第261話 牙(中編)


 ガラッ、ガシャーン――!!


 締め切った教室内に、大きな物音が響く。


「……っ、ぅ……いた……っ!」

 須藤によって、引っ張られるように投げ飛ばされた緑依風は、体中を机や椅子にぶつけてしまい、呻きながら床に倒れていた。


「………ぅ」

 緑依風がなんとか起き上がろうとしたのも束の間、須藤は飛び掛かるように彼女の両手首を掴んで押さえつけ、馬乗りに跨って体の自由を奪う。


「っぁ……っ!」

 押さえられたと同時に頭を床に打ち付けた緑依風は、その衝撃にキュッと目を閉じる――が、再び開くと、自分を見下ろす須藤の顔が目前まで迫っており、息を呑んで絶句した。


「いいね……痛がる顔もすごく素敵だ……!これからどんな声で啼いてくれるかな……?」

 嗜虐的な笑みを濃くしながら、須藤は緑依風の手首をギリッ……と力一杯に握り締める。


「……ッ、いたいッ……やだっ、離してっ、はなしてぇっ!!」

 須藤と握られた部分の痛みから逃れようと、緑依風は必死に身を捩じらせ、かろうじて動かすことのできる足をバタつかせる――が。


 シュッ――と、須藤はポケットから再びカッターナイフを出し、その刃を緑依風の首元へと添える。


「暴れたら本当に切っちゃおうかなー……」

「……っ!」

 首筋に伝わる、ひやりとした金属の温度……。


 そして、それ以上に冷たくて凍るような須藤の瞳に、緑依風の体はカタカタと震え始め、目には涙が溜まっていく。


「……っぅ、う……っ」

 緑依風の目尻から涙が零れていくと、須藤はそれをすくい上げて指に取り、今度はその濡れた指を緑依風に見せつけるようにして、ペロリと舐めた。


「ククッ……!さてと、そろそろ本番に入ろうか……」

 ようやく緑依風の首元からカッターを離した須藤は、すぐ手に取れる距離に置くと、シュルっとネクタイを解き始める。


「ねぇ、松山さん……僕は考えたんだ。どうしたら、君の中に強く残れるかって……。ナイフでその肌を切り裂くか、綺麗な顔が腫れるほど殴り続けるか……でも、その程度の傷や痛みなんて、じきに癒えて他の人間に与えてもらう幸せな記憶に埋められるんだろうなって……。それなら、松山さんが愛せる人としかできないことをしてやれば、その度に僕を思い出してもらえるよね……?」


 ネクタイを完全に取り払った須藤は、涙が伝う緑依風の頬に触れ、そのまま生ぬるい手をねっとりと動かし、彼女の鎖骨より下へと滑らせていく。


「君がこの先ずっと、『僕』という人間を忘れないように……しっかり記憶とその身に刻んで、植え付けてあげる……。心の中――そして、体の中までも全部……僕で満たしてあげるよ……」

 そう言って、須藤は緑依風の下腹部を押し込むと、恍惚とした顔つきになり、ゆっくりと弧を描くようにして撫で回す。


「……ぁっ……あぁっ」

 その意味が、何を示すか……。


 理解した緑依風はおぞましさのあまり、浅い呼吸を繰り返しながら、消え入りそうな声を喉元で鳴らすしかできない。


「……松山さんは一生、僕のことで苦しみながら生き続け、僕は永遠に記憶トラウマとして、松山さんの中に住みつくことができる……っ!……そうなればもう、君は“僕のもの”になったのと同然だ……っ!!!!」

「――――!?」

 須藤は、緑依風の両手を彼女の頭の上で一纏めにして、片手で押さえつけると、もう片方の手をスカートの中へと侵入させる。


「……やだッ、いやぁっ!!」

 内股に彼の手が触れた瞬間、迫る危機に緑依風は泣き叫びながら暴れ始める。


「やめてっ、やッ――!ぃやっ、はなしてッ……!」

 全身に力を込め、手首の拘束を解いた緑依風はうつ伏せになり、這いつくばりながら、上にのしかかった須藤から逃れようとする。


 ――が、彼は後ろから捕まえるように緑依風のセーラー服の襟元に手を掛け、胸当てのボタンをブチブチッと一気に開襟かいきんさせると、外したネクタイで再び手首の自由を奪おうとした。


「……いやっ……どいてっ、やめてッ……!やめっ……!!」

「うるさいっ!!……くッ……!」

 緑依風の必死の抵抗のせいで、なかなかネクタイを思うように結べない須藤は、横に置いたカッターナイフに手を伸ばし、瞬時に刃を露出させる。


「大人しくできないならっ……!!」

 須藤が振り上げたやいばが、ギラリと光を放つ。


「――――っ!!」

 緑依風が目を閉じ、切られると思った瞬間、ガラッ――!と、教室のドアが大きな音を立てて開かれた。


「――緑依風っ!!」

 ドアが開いたと同時に、風麻が教室の中へと飛び込み、緑依風と須藤の元へと駆け出す。


「っ……うああああああああぁぁぁぁぁっ!!!!!!」

 風麻が視界に映った途端、須藤は緑依風から離れ、瞳孔を開かせながら絶叫し、カッターナイフを握り締めて、風麻に斬りかかった。


 身構えた風麻の右腕に、須藤が振り回したカッターの刃が触れる。


「――うぁッ!!」

 風麻は、腕をかすめた刃物の痛みに呻き、顔をしかめたが、振りかぶった須藤が再び腕を上げて襲い掛かろうとすると、瞬時にそれを避け、「……っこんの、やろっ!!」と、ロッカーに向かって彼の腹を思い切り蹴飛ばした。


「……ぐふッ!」

 頭と背をロッカーで強打した須藤は、手からカッターを落とし、「――ゲホッ、ゲホッ!」と、風麻に蹴られた腹を抱えながら蹲っている。


「……ぁ、ふうまっ……っ!」

 風麻が緑依風のそばへ駆け寄ると、緑依風は中途半端に両手を拘束されたまま、恐怖で口をはくはくとさせて震えており、自分で立つことすらできない状態だった。


「立て……っ!逃げるぞっ!!」

 風麻は、緑依風の手首に巻き付いているネクタイを解き、手を取って引っ張り上げると、彼女の背を支えるようにして、教室から脱出する。


「グッ……逃がすかっ!」

 須藤は落としたカッターを拾って、よろめきながら立ち上がると、風麻から緑依風を取り戻そうと追いかけた。


 しかし――。


「須藤――っ!!」

 風麻の背中を斬りつけようと手を振り上げたところで、正面の階段から竹田先生が現れ、その後ろからやって来た波多野先生と、二人ががりで取り押さえられてしまう。


「……くっ、クソっ!離せっ、離せぇぇぇっ!!!!」

 目をカッ開き、腹の奥底から声を振り絞って、大人二人を振り払おうとする須藤。


 その執念深さに、竹田先生も波多野先生も慄きながら歯を食いしばり、須藤をなんとか床に押さえ込もうとする。


「くっ……!」

 竹田先生は、須藤が握り締めたままのカッターに何度も刺されそうになりながら、ようやく手を開かせると、落ちたカッターを足で遠くへと払い、彼が拾えないようにした。


「――松山さんっ!坂下くん!」

「二人共!大丈夫っ!?」

 遅れて階段を上って来た梅原先生と爽太は、荒れ狂う須藤の姿に悚然しょうぜんとした緑依風と、彼女を身に寄せ、須藤から守らんとする風麻の元へと駆け寄る。


「……っ、はあっ、はぁっ……」

 竹田先生と波多野先生によって、両腕を後ろで交差するような形で床に膝をつかされた須藤は、観念したのか、ようやく暴れるのをやめたようだ。


「…………っ」

 緑依風が怯えきった様子でその姿を見ると、彼は愛しくて憎らしい緑依風の視線に気付いて目を合わせ、ぐにゃりと不気味な笑みを作る。


「ふっ、あはッ……ははははははははははっ!!!!」

 壊れたように、大きな笑い声を上げ出す須藤。


「ククッ、アハッ、ははははっ……!!はぁーッ、ッひ、ハハハハハッ……!!!!」

 この場にいる誰もが、狂った笑声しょうせいを止められないでいる須藤に、ゾッと肌を粟立たせた。


「ハハッ、み……見てよっ、松山さんッ!君のせいでッ!!こんな惨めなことになった僕を!!君が僕に、あの日声を掛けなければッ!僕はぁッ!君を知らずに済んだのにッ……!!ぜんぶっ、全部ッ――きみのせいだぁッ!!!!」

 須藤は目を剥き出しにしながら緑依風を睨みつけ、狂気を孕んだ顔で叫ぶ。


「わ……わたしの、せい……っ」

 緑依風が放心した状態で呟き、崩れるように座り込むと、「……それは違うな」と竹田先生が静かな声で言った。


「全て、お前が自分で引き起こし、招いたことだ……」

「…………っ」

「……さて、職員室で話をしよう。ご両親にも連絡して、来てもらわないと……」

 そう言われた途端、自分の言葉を否定した竹田先生に対し、鋭い視線を向けていた須藤の様子が、急に寂し気な少年の顔へと変化する。


「そんなの、いません……」

 竹田先生と波多野先生に立たされた須藤は、力無い声で言った。


「僕にはね……“親”なんて、いませんよ……」

 自らの生まれ、育った環境を嘲笑するように……須藤は、そんな言葉を残して、先生達に両腕を掴まれながら去っていった。


「はぁ~~っ……」

 須藤達の背中が完全に見えなくなると、気が抜けた風麻は、その場にへにゃりと尻をついて座り、天井を仰ぎながら息を吐く。


「サンキューな爽太、先生達呼んでくれたんだろ……?」

「風麻が出て行った後、那須達に話を聞いて須藤のことだって思ったら、嫌な予感がしてね……。でも、まさかこんなことになってたなんて……呼んで正解だった……」

 爽太も、ここまで緊迫した状況だったことはさすがに予想外だったらしく、友の無事にホッとした表情になった。


 そのすぐ後ろでは、呆然と虚ろな目をした緑依風の乱れた服装を、梅原先生が整えてくれている。


「松山さん、もう大丈夫よ……」

 緑依風は、開きっぱなしになっていた胸当てのボタンを全て留めてもらうと、「ありがとうございます……」と梅原先生に礼を言い、顔を上げようとする――が、目の前にいる風麻を見た途端、彼女はハッと喉を鳴らす。


「――ふ、風麻っ!腕から血がっ……!!」

 緑依風が悲痛な声で叫ぶと、風麻は「血……?」と、言われるまで忘れていたような顔で、ヒリつく自分の右腕を見た。


「あぁ、さっき避け切れなくてかすったからな……」

 肘元から下にかけて切られた傷口から、滲み出た赤い鮮血が指の方まで流れている。


「ぁっ……っ!」

 緑依風は再び目に涙を溜め、風麻の元へと這い寄ると、ポケットから取り出した未使用のハンカチを彼の腕にあてがい、傷口押さえて泣き出す。


「ごめんなさいっ……!ごめんなさいっ、わたしのせいでっ――!」

 風麻の腕を押さえたまま、絞り出すような声で何度も何度も謝る緑依風。


 風麻は、そんな緑依風の姿にしどろもどろになりながら、ひぐっ、ひぐっと泣きじゃくって揺れる彼女の肩に左手を添え「……ちょっ、泣くな、泣くなって!お前のせいじゃない……!」と伝える。


「――それより……お前だって、腕……痣だらけじゃねぇか……」

 緑依風の白くて柔らかな肌の至る所には、痛々しい紫色の痣。


 手首には、須藤によってつけられたと思われる手痕が、赤くなって残っていた。


「ほかには……?他にもどっか痛いとこはないか!?須藤に殴られたりとか、カッターで切られたりとか……そのっ……!」


 風麻の頭の中に、ドアを開けた瞬間の緑依風と須藤の光景が蘇る。


「――な、なにもっ……いや、えっと……だいじょうぶ……か?」

 風麻が少し躊躇うような口調で聞くと、緑依風は「うん……っ」と頷き、「だいじょぶ……っ!」と言った。


「ふうまがっ……助けに、来てくれたから……っ!」

 緑依風がそう答えると、風麻は「そっ、か……」と言い、深く安堵のため息をついた。


「……二人とも、保健室に行ってらっしゃい。戸締りは先生がするから……」

 梅原先生に言われると、風麻は緑依風と一緒に立ち上がり、保健室へと向かった。


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