第20章 追憶の姉弟

第269話 彼氏と彼女


 窓の外から、小鳥の鳴く声がする――。


 緑依風がベッドの中で寝返りを打つと、下の階から父の北斗が出勤準備をする物音が聞こえてきた。


 朝の六時には、店の厨房に一番最初に立ち、仕込みを始める父。


 普段は誰にも見送られることなく仕事場へと向かう父を、たまには見送ってあげたいと思い、緑依風はベッドから降り立つ。


 十月もすでに十日過ぎたこの時期、薄手の長袖パジャマ一枚じゃ寒いので、パーカーを羽織ってドアを開けると、北斗はすでに玄関で靴を履いている最中だった。


「お父さん」

 緑依風が声を掛けると、北斗は二階から顔を覗かせた娘に気付き、「おはよう、起こしちゃったか」と少し申し訳なさそうな顔になる。


「ううん、多分……眠りが浅かっただけだと思う。夜もなかなか寝付けなくて」

 緑依風が階段を下り、父の元へ近付きながら言うと、北斗は「眠れなかったのか?」と、心配した様子で尋ねる。


「不安ごと?……でも、昨日は風麻くん達と遊んで来たんじゃ……?」

「あ、ううん!不安でじゃなくて……そのっ、楽しすぎて……頭が興奮したままだったというか~……」

 緑依風が少し顔が熱くなるのを感じながら、寝ぐせの付いた髪に触れて語ると、北斗は安心したように笑って、「そっか」と言った。


「お母さんから、また何か言われたのかと思ったけど、違うならよかった」

「うん……最近は大丈夫だよ」

 そう聞いて、北斗はホッと胸を撫で下ろすと、小さな鞄を持って「じゃあ、行ってくる」とドアノブに手を掛けた。


「うん、いってらっしゃい!」

 父がドアの向こうに消え、パタンと静かな音が響くと、緑依風はギュッと目をつぶりながら両頬を包み、その場に座り込む。


 そして蘇る、前日の出来事――。


 風麻と妹達、そして風麻の弟達と共に訪れた秋山公園で、めいっぱい遊んで、はしゃいで、お弁当を食べて――。


「(そ、そのあと……!)」

 二人きりになり、風麻から「お前が好きだ」と告げられ、キスをされ――。


「~~~~っ!!!!」

 もう何度目かわからない脳内での再現。


 その度に緑依風は嬉しさのあまりに悶絶し、夜ベッドに入ってからも、冷めきらぬ興奮のせいでなかなか眠れなかったのである。


「はぁ……」

 両親や妹達の前では、なんとか普段通りを装うことができたが、今日は学校――つまり、あと二時間後には毎朝登下校を共にする風麻と会うことになる。


「あぁ、もう~っ……どんな顔したらいいのか……!」


 *


「いってきまーす!」

 七時五十分になると、緑依風はいつも通り家を出る。


 浮かれてしまいそうな自分を諫めつつ、それでもやっぱり意識をしてしまったせいか、今日は跳ねやすい毛先を念入りに真っ直ぐに伸ばしたり、ギリギリまで鏡の前で髪型をチェックしたりと、普段なら気にならないことが気になってしまう。


「(いやいや、あんまり考えすぎるのやめよ……)」

 これで風麻が三日前までと同じような様子だったら、ますます恥ずかしくなってしまうだけなのだからと、緑依風が思っていると、坂下家のドアがガチャッと開く。


「おはよう」

 緑依風が風麻に挨拶をすると、彼も「おはよ!」と今まで通りの様子で朝の挨拶をする――が。


 緑依風の前に立った途端、彼は急に片手で口元を隠し、ゆっくりと視線を逸らす。


「……どうしたの?」

 下を向き、固まる風麻の顔を緑依風が覗き込もうとすると、彼は「いや……その……っ」と、言葉を詰まらせながら彼女に視線を戻していく。


「……っ、フツーにしてようと思ったんだけど、お前の顔見た瞬間、嬉しくてニヤけちゃいそうになって……」

「…………!」

 風麻にそう言われた途端、緑依風の顔もカッと一気に熱くなる。


「そ、そう……」

「あぁ……」

 空気はひんやりとしているのに、二人の体はまだ夏の余韻を残すように汗ばんでいた。


「あ、の……とりあえず、ガッコ!学校行こうよ。遅刻しちゃうし……」

 緑依風がまだ頬を赤くしたまま、進行方向に向かって指差すと、風麻は「そう、だな……!」と言いながらスポーツバッグを持ち直し、歩こうとする。


「……なぁ、緑依風」

 一歩歩き出し始めた緑依風を、風麻が呼び止める。


「ん?」

 緑依風が振り返ると、風麻は少し迷うような面持ちで右手を見た後、その手のひらを彼女に向けてスッと差し出した。


「あの、さ……せっかくだし、手繋いで行かねぇ?」

「へっ?」

「……前に……緑依風言ってたじゃん。俺が本当にお前のこと好きになるまでは手を繋がないって」

「う、うん……」

「でも、今はさ……彼氏と彼女になったわけだし……そのぉ~……ぼ、防犯っつーか……あ~、ホラ……変なのが来ても繋いでたら守れるし……?俺も緑依風も安心安全、一石二鳥っていうか~……」

「…………」

 風麻が照れる気持ちを抑えながら、“緑依風と手を繋いで歩きたい”意思を伝えようとしていると、緑依風はそんな彼氏の一生懸命な姿にクスッと笑い、風麻の手に自分の手をそっと乗せた。


「……じゃあ、他の人に見られると恥ずかしいから、大通りまででお願いします」

 緑依風がそう言って、風麻と自分の指が交互に絡み合うようにすると、風麻は「おう……しっかりボディーガードするわ」と言って、しっかり彼女の手を握った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る