第262話 牙(後編)
戸締りを梅原先生に任せ、緑依風と風麻は共に保健室を訪れる。
爽太は、緑依風の荷物を憔悴しきった彼女の代わりに持ち運ぶと、今日の部活は自主練になったことを部員達に伝えるため、体育館へと戻った。
養護教諭の柿原先生は、波多野先生から緑依風のことだけを聞かされていたようで、風麻までもが切り傷を負っていたと知った時は、血相を変えて彼の傷の具合を確認した。
幸いにも、すでに血は止まっていたようで、傷口を押さえていたハンカチを離しても、そこから彼の鮮血が再び流れ出てくることは無かった。
「深くなくて本当に良かった……。これなら縫わなくても大丈夫ね……」
風麻の傷口を消毒した柿原先生は、ガーゼと包帯を使って手当てを終えると、丸椅子に座って氷嚢を腕に当てている緑依風を見る。
「……大丈夫?」
下を向いたまま体を小刻みに震わせる緑依風に、柿原先生が声を掛けた。
緑依風は、そんな柿原先生の優しい声にさえ怖がり、ビクッと肩を揺らすと、「……ぁ、あのっ……」と、涙に腫れた顔を上げ、「すみませんっ……まだ、混乱っ……してて……」と、失礼な態度を詫びた。
すると、コンコンコン――と、保健室のドアがノックされ、梅原先生が入ってきた。
どうやら学校は今回のトラブルを警察に通報したらしく、須藤から被害を受けた緑依風と風麻に話を聞きたいと言っているようだ。
先に風麻が話をすることになり、柿原先生は風麻が話し終えるまでの間、緑依風に少し横になって休むように促した。
*
事情聴取を終えた風麻は、体育館に戻り、爽太に部活を早退することを告げた。
「悪いけど、あとのこと任せていいか?緑依風のこと、早く家に帰してやりたいからさ……」
風麻が頼むと、爽太は「うん、その方がいい」と、快く引き受けてくれた。
「松山さんは?」
「今、警察と話してる」
「えっ、警察っ……?」
爽太が驚くと、「あ、他の人にはナイショな……」と、風麻は竹田先生にそう言われたことを思い出して声を潜めた。
「なんか、でっかいことになっちゃったけど……。やっぱり凶器を持って暴れまわったってのと、人に怪我させたってことでな……須藤の身柄も、一旦警察が預かるんだとさ」
「そっか……」
爽太が静かな声で言うと、風麻は再び先程の出来事を思い出し、包帯が巻かれた腕を押さえながら唇を嚙む。
「……怖かったな」
ぐっと俯き、声を震わせてそう呟く風麻に、爽太は「そりゃそうだよ……」と、彼の右腕を見る。
「刃物で斬りつけられたんだ……。怖くないわけがないよ……」
「切られたことじゃない」
「え……?」
てっきり――というより、当然そのことだと思い込んでいた爽太に、風麻は「それより……もっと……っ」と、低く籠った声で続ける。
「緑依風が……っ、須藤に殺されるかもしれない……そうじゃなくたって、酷いこと……されるかもしれないって、考えたら……怖くて、無我夢中で走った……!」
教室のドアを開いた時の光景が、何度も瞼の裏に蘇る。
カッターを振り上げ、今にも緑依風に斬りかかろうとしていた須藤。
襟元をはだけさせられ、手を縛られていた緑依風。
あと少し気付くのが遅ければ、殺しはしなくとも、彼女の心身に今以上の深い傷が刻まれていたのかもしれないと思うと、生きた心地がしなかった。
本来なら、もっと早くに須藤の企みに気付くべきだった――それでも、間に合ってよかった……と、最悪の事態にならなかったことに風麻は胸を撫で下ろすのだった。
*
緑依風が警察と話を終える頃には、時刻は午後五時半を過ぎていた。
梅原先生と警察が残る部屋から出ると、風麻がそのすぐ前の壁にもたれながら待っていてくれた。
「帰ろうぜ」
練習着から制服に着替え終えていた彼は、そう言って緑依風に微笑みかける。
「…………」
罪悪感で、風麻の顔をまともに見れずにいる緑依風は、沈んだ顔のまま俯いてしまうが、彼は「ほらっ、靴履き替えに行くぞ~」と、彼女の肩を軽く叩いて、一緒に靴箱へと向かった。
学校を出てからも、緑依風は一声も発さず、沈黙したまま風麻の後ろを歩いていた。
須藤の声が、顔が、触れられた部分の感覚が、あれから時間が経っても抜けきらない――。
「全部君のせいだ」という須藤の言葉が、今も耳奥でこだまし続け、全身に残る痛みが自分の軽率な考えを後悔させる。
須藤の計画は失敗に終わったものの、目的は達成されたようで、緑依風の心は彼が与えた恐怖で支配されている状態だった。
それだけではない――。
風麻が怪我をする原因を二度も作ってしまったことも、緑依風を更に苦しくさせた。
私のせいでこうなった。
須藤くんの言う通り、あの日私が須藤くんに構わなければ、興味を持たれることもなかったし、自分が狙われることも、風麻を巻き込むことも無かった……。
泣きたくなっても、全て自業自得のこと。
泣いたってもうどうにもならないし、風麻を困らせるだけ……。
緑依風はそう思いながら、油断すればまた溢れてしまいそうな涙や、胸の奥で塊になって消えぬ恐怖心に堪え続け、アスファルトと前を歩く風麻の足元を見下ろしながら家路を歩いていた。
そんな彼女の心を知ってか知らずか、風麻は星が見え始めた空を見上げながら、「すっかり日が暮れるの早くなったなー!」と、数歩後ろにいる緑依風に話しかけるよう、大きな声で言った。
「来週はいよいよ体育祭だし、俺超楽しみっ!晴れるといいよなぁ~!」
「…………」
緑依風が何も返せずに無言を続けていると、家まであと数百メートルの住宅街に入ったところで、突然風麻が立ち止まり、肩に掛けていたスポーツバッグをドンッとアスファルトの上に落とすように置く。
「緑依風……」
振り返った風麻が、優しく彼女の名を呼び、「我慢すんな……」と、言った。
「え……?」
緑依風がようやく顔を上げると、「泣いていいぞ」と彼は柔らかい風のような声で言い、緑依風との距離を詰める。
「……さっきは、泣くなって言ったくせに」
真逆のことを言い出す風麻に、緑依風が視線を逸らして拒むと、彼は「さっきのは、俺のために泣かなくていいってこと!」と腰に手を当て、彼女の腫れた目を見た。
「溜めてると苦しいだろ……」
「…………!」
「今は周りに誰もいないし、泣き顔見られんのが恥ずかしいってんなら隠してやるし……家に着く前に、怖かったこととか嫌だったこととか、涙と一緒に全部吐いちまえ!その方が多分、ラクになるだろ……なっ?」
風麻はそう言い終えると、両手を広げて緑依風に笑顔を向けた。
その途端、緑依風がずっと耐えようとしていたものが、堰を切ったように溢れ出す。
「――ふっ、ぅっ……うわぁぁぁぁ~~っ!!」
自分に抱きつき、幼い少女のように大きな声で泣き始めた緑依風を、風麻は力強く抱き締め返して、彼女の背や頭を擦る。
「……こ、こわかった……っ、怖かったよぉぉっ……!」
緑依風は、風麻のシャツをクシャクシャに掴みながら叫び、風麻は「よしよし、もう大丈夫だからな……」と、震える緑依風が落ち着けるように言葉を掛けた。
「……ぅっ、いたくてっ、きもちわるくてっ……もうっ、っく、ダメかとおもったっ……!……ふうまがっ、風麻がきて……くれなかったら……って、思うとっ、まだ……こわくて……っ!」
「……ごめんな、助けに行くの遅くなって」
風麻が謝ると、緑依風はしゃくりを上げたまま「ううん……っ」と首を振り、風麻の肩口にくっつけていた顔を離す。
「ちゃんと、きてくれた……っ、たすけてくれてっ、ありがとう……!」
「……約束、したからな」
「……っ」
風麻はもう一度緑依風の顔を自分の身に埋めると、離れないように強く強く抱き締める。
その時ふと、彼はとあることに気付く。
これまでずっと背が高くて大きいと思っていた彼女が、今はすっぽり腕の中に納まってしまう程、頼りないことに。
「(ちっちゃくなっちゃったなぁ……)」
風麻は、ぐずぐずと鼻を鳴らす緑依風の背を一定のリズムで優しく叩きながら、心の中で決意を固める。
緑依風のことはずっと、俺が守っていく。
小さい頃からそうだったように……これからもずっと……だ!
今はまだ、口にはせず……けれどもしっかりと、風麻は泣きじゃくる緑依風のために、そう誓うのだった。
*
翌週、月曜日。
校内では、金曜日に警察が学校に来ていたという話だけが流れ、誰が誰と何があったのかという内容は、当事者のみぞ知ることとなった。
タイミングのいいことに、ちょうど今日から制服は冬服へと変わったため、緑依風も風麻も負傷の痕や傷を隠すことができた。
亜梨明達は、その騒動に須藤が絡んでいると思い、緑依風の身を案じて彼女に話を聞いたが、緑依風が須藤の行いを語ると心底驚愕し、「無事でよかった」と口々に言った。
「本当に、危機一髪だったね……」
奏音は顔を引きつらせ、粟立ってしまった両腕をこする。
「うん……」
「緑依風ちゃん……怪我もだけど、気持ちの方も大丈夫?」
亜梨明が緑依風の精神面を心配すると、「そっちも大丈夫」と緑依風は言い、直希や男友達とお喋りを楽しむ風麻を見た。
「風麻がたくさん泣かせてくれたから、思ったより平気……」
暑がりな風麻は、長袖のシャツを包帯がわからないギリギリのところまで捲り上げ、下敷きでパタパタと顔元を扇いでいる。
「しっかしまぁ~、坂下のヤツ……ピンチに駆けつけて自分が怪我してでも助けちゃうって、すっごい男前なことするじゃん!ちょっと見直したよ!」
星華が感心しながら言うと、緑依風はクスッと笑い、「あの子は昔から、私にとってナイトでヒーローだから」と言った。
「(風麻は多分、覚えてないんだろうけど……あの約束は、実は二回目なんだよね)」
それは、九年前の八月八日。
風麻が緑依風に誕生日プレゼントとして、葉っぱのイヤリングを渡した日の夜。
緑依風の家に、両親が風麻や彼の家族を招き、みんなで彼女の五歳の誕生パーティーをした時だった。
「ねぇ、りいふちゃん。もしまたりいふちゃんをいじめたり、ひどいことするヤツがいても、だいじょぶだからね!」
「え?」
「ぼくが、またたすけにいくし、まもってあげる!やくそくする!スーパーヒーローみたいに、びゅんっ!て、はしっていくから!」
ご馳走のから揚げを食べながら、無邪気な笑顔でそう言ってくれた風麻のことを、緑依風は思い出し、懐かしい気分になる。
「(昔から、こういうところは変わらないなぁ……)」
いつだって、一番辛い時に全力で走って来てくれる。
心が壊れそうな時にそばに居てくれる風麻が、やっぱり『世界で一番大好き』だと、緑依風は思うのだった。
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