第273話 料理サークル


 次の日。


「はぁ~っ……」

 トイレを済ませ、手を洗う緑依風は、鏡を見ながら大きなため息をついた。


「ものすご~く、憂鬱そうなため息ですね~」

「あ、晶子……」

 斜め後ろの個室から出てきた晶子が、クスクスと笑いながら緑依風の隣の蛇口を捻る。


「どうしたんですか?今、幸せ絶好調じゃないんですか?それとも憂鬱ではなく、幸せ過ぎのため息ですか?」

 二日前、緑依風から風麻と交際を始めたことを聞いた晶子。


 報告を受けた瞬間は、幼馴染で親友の長年の願いが成就したこと心から祝福するのと同時に、ここまで引っ張り続けた風麻に少々物申したい気分にもなったが、幸せそうにはにかみながら語る緑依風の顔が見れたことが嬉しくて、それは我慢しようと思ったところだった。


 なのに、それからまだ間もないというのに、今の緑依風はちょっぴり疲れたように見える。


「うーん……幸せなんだけどね。なんだけど~……」

 緑依風が女子トイレの入り口の壁に隠れながら、三組の教室前で佇む風麻に視線をやると、彼はそわそわした様子で何かを待っている。


「何してるんですか?」

「ボディーガードだって……」

「え?」

「教室からトイレまでの距離で、何かあったら心配だからって……」

「わぁ……」

 緑依風が晶子と共に廊下に出ると、それに気付いた風麻は「遅かったな」と、言いながら近寄ってきた。


「あぁ、晶子とちょっと話してて……」

「なんだ、それならいいや」

「ちょっと風麻くん、デリカシー無さ過ぎて引きます……」

 晶子が呆れ顔で言うと、「なんで?」と風麻が首を傾げる。


「……緑依風ちゃん、お昼休みにお話ししましょう。女だけで……」


 *


 昼休み。


 緑依風の机の周りには、相楽姉妹、星華、晶子が彼女の周りをぐるっと囲むように並んで立っている。


 そして、風麻はというと、晶子に協力を要請された利久と爽太、直希によって、強制的に教室の外へと連れ出された。


 緑依風は、昨日のバレー部の部活動終了後から、風麻のボディーガードがより一層強化されたこと、彼を待つ間の時間の使い方についての悩みを、晶子や星華にも打ち明けた。


「そうですか〜……。なんか、束縛されてるみたいですね……」

「束縛っていうか……。大事にされたり、ヤキモチ妬かれるのは嫌じゃないし嬉しいんだけどね。さっきみたいに、トイレを近くで待ち伏せされてるのは恥ずかしいし、風麻と風麻の友達以外の男子とは目も合わせるなってのは、流石に無茶だなって……」

「いや、それ完全に束縛系彼氏じゃん」

 星華が、うげっとした顔で言うと、亜梨明もうんうんと頷いた。


「……まぁ、私は坂下が警戒する気持ちもわからなくないけどね」

 皆が風麻の行き過ぎた言動に冷めた気持ちになる中、奏音だけは彼の考えに理解を示す。


「緑依風にはあんなことが起きたばかりだし、今は多分、また同じようなことがあったらって気持ちが、強すぎるだけなんだと思う。……須藤あのひとだって、きっかけは些細なことからだったじゃない。やり過ぎだとは確かに思うけど、緑依風と坂下が付き合ってるってことが、もう少し周りに広まれば、他の男子だって下手に緑依風と距離を縮めようって気も起きなくなるだろうし、そうなれば坂下の警戒心も、きっとすぐにおさまるよ」

 奏音の言葉を聞くと、四人は確かにといった風に思い直し、もうしばらく彼の言動を観察することにした。


「……で、待ち時間の方は解決したんじゃなかったっけ?亜梨明ちゃんがこれから一緒に待ってて、話し相手になってくれるんでしょ?」

 星華が聞くと、「そのことも、昨日緑依風ちゃんと話したんだけどね……」と、亜梨明が口を開く。


「これから、来年の夏までずーっとこのままっていうのは、やっぱりなんかもったいないねって思って……。それに、話が盛り上がり過ぎちゃうと、つい笑い声とか大きくなっちゃうし、真面目に部活動してる人達の迷惑になるかな~って」

「それなら……この際ですし、みんなで部活を立ち上げませんか?」

「へ、部活?」

 緑依風が聞くと「はい。風麻くんを待つ間に、緑依風ちゃんも風麻くんも安心できるメンバーで」と、晶子は全員の顔を見ながら答えた。


「もちろん、奏音ちゃんもバレー部の練習が無い日は、遊びに来ていいんですよ」

「それは嬉しいけど、何の部活?」

 奏音が腕組みながら聞くと、「決まってるじゃないですか!」と、晶子が意気揚々としながら、ビシッと緑依風に指を差す。


「緑依風ちゃんを部長とした、料理部です!」

「料理部……!?」

「料理部……!!」

 緑依風と亜梨明が同じタイミングで同じ言葉を、正反対の反応でそれぞれ声に出した。


「ちょ……ちょっと待ってよ!私が部長で料理部って!?」

「正確には、これから新たに作るので“料理サークル”ですね。大人顔負けの料理の腕前を持つ緑依風ちゃんから、みんなで料理を習うんですよ」

 晶子が説明すると、緑依風は、パクパクと口を動かして困惑した表情をしているが、亜梨明は「それすっごくいいアイディアだよ!」と言って、大賛成だった。


「これなら、爽ちゃん達を待ってる間の時間も潰せるし、真面目に部活して頑張ったら内申書にもいいこと書いてもらって、受験がちょぴっと有利になるよね!」

「はい!いいとこだらけです!」

「ねっ、緑依風ちゃん!料理サークル一緒に作ろう?私、緑依風ちゃんにもっとたくさんお料理教えて欲しいな!」

 亜梨明は目をキラキラさせながら緑依風の腕にしがみ付き、「おねが~い!やろうよ~!」と、懇願する。


「うっ……でも、星華は……?」

 緑依風が星華の意見も知りたそうにすると、「私も賛成!」と、彼女は右手を上げて晶子の案に賛意を示した。


「科学部辞めてからどこにも所属してないし、料理ができるようになって、ママに美味しい物食べさせてあげたいし!」

「そうそう、料理が出来て困ることは無いですしね~!」

「私も!たまごサンドとチョコ以外にも色々覚えて、いつか爽ちゃんにお弁当作って学校に持っていきたい!!」

 三人が緑依風の顔に詰め寄り、じっと見つめながら訴えると、緑依風もだんだんその気が芽生えてくる。


「ん〜……。そうだね……元々、入学したら料理部に入りたいって思ってたし、みんなも一緒なら楽しそうだし……料理サークル、立ち上げようかな?」

 緑依風がそう言って、部の立ち上げと部長の役割を引き受けることを承諾すると、亜梨明と星華は「バンザーイ!」と両手を上げて喜んだ。


「副部長は誰がするの?」

 奏音が聞くと「私やる!」と亜梨明が名乗り出た。


「そだ、顧問はどうする?調理室の許可ももらわなきゃだし」

 星華が緑依風に話を振ると「顧問なら、三組担任の梅原先生がいるじゃないですか!」と晶子が言った。


 晶子の言う通り、緑依風達の担任の梅原先生は家庭科の教員で、調理室の管理責任者でもある。


 おまけに、まだ教師になって二年目ということもあり、どこの部の顧問にもなっておらず、ぴったりの人材だ。


「じゃあ早速、放課後になったら梅原先生にお願いしに行こう!」

 亜梨明が両手を合わせて緑依風達に言うと、奏音が「ん、ちょっと待って?」と、何かを思い出して眉をひそめる。


「……確か、部活を立ち上げる時には、部員が五人揃ってないといけないんだよね?」

 盛り上がっていた空気が、途端に静まり返る。


「あ~、掛け持ちでいいなら私入るけど……。ただ、週に一回はバイオリンのレッスンもあるし、今は発表会も近いから、いつも以上に練習しないといけないし、しょっぱなから幽霊部員になるかも……」

 奏音が申し訳なさそうに肩を落とすと、「大丈夫!」と亜梨明が言った。


「私、誘いたい子いるんだ!ちょっと待ってて!」

 亜梨明はそう言って、小走りで教室の外へと向かう。


 そして、それから二分も経たないうちに、亜梨明は「おまたせ~!」と、誰かの腕を引っ張りながら戻ってきた――が、その人物を見た途端、晶子以外の三人は驚きのあまりギョッと目を疑う。


「こ、光月さん!?」

 緑依風が意外な人物がやって来てびっくりした声を上げると、亜梨明は「楓ちゃん、部活入ってくれるって!」と、紹介するように両手を彼女の前に差し出した。


 光月楓は、去年の二学期に夏城中学校に転校してきた少女だ。


 無口で無表情、暑い季節でもカーディガンを羽織り、決して肌を見せず、他人を避け続けるといった様子から、変わり者扱いされていたのだが、色々あった末に亜梨明と友達となり、クラスが違っても交流を続けていた。


 あれから一年経っても、相変わらず表情は乏しいが、亜梨明が長期入院している時も、時々メッセージを送り、心配してくれていたらしい。


「これで五人揃ったよね!」

 亜梨明がご機嫌な笑顔で奏音に言うと、「いいの……?光月さん?」と、奏音は亜梨明に無理やり連れてこられたのではないかと思い、楓本人に確認をする。


「うん……部活も習い事もしてないし。それに、亜梨明さんがいるならいいかなって……。ただ……これは何をする部活なの?」

「えっ?」

 薄い表情のままの楓にそう聞かれて、キョトンと首を傾げる亜梨明。


 どうやら彼女は、楓を誘うだけ誘って、部活の内容までは言わなかったようだ。


「あんた……何部か説明しないで光月さん誘ったの?」

 奏音が呆れ顔でため息をつくと、緑依風は「何部か知らないで、入部してくれようとした光月さんもすごいよ」と苦笑いした。


「料理サークルだよ!部長は緑依風ちゃんで、私が副部長!」

 亜梨明が改めてきちんと説明すると、「光月さん、料理好き?」と、緑依風が尋ねる。


「……あまり、したことない。でも……嫌いじゃない……し、興味は……ある」

「それじゃあ……!」

 亜梨明が楓の顔を見つめると、「うん、いいよ」と、彼女は料理サークルと認識した上で入部することを決めたようだ。


「やったぁ!ありがとう、ありがと〜‼︎」

 亜梨明が楓の手を握ってぴょんぴょん跳ねると、楓は黙ったままちょっぴり照れ臭そうに顔を歪めた。


 *


 放課後、緑依風達は梅原先生に、料理サークルを立ち上げたいことと、活動場所に調理室の使用許可をお願いした。


 梅原先生は快く引き受けてくれたので、あとは先生から学校側に新規の同好会申請をするだけとなった。


「お料理なら、亜梨明さんも無理なく部活動ができるわね。部費などの話はまぁ追々として……活動日はいつにするの?」

 メモを取り出した先生に、緑依風は男子バレー部が平日に行う活動日と同じ『月、水、金』と告げた。


 梅原先生は、活動日や入部希望者の名前などを全てメモすると、立ち上げて活動を開始するには、まず許可を得ないと何とも言えないので、すぐには無理だということ。


 同好会の新設が可能になった場合でも、今日からテスト週間になるので、最短でも活動できるようになるには、テスト終了後になると告げた。


 *


 職員室を出ると、亜梨明と晶子はすでにワクワクが堪えきれない様子で、手を取り合ってキャッキャとはしゃぎ、楓も声にはしないが、目や口の僅かな動きから楽しみことが伺える。


「あ、そだ!せっかくだし、料理サークル立ち上げを記念して円陣組もうよ!」

 星華が提案すると、「まだ一応立ち上がってないし、許可下りないとだよ」と緑依風が言う。


「大丈夫だよ~!梅ちゃん言ってたじゃん!元々あった部活だから絶対通るって!」

「そうだよ緑依風ちゃん!やろうやろう!」

「えっ、ここで?」

 今いるのは職員室の目の前だというのに、亜梨明や星華、晶子、楓までもがすでに肩を組み合い、輪を作り始めている。


「んも~っ、しょうがないなぁ~……」

 あとは自分一人となってしまっては、緑依風も参加しないわけにはいかない。


 緑依風が亜梨明と晶子の間に入って肩を抱き合うと、星華は「じゃ、料理サークル部長、松山緑依風さん一言どうぞ!」と言って、彼女に掛け声を求めた。


 場所が場所なのと、こういったものに慣れていないせいで、緑依風はちょっぴり困った顔で躊躇うが、亜梨明のニコニコとした笑顔、星華や晶子の面白そうな顔、緑依風と同じくやや恥ずかしそうにしつつも、皆と合わせようと頑張る楓の顔が、緑依風を真っ直ぐに見つめる。


「う……っ、あ、えっ、と……ぉ……」

 何か言わなきゃと、懸命に考える緑依風だが、特にカッコいい決めゼリフは見つからないので、シンプルな言葉を選ぶ。


「た……たくさん料理するぞーっ!!」

 職員室前ということで、緑依風が小さめの声で掛け声を上げると、四人もきちんと場をわきまえ、控えめの声量で「おーっ!」と言った。


 円陣を解き、玄関で待ってくれている風麻達の元へ向かいながら、緑依風はメンバーの後姿やおしゃべりをする横顔を眺める。


 中学に入ってから仲良くなった亜梨明。

 長年親友として付き合いのある晶子と星華。

 とあることがきっかけで知り合った楓。


「(なんだか、思わぬ形で料理部に入りたかった希望が叶っちゃったな……)」

 一年の部活紹介の時は、前年度に廃部になっていたことを知り、意気消沈していたというのに、今になって自分達で部を設立することになるとは思ってもみなかった。


「ふふっ……」

 不安もあるが、それ以上に楽しみな気持ちが湧いて来た緑依風は、いつもより軽い足取りで廊下を歩くのだった。


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