第281話 謎は深まる(後編)
奏音を保健室まで運び、養護教諭の柿原先生に預けた加藤は、後ろで何か言いかけた彼女の言葉を待つことなく、早々にその場を後にした。
「加藤くん!」
扉を閉めたと同時に、立花から奏音の報せを受けた亜梨明が、緑依風と共に不安げな様子で駆けてくる。
「相楽さん……」
「奏音は……!?」
「足……だいぶ腫れてた。本人は折れてないかもって言ってたけど、結構痛そうだった……」
加藤はそう答えながら、胃の中でぐらぐらと蠢く感覚に顔をしかめる。
「――加藤?なんか、顔色悪いよ……?」
「えっ?」
緑依風が彼の様子に気付いて指摘すると、亜梨明が下からそっと覗き込む。
「……気のせいじゃない?俺、先に戻るね」
これ以上、もうずっと我慢していたものを堪えきれないと思った加藤は、少し急ぎ足で亜梨明達から離れる。
「加藤くーん!ありがとうー!!」
後ろの方で亜梨明のお礼が聞こえても、振り向いて返事が出来ない程、加藤に余裕は無かった。
「……ぅっ、げっ……ぅ」
トイレに駆け込んだ加藤は、個室のドアを閉めると同時に、便器の中へ昼食に食べた物を吐き戻す。
目を閉じると、落ちる瞬間の奏音の姿が“遠いあの日”の光景と重なり、また胃が捻じれて、ドボドボと水面が揺れた。
「……はぁっ、はぁっ」
冷や汗が止まらない。気持ち悪い。思い出したくない記憶が――あの人が。
「ぇ……っ、ちゃ……っ、ぅっ……!」
胃酸に焼けた加藤の喉元から、絞り出されるように声が漏れる。
*
保健室では、柿原先生が奏音のすねや足首の状態を確認していた。
「……やっぱり病院に行った方がいいわね。腫れてるし、床にまともに足が付けられないし。打撲の方も、念のためにレントゲンを撮ってもらった方がいいわ」
柿原先生は氷嚢を用意しながら、「頭も、もし頭痛がしたり、違和感があるなら脳神経外科に行ってね」と付け足し、今日はすぐ親に迎えに来てもらうように連絡すると言った。
「もぉ~っ!!立花ちゃんに聞いて、本っ当に心配したんだから!!」
亜梨明は椅子に座った奏音に抱き付き、今すぐ命に関わる状態じゃなかったことに安堵する。
「まさか、亜梨明に心配される日が来るとは……」
奏音は亜梨明に抱き締められながら、ちょっと情けない気分で呟き、ぐりぐりと頭を擦りつけてくる姉を押し離した。
その後、母親の明日香に迎えに来てもらった奏音は、五限目からの授業は参加せず、早退することになった。
整形外科で診察を受けると、骨折はしていなかったが、足首の捻挫は全治約一か月。
当然、土曜日の練習試合は出れなくなってしまった。
「せっかく、初スタメンだったのに……」
つい一時間前、立花と共に意気込んだばかりだというのにと、奏音はしゅんと小さくなって、落胆する。
普段の部活動も、ボール拾いすらままならない足では、邪魔になるだけだ。
努力してやっと得たものが、ひらりと蝶のように飛んで行ってしまいそうで不安になる。
*
母の運転する車が自宅前に到着すると、奏音は病院から借りた松葉杖で半身を支えながら降り、家の中へと入る。
足首には湿布と包帯、その上から固定するためのサポーターが巻かれており、二階の自室へは、這うようにして階段を上っていくしかない。
「あぁ~っ、疲れた~!!」
奏音はベッドの上に寝転がると、天井に向かって投げやりな気分で叫ぶ。
「足一本不自由なだけで、すごく不便だ……」
子供の頃から、外遊びが好きだった奏音は、擦り傷、切り傷ならしょっちゅう作っていたが、こんな誰から見ても怪我人とわかるようなものは初めてで、鏡に映った自分の姿を見た時も、「わぁ……」と思わず声が出てしまった。
「はぁ~っ……試合、出たかったなぁ~……」
「……確かに残念だけど、その分来月の発表会に向けて、バイオリンの練習に専念できるじゃない?」
奏音の通学鞄や、処方された湿布などを持ってきてくれた明日香は、枕に顔を埋めて悔しがる娘にそう話しかけるが、奏音の気持ちは晴れない。
というのも、今通っているバイオリン教室の先生とは、どうも相性が悪いようで、東京にいた頃のように楽しく弾けないのだ。
「……ま、本番まであっという間だしね」
奏音が、ベッド横に置いてあるバイオリンのケースに手を伸ばすと、明日香は退室し、夕食の準備をしに行った。
*
一時間程練習をしていると、立花からスマホにメッセージが届いた。
アプリを開いて読んでみると、怪我の具合を心配する内容で、奏音は医者に言われた完治までの予想期間と、試合には出られなさそうなこと、謝罪とお礼の文章を打って、ついでに女子バレー部のグループトークルームにも、今日の出来事を綴って送信した。
「そういえば、加藤のやつ……お礼も言わせてくれなかったな」
椅子の上に降ろしてもらい、加藤が柿原先生に「では……」と言って去ろうとした時、奏音は「ありがとう」と言おうとしたのだが、彼はすぐに戸を開けて出て行ってしまった。
「(嫌なやつだけど、根っからの嫌なやつではないんだよね。きっと……)」
そうじゃなければ、あのまま奏音を放っておくこともできたし、奏音から逃げたかった加藤にとっては、絶好のチャンスだったはず。
亜梨明や他のクラスメイト達にも、彼が意地悪なことをしている姿は見たこと無いし、悪い噂も一切聞いたことが無い。
なのに何故、自分にだけ?
彼は、奏音は何も悪いことはしていない。一方的に嫌いなだけだと言った。
確かに、生理的に受け付けない人間もいるが、加藤にとって、それが自分だったのだろうか?
「あーっ!ますますわかんないっ!!」
考えれば考える程謎が深まり、奏音は頭を抱えてベッドの上でゴロゴロと転がるが、打撲したすねがズキンと痛むと、スッと我に返ってそれをやめた。
「――あれ?」
仰向けになり、天井の壁を見上げた奏音の頭に、落ちる瞬間に目にした加藤の姿、そして、彼が自分に向かって叫んだ言葉が蘇る。
「……ねえちゃん?」
落下していく時にはよくわからなかったが、彼は確かにそう声を張り上げ、奏音に手を伸ばした。
ねえちゃん……姉ちゃん?姉?
「なんで姉ちゃん……?」
相楽と呼ばれるならわかる。
学校では、亜梨明と双子ということで、男女問わず下の名前で呼ぶ者もいれば、親しくなかったり、風麻のように女子を名前呼びするのが恥ずかしいからと、用のある方に『相楽』と、どちらかの顔を見て苗字で呼ぶ男子も多い。
加藤の姉になった覚えは無いし、いくら咄嗟の出来事だからと、さすがにそんな呼び間違いなんて、滅多に無いだろう。
「…………」
ますます深まる謎に、奏音は更に頭を悩ますのだった。
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