第282話 加藤の過去
次の日。
捻挫した左足を地に付けれるようになるまでの間、車で送り迎えをしてもらうことになった奏音は、亜梨明より少し遅れて、母と共に家を出た。
「あ、亜梨明と日下くんだわ!」
明日香は運転しながら、数メートル先にいる亜梨明と爽太の姿に気付き、すれ違いざまに二人に軽く手を振った。
亜梨明もそんな母の車に気が付いたようで、小さく跳ねながら手を振り返し、爽太は手を振る代わりにぺこりとお辞儀をして、明日香に返していた。
「うふふっ!亜梨明達、手繋いで歩いてる!可愛いわね~♡いつもああなの?」
明日香はとても嬉しそうに聞くが、後部座席にいる奏音は聞こえていないフリをして、窓の外を眺める。
いつも三人で歩く時には、二人が手を繋いでるところなんて見たことが無い。
それなのに、今日はしっかり繋いでいたということは、遠慮されていたのか、はたまた照れくさかったのか……。
どちらにせよ、自分がお邪魔虫だった気がして、あんまりいい気分ではない。
*
学校に到着すると、教室にはまだ生徒の数は少なく、五分後に緑依風と風麻。
そこから更に数分経過すると、亜梨明が奏音を心配した爽太や星華を連れて、教室にやって来た。
「骨折じゃなくても、松葉杖っているんだな……」
風麻が言うと、「足が床に付けられればいいんだけどね~……」と、奏音は上靴が履けないため、サンダルを使用することになった足を軽く揺らしながら言った。
「ま、一本でいいから置く場所かさばらなくてよかった。私もこうなるまで、必ず二本使うのかとか、坂下みたいに骨折専用アイテムだと思ってたよ」
「困ったことがあったら何でも言って。移動教室の時は荷物も持つよ!」
緑依風が協力を申し出ると、「ははっ、ありがと!」と奏音は礼を言う。
「でも、それより……」
奏音は緑依風の斜め後ろでそろり、そろりと怪しい動きをする星華を睨み、杖を持つと、「緑依風がピンチの時にすぐコレを止められないから、気を付けて」と上の部分で、セクハラをしようとしていた星華の頭をゴンっと、叩いた。
「いだっ!……んも~っ!鬼がおとなしくなったからチャンスと思ってたのに~っ!!」
「追いかけることはできないけど、杖が届く範囲なら油断しないことだね!」
奏音がふふんと、したり顔で言うと、「ははっ、思ったより元気そうで安心したよ!」と、爽太は軽やかな声で笑った。
「あ、加藤くんだ……」
亜梨明が教室に入ってきた加藤を見ると、奏音も後ろを振り返って彼を見る。
今日はまだ一回も話をしていないというのに、彼の顔色は昨日と同じく青白く、元気が無かった。
*
朝のホームルームが終わって、奏音が亜梨明や緑依風と雑談しながら加藤に視線をやると、彼はまだ浮かない表情をしている。
「あれ?加藤どうした~?」
彼が席についたままで、会話に混ざってこないのを心配した友人二人が声を掛けると、加藤は「いや~、別に?」と無理やりな笑顔を作って「そういえばさ~」と普段通りを装っていたが、三時間目の授業が終わりの挨拶をした直後、口元を押さえたまま床に座り込んでしまった。
クラスが騒然となる中、その時間の教科担当の先生は加藤の周りに集まり出した生徒を掻き分け、彼を保健室に連れて行った。
奏音は、「まさか昨日私をおぶったせい?」と、彼の体調不良の原因は自分ではないかと、一瞬罪悪感を抱く――が、その直後に昨日彼が叫んだ、「姉ちゃん」という言葉を思い出す。
*
昼休みになっても、加藤はまだ教室に戻ってこなかった。
彼のことは心配だが、いないうちがチャンスと思った奏音は、加藤と同じ小学校出身の緑依風達に聞いてみることにした。
「あのさ、加藤ってきょうだいいる?」
「きょうだい?」
昼食を持って三組にやって来た星華が、緑依風の隣に座って首を傾げる。
「うん、お兄ちゃんとか、弟とか、妹、お姉ちゃんとか……」
奏音が最後の方を少し強調するように言うと、緑依風と星華は、急に表情を曇らせ、「いたけど……」と、声を潜めながら加藤の席を見る。
「……確か、年の離れたお姉さんがいたんだよね。私達が小学校一年生の時、中学生になったばかりの」
当時加藤と同じクラスだった緑依風は、彼がまだ教室にいないことを確認して、声量を気にしながら答える。
「じゃあ、今だと二十歳くらいか……」
奏音は指を使って、加藤の姉の年齢を予測した。
「うん、生きてたら……ね」
「生きてたら……?」
星華の言葉に、奏音が白米を口に運びながら聞き返す。
「……加藤のお姉さんね、事故で亡くなってるの」
「え……」
緑依風が説明すると、奏音も一緒にいる亜梨明も言葉を失った。
*
昼食を終えると、奏音はトイレに向かい、用を済ませて手を洗っていた。
足を心配した亜梨明がついて来てくれようとしたが、今は一人になりたかったため、これくらい大丈夫と言って断った。
「詳しくは知らないけど、エスカレーターから転落して、打ち所が悪かったって聞いた……」
「確か、夏休み中だったよね?クラスのグループトークにそれが連絡網で回ってきて、二学期が始まってからしばらく、加藤の元気が無かったの覚えてる」
緑依風と星華から聞いた内容と、昨日の出来事を振り返り、奏音は片手で頭を押さえながらため息をつく。
奏音は、加藤が自分に向かって「姉ちゃん」と叫んだのは、きっとその時の出来事を思い出したのだろうと思った。
もちろん、階段から落ちたのは偶然だったが、逃げようとする彼を深追いしようとして起きたのは事実で、半分は自分のせいでもある。
ただでさえ嫌われているというのに、彼にとってトラウマだったかもしれない記憶まで蘇らせてしまうとはと、奏音が自己嫌悪していると、トイレを出たと同時に、保健室から戻ってきた加藤が目の前を通過した。
「……っ、き、きのうはっ、ありがと!!」
どうせ聞かないだろうと思いつつ、奏音は昨日言いそびれたお礼を伝えるため、彼の背に向かって大きな声で言った。
すると、彼は初めて足を止めて、奏音の前まで戻って来る。
「…………」
戻ってきてくれたのはいいが、自分より大きな加藤に無言無表情で見下ろされると、さすがの奏音でも少し委縮してしまう。
「あ、あと……嫌なこと思い出させて、ごめん……」
奏音は何がとは言わなかったが、加藤はピクッと体を震わせ、全てを悟ったようだった。
「……姉貴のこと、聞いたんだな」
今までに聞いたことが無いくらい、低くて重い加藤の声に、奏音は「うん……」と息を呑んで頷く。
加藤は、観念したように深く息を吐くと、「話すよ……」と言った。
「俺が、お前を避ける理由……」
そう言うと、彼は人があまり通らない、校舎の一番奥を話す場所に指定し、そのそばの階段をベンチ代わりに腰掛ける。
「座れば?」と、加藤に言われた奏音は、彼と同じ段の端っこに座り、松葉杖を壁に立て掛けた。
加藤は、「ふーっ……」と息を吐きながら顔の前で手のひらを合わせている。
ひんやりと、少し寒い空気の中にいるにも関わらず、彼の顔は汗が滲み出ていて、色も今朝より悪くなっている気がした奏音は、「別に今日じゃなくてもいいけど?」と言うが、加藤は首を横に振り、今話そうとしているようだ。
「姉貴のこと……どこまで聞いた?」
「……事故で亡くなったってのと……エスカレーターから落ちたって」
奏音が緊張した面持ちで答えると、「そっか……」と加藤は言った。
「……姉貴が死んだのは、俺のせいなんだ」
「…………」
絞り出すような声でそう話す加藤の横姿を、奏音は真剣な目で見つめる。
「……俺と姉貴は、六歳年が離れてるんだ。怒ると怖いけど、小さかった俺の面倒を嫌な顔一つせず見てくれる優しい人で……俺は、姉貴のことが大好きだった」
加藤は、一旦吐き気を堪えるように「うっ……」と小さく呻くと、そのまま話を続けた。
「……あの日俺は、エスカレーターに一人で上手く乗れないからって、姉貴に手を繋いでもらって、一緒にエスカレーターに乗った。エスカレーターに乗るのが怖かったのは本当だけど、半分は甘えたいからで……でも、そのせいで……っ」
「なにが、あったの……?」
奏音が恐る恐る尋ねると、加藤の目がギュッと閉じられ、開かれると白目の部分が充血し、赤くなっていた。
「……っ、俺達は、横一列に並んで長いエスカレーターに乗った。そしたら、後ろにいた人のキャリーケースが、姉貴の立っていた位置に落ちてきて……それに気付くのが遅れた姉貴は……そのまま荷物と一緒に落下して……二日後に死んだんだ……」
「……っ」
加藤の姉の話を聞き終えた奏音は、悲痛な気持ちで膝上の手を握る。
大好きだったと語る姉を喪った加藤。
きっと言葉で言い表すことなどできない程、今も深く傷付いているだろう。
だが、それと自分を嫌う理由がどう関係しているのかと思うと、「相楽は、似てるんだ……」と、加藤が再び口を開いた。
「えっ?」
「うちの、姉貴に……」
意外な言葉に、奏音が目を丸くする。
「もちろん、顔じゃない。――けど、雰囲気とか喋り方、髪型とか、バレーやってるのとか……相楽さんを心配して世話を焼いたり、松山さん達に囲まれて、話してる姿とか。そういうのが……怖いくらい、姉貴を思い出させる」
加藤はそう言うと、目から涙を伝わせていき、「つらいんだよ……っ」と、顔を押さえた。
「姉貴の面影を感じる相楽を見てるのが、辛いんだ……っ。本当だったら、姉貴もこんな風に中学校生活を送れてたかもしれないのに……っ!友達と笑い合って、恋だってして、これからもっと楽しいこともあったはずなのに……って!」
加藤はまたグッと軽くえずき、背中を丸めて吐き気を耐えている。
「……だから、お前は何も悪くないし、昨日の礼だって必要ない……。こんな理由で、相楽を不快にさせてるのは俺なんだから……。でもっ、頼む……!俺は、あの日のことと、姉貴のことを思い出したくない……。――けど、相楽がそばにいると、嫌でも思い出す……。だから、俺にはもう……関わらないでくれ……っ」
浅く、早い呼吸を繰り返し、奏音に懇願する加藤。
「…………」
彼の隣で全てを聞き、事情を知った奏音は、今――静かに怒りを燃やしていた。
「……わかった」
松葉杖を手にした奏音は、左足をかばいながら立ち上がると、深く俯く加藤を見下ろす。
「でも……はっきり言っておく。私はあんたのお姉さんじゃない。相楽奏音っていう別の人間だし、一緒にされても正直迷惑……」
「…………」
「――だけどそれより、私があんたの話を聞いて一番腹立ったのは……お姉さんを『大好き』って言っておきながら、お姉さんの存在ごと忘れようとしてることっ!!」
いつの間にか奏音の目にも、涙がじわじわと溢れ始めていた。
「可愛がっていた弟に……っ、大好きな弟に思い出したくないって思われるなんて……こんなに、悲しいことはない……っ!」
膨れ上がって破裂した感情を全て言い終えた奏音は、「はぁっ……」と息を吐き、鼻を鳴らすと、「じゃ……今日から話しかけないから」と、その場を去る。
加藤は、チャイムが鳴っても教室に戻らず、階段に居座ったまま動かなかった。
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