第283話 姉弟(前編)


 加藤は結局、五時間目の途中で教科担当の先生に早退することを告げ、鞄を持って教室を出た。


 友人達が心配して声を掛けてくれても、作り笑いをする余裕すら無く、校門を通り抜け、家路につく。


 奏音に事故当時のことを語ったせいで、せっかく忘れようとしたものが、頭の中にまた生まれ出てしまった。


 姉なんて、最初からいなかった。自分に、姉弟なんていない。


 そう思い込むことで、壊れた心をやっと修復してきたはずなのに、この間からまた胸の奥の古傷が疼き、それに連動されるように胃が痛み、吐き気がする。


 家に辿り着くと、玄関の戸を開けた瞬間に線香の香りがした。


「ただいま……」

 加藤がそう言ったと同時に、奥では彼の母親が、やや慌てた様子でリビングの隣の戸を閉める音が聞こえた。


「タカ……早かったのね!」

 平然を装っている加藤の母親――紗枝さえは、こんな時間に帰宅した息子を、不思議そうに出迎える。


「体調……ちょっと悪くて……」

「あら……。確かに、顔色がちょっと悪いかな……。昨日もご飯あまり食べてなかったし……風邪もそろそろ流行り出してるみたいだしね。病院行く?」

「いや、いい……寝てたら治るよ」

 加藤が、まだ煙の香りがする方を見つめると、紗枝は困ったように眉を下げる。


 見つめた先のあの部屋には仏壇がある。


 加藤は仏壇が置かれた日からずっと、その部屋に入っていない。


「……寝てくる」

 加藤が母の顔を見ずに、二階にある自分の部屋へ行こうとすれば、リビングと繋がっているキッチン横に、段ボールがあった。


 かつてこの家にいた人の、大好きだった食べ物が親戚から送られてきたようだ。


「(……それでか)」

 心の中で呟きながら、階段を上り、自室に辿り着く加藤は、鞄を無造作に床に置いて、ベッドに仰向けで寝転がる。


 目を閉じ、その上に手の甲を置いていると、七年前の八月の光景が真っ暗闇の中に浮かび上がった――。


 *


 両親と共に、父の実家に家族みんなで帰省した加藤は、祖父母、父の兄弟の家族――親族みんなで、大型ショッピングモールに買い物に来ていた。


「きゃははははっ!」

 大人達が立ち止まって店先の売り物を眺めている間、幼い加藤は、年の近い従兄達二人とふざけながら走り回って遊んでいる。


「待て待てっ!」

「やーだよっ!……っ、あいたっ!」

「あだっ……!」

 元気いっぱいのやんちゃ坊主達の頭の上に、ゴン、ゴン、ゴン!と、テンポよく固い拳が落とされていく。


「あんた達!他のお客さんの迷惑になるでしょ!やめなさいっ!!」

 従姉弟達の中で最年長の加藤の姉――あやが、他の通行人もいる中で駆け回る弟達に注意した。


「いてーよ、綾ちゃん!!」

「綾ちゃんすぐゲンコツする!!」

「あんたらが大人しくしてないからでしょ」

 両手を腰に添え、反発する従兄達にビシッと返す綾を、加藤は頭のてっぺんをさすりながら見上げる。


 短く、サラサラのボブカットヘアー。


 裾がふんわりとしたショートパンツから伸びる足はとても健康的で、英文字のロゴが入ったカジュアルなシャツは、活発でちゃきちゃきとした性格の姉によく似合っていた。


「綾、これ見て!綾に似合いそう!」

「えっ、ホントだ!かっこいい~!!……って、コラー!さっき言ったこと忘れたの!?」

 鬼が目を離した隙にと、従兄達は再びはしゃぎ始め、加藤も誘われるがまま、三人で追いかけっこを始める。


「そういえば、綾ちゃんバレー部に入ったんだって?」

 叔母の一人に聞かれて、綾が「うん」と返事をした。


「私ね、スパイク打つよりレシーブの方が得意なんだ!タカにも今バレーボール教えてるんだけど、ボールが硬くて痛いからって、あまり一緒にやってくれなくて……。もう少し大きくなったら、タカとバレーで遊べるかなって思ってるんだけど……」

 従兄達とまだふざけあう加藤は、綾の後ろに隠れて盾にしている。


「孝文くんは、綾ちゃんが大好きだねぇ〜」

 祖母が微笑ましそうな様子で、仲睦まじい孫姉弟を見つめる。


「そうなんです。年が離れてるけど、綾がいつも面倒を見てくれて……私が産後の回復が遅くて動けない時も、タカのオムツを替えてくれたり、泣いてると真っ先にあやしたり、今もタカが遊んで欲しそうにしてると、邪魔者扱いせずに相手してくれるんですよ!」

 紗枝がちょっぴり誇らしげに語ると、「だって、タカ可愛いもん!」と、綾は自分の脚にしがみ付いている弟の頭をクシャクシャっと撫でる。


「私ね、ずっときょうだいが欲しかったから、タカが生まれてくれてすっごく嬉しかったんだ!」

 加藤も、自分の頭を撫でてくれる姉の手の感触が心地よくて、もっとと訴えるように、両手で綾の手に触れた。


 *


 必要な物を買い揃えた一行は、一階にある食品売り場へ向かうため、エスカレーターを使おうとしていた。


 今いる場所は三階。


 他のみんなは、次々に乗って下っていくが、小さな加藤少年は、この乗り物が苦手だった。


 以前、乗るタイミングがわからず、危うく転びそうになったり、サンダルが隙間に挟まりかけたりして、怖い思いをしたからだ。


 なので、なるべくエレベーターを使うか、親や姉に手を繋いでもらって、一緒に乗ってもらうのだが……。


「……っ」

「タカ、頑張って一人で乗ってごらん?」

 綾が後ろで声を掛けるが、カタカタと鳴る音が、まるで自分を急かしているように思えて、余計に緊張してしまう。


 その間にも、両親や従兄家族、祖父母はどんどん下へと近付いて行く。


「私、タカと一緒に後から行くねー!」

 綾は、遠くにいる家族に聞こえるよう、大きな声で手を振りながら叫ぶと、体を強張らせる弟を優しく見守る。


 ここのエスカレーターは、いつも使うものよりも少し長い。


 頑張りたい気持ちはあるが、恐怖心の方が勝ってしまい、一歩がなかなか踏み出せない加藤は、不安げな顔で背後にいる綾に振り返る。


「姉ちゃん……手、つないでて……」

 温かい姉の手を握ると、急に緊張が解れていく。


 母と比べれば、まだまだ十三歳の少女らしい、細くて小さな手。

 だけど、加藤からすれば綾の手だってとても頼もしい、安心できるもの。


 加藤が繋いだ手を頬に当て、擦り寄りながら目で訴えると、綾は「はぁ~っ、今日もダメか~!」と笑いながら、でもちょっぴり嬉しそうに言って、弟の手を握り返した。


「よし、じゃあいくよ……いち、にの、ぴょん!」

 綾の合図に合わせて、加藤は姉と共にエスカレーターに飛び乗る。


 一人じゃ怖い乗り物も、姉ちゃんがいてくれれば怖くない。


 加藤は、綾の手と手すりに掴まりながら、心臓のドキドキが治まっていくのを感じ、綾も、弟の孝文の表情が和らいだのを見て、安心したように微笑む。


「……でもタカ、もう一年生だからそろそろ一人で乗れないと、いい加減みんなに笑われちゃうよ?」

 甘えてくれるのは嬉しいが、このままじゃ弟のためにならないと思う綾は、克服を促そうとする。


 加藤もそれは充分理解していて、「あ、明日からがんばる……!」と、気まずそうに言った。


 二階のフロアに着き、今度は一階へ続くエスカレーターに乗り換える。


 降り口から少し離れたところには、通行人の邪魔にならぬ場所で両親や親戚達が、お喋りをしながら二人を待ってくれていた。


 時刻はまもなく十二時。

 加藤のお腹が、きゅうと音を鳴らす。


「姉ちゃん、おなかすいた……」

 加藤が綾を見上げて空腹を訴えると、綾は加藤の手を離し、肩に掛けている小さなショルダーバッグのファスナーを開ける。


「買い物終わったらみんなでご飯食べに行くから……はい、今はこれで我慢ね!」

 そう言って、弟のために持ち歩いていたキャラメルの包み紙を開いた綾は、加藤の小さな口にポイっとそれを入れた。


 すると、背後から「あぁっ――!」と中年女性らしき人の声が聞こえた。

 同時に、ガコッ、ガコン――と鈍い音も。


「危ないっ、お嬢ちゃん避けて――っ!!!!」

「えっ――!」

 キャラメルの包み紙をバッグに仕舞おうとしていた綾と、左手で手すりに掴まっていた加藤の上から、買い物用の黒いキャリーケースが落ちてくる。


「きゃっ――!!」

 振り向いた時には遅かった。


 回り落ち、勢いをつけたキャリーケースが綾の体にぶつかり、手すりから完全に手を離した状態の彼女は、短い悲鳴を上げて宙に浮く。


「――っ、姉ちゃんっ!!!!」

 加藤は、手すりに触れていない小さな手を伸ばし、姉の手を掴もうとした――が、綾はそのまま頭を打ち、その後も体を回転させながら、キャリーケースと共に一番下まで落下した。


 どうっ、と固い床の上に、綾と荷物が放り投げられたように落ちきって止まった途端、一番最初にそれを目撃した男性の通行人が、「た、たいへんだ……っ!子供が落ちたぞー!!」と、大声を上げる。


「誰かっ、誰か早く救急車を……!」

「おいっ、あれ……っ、もしかしてあやちゃん、綾ちゃんじゃ……!」

「……っ、ど、どいてくれっ!!それはうちの子だっ!!」

「綾っ……!いやぁっ!!綾っ、あやっ、しっかりしてぇっ!!」


 知らない人の声、叔父、父と母の声が響き渡る中、加藤も両手で手すりを持ち、転びそうになりながらエスカレータから降りて人混みを掻き分ける。


「……っ!!」

 大人たちの隙間を潜り抜け、どうにか姉と両親のいる場所へ辿り着くと、そこには悲惨な光景が広がっており、加藤は言葉を失う。


 横向きに倒れている綾の頭から、赤い血がどんどん流れて白い床の上を汚していく。


 キャラメルの包み紙を持った手が、ピクピクと痙攣しており、まるで人間じゃないみたいな不自然な動きをしていた。


 騒然とする、夏休みのショッピングモール。


 綾は、家族の呼びかけに一切応えぬまま、駆け付けた救急隊員に運ばれていったが、二日後――静かに息を引き取った。


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