気、ね。とっくに無いかも……」
*
夕食後。
奏音は両親に、バイオリン教室を辞めたいと告げた。
真琴も明日香も、奏音がバイオリン講師と相性が悪いことは知っていたので、担当講師だけを変えることを提案してみたが、中学に入り、部活と習い事の両立自体にも疲れていたと奏音が言うと、少々残念そうにしながらも、了承してくれた。
奏音が部屋に戻ってベッドで寝転がっていると、コンコン、とドアがノックされた。
「奏音、開けてもいい?」
奏音が「いいよ」と返事をすると、亜梨明が二人分のミルクティーが入ったマグカップをトレーに乗せていた。
「……お母さん達から聞いた?」
「うん、教室辞めちゃうって……」
奏音が自分のマグカップを手に取ると、亜梨明は隣に座り、ふーふーと、まだ熱くて飲めないミルクティーを冷まそうとする。
「先生のこと、ずっと悩んでたもんね……」
「もう、ほんっとにあの女、腹立つんだもん……苦手というより、嫌いだね」
「……バイオリンも、嫌いになった?」
亜梨明が少し遠慮がちな声で聞く。
「ううん、バイオリンを弾くのは好きだよ。……でも、人に習ってまで続けたい気持ちは、去年から薄れてて……」
「そっか……それじゃあ、よかった!」
亜梨明はズズッと火傷しないよう、少しずつミルクティーをすすると、「辞めてよかった……?」と、奏音が聞いた。
「えっ、どうして?」
亜梨明が意外な様子で聞き返す。
「……だって、昔亜梨明言ってたじゃない。二人でどんどんピアノとバイオリン上手くなって、難しい曲もたくさん一緒に演奏したいって」
「もしかして、それでずっと続けてくれてたの……?」
「ん~……半分は、ね。あとは嫌いだからってすぐ辞めたり先生変えるのは、逃げるみたいで嫌だっていう、私の意地みたいな感じ!」
奏音がしかめっ面で語ると、亜梨明は「強いなぁ~」と笑った。
「でも、私のためだけになら全然辞めていいよ。小さかったからあんなこと言っちゃったけど、私に決める権利は無い。むしろ、今まで頑張ってバイオリン続けてくれたことにありがとうだよ。だって、奏音は元々……ピアノが習いたかったんでしょ?」
「…………!」
亜梨明の言う通りだった。
奏音も最初は、ピアノを好きになり、亜梨明と一緒に自宅で父に教わっていたのだ。
ところが、同じように――いや、亜梨明以上にピアノに触れてる時間が長くても、何故か亜梨明の方が上達が早く、悔しくなった。
当時は『才能』なんて言葉すら知らない幼子だったけど、本能的に奏音はそれを感じ取った。
ピアノでは亜梨明に絶対勝てない。
一緒に続けていれば、嫌な気持ちになるだけだと。
そして、テレビでたまたま、ピアノとバイオリンが同じ曲を一緒に演奏しているのを観て、これなら二人で楽しくなれそうだと思ったのが、バイオリンを始めるきっかけだった。
「私は私、奏音は奏音。双子でも、やっぱり私達は別々の人間だから!奏音は好きに生きていいんだよ!」
亜梨明にそう言われると、「そうだよね……私は私」と、奏音はあることを思い出しながら呟く。
「ん……?」
奏音の表情が急に変わったことに気付いた亜梨明が、キョトンと首を傾げる。
「ねぇ、亜梨明はもし……私があんたのこと忘れたら、悲しんでくれる?」
「えっ……?」
突拍子も無い奏音の質問に、亜梨明は「そんなの、当たり前だよっ!」と叫ぶように言った。
「……私、春に死んじゃうかもって知った時、私が死んでも、きっとみんなが悲しむのは最初だけで、時間が経てば、他の楽しいことで私の記憶はみんなから遠くなって、忘れられていくんだなって思うと、すごく……すごく怖くて悲しかった……っ」
亜梨明は大きな瞳を揺らし、マグカップを握る手に力を込めながら語る。
「奏音は……あの時私が死んでたら、私のこと忘れちゃってたの……?」
「ううん、絶対忘れない。多分たくさん泣いて……泣いて泣いて、泣きまくって……二度と立ち直れない気持ちで過ごすけど……でも、それでも生きてるうちは、生きなきゃいけないから……足掻いて、少しずつ今まで通りに過ごしながら……亜梨明がいない日を寂しく思ったり、楽しいことを思い出したりして、そんな風に過ごすのかも……」
あくまでもそう思うだけで、そんな日が来ないことを祈る。
「――だけど、うん。忘れたくないのに忘れちゃうことと、わざと忘れて無かったことにするのは、やっぱり違うよね」
「何か、あったの……?」
亜梨明が顔を覗き込むと、奏音は変な質問をした理由と、加藤が自分を避ける理由を語り始めた。
「それは……お姉さんがかわいそう……!」
奏音の話を聞いた亜梨明は、ショックな様子で声を上げた。
「きっと加藤くんのお姉さん、加藤くんに忘れられたく無いって思ってるよ!」
「――うん、でも加藤……話してる時すごく震えてて、真っ青で……そうでもしないと耐えられないっていうのは、すごくよくわかった……」
一昨日、話を聞き終えて立ち上がった時、自分より大きな体をしているはずの加藤が、とても小さく見えた。
同い年の少年が、あんなに怯えて泣く姿なんて滅多に目にするものではないし、きっと奏音や他人が計り知れないほど、彼の心の傷は深いのだ。
「けど、やっぱり……今までの楽しかった思い出や、過ごした時間は……覚えていて欲しいよ」
加藤は昨日、学校に来なかった。
去り際に加藤に放った言葉を、奏音は間違っているとは思わなかったが、今も癒えぬ傷を更に傷付けたかもしれないという罪悪感はある。
もう話しかけないと言ったし、これ以上彼に関わるつもりも無い。
しかし、加藤の過去も、彼の姉の存在も知ってしまった奏音は、加藤に姉に対する考えを改めて欲しいと願ってしまうのだった。
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