第260話 牙(前編)


 風麻達を見送った後、緑依風は学級日誌に今日の日付、天気、授業内容を素早く手を動かしながらも丁寧な字で埋めていき、最後に今日一日のクラスの様子も綴って、ふぅ……と息を吐く。


「よし、日誌書き終わったし、あとは黒板に明日の曜日……戸締りと……あ、ちょっとこの辺汚れてる……」

 床に残った小さなちりごみが気になった緑依風は、すぐさま掃除用具入れから箒とちりとりを出し、他にも汚れた場所が無いかチェックする。


「うん、これでよし!あっ……!」

 時計を見ると、いつの間にか風麻達が体育館に向かってから、十三分が経過していた。


「早く行かなきゃ、怒られちゃう……」

 頭の中に、「遅せぇぞ!」と言いながら心配する風麻の顔を浮かべた緑依風は、電気を消し、窓を閉め、黒板の日付と日直当番も書き直し、フックに引っ掛けられている鍵を手に取る。


「さてと、急がなきゃ!」

 そう言って、緑依風が通学鞄を手に持とうとした時だった。


 バンッ――!!!!


 ――と、背後で教室の扉が勢いよく閉められる音が響く。


 驚いた緑依風が振り返ると、閉じられた引き戸の前に、不気味な笑みを浮かべた須藤が立っていた。


「……やぁ、松山さん」

「……す、須藤くん……」

 慄然とした緑依風の手から、持っていた教室の鍵がカチャリと床に落ちる。


「あぁ、会いたかったよ……」

 須藤の手にはカッターナイフが握られており、彼はカチカチカチと刃を長めに出しながら、ゆっくりと緑依風に近付いて行く。


「松山さんと二人きりになれるのを、ずっと待っていたんだ……」

「…………」

 緑依風は一歩ずつ窓の方へと後退りながら、須藤の手元と顔を交互に見た。


 チラつかせる銀色の刃と、ニタニタと狂気染みた須藤の口から見える八重歯が、獲物を目の前にした大蛇の牙のように、窓の光を受けて鈍く光っている。


「な……なんで須藤くんっ……どうしてこんなことするの……!?私、須藤くんに嫌なことした……?してたなら謝るから!だから――っ!!」

「とんでもない!松山さんは僕の恩人だもの……むしろ、感謝しているよ……!」

 須藤は喉の奥でクツクツと笑うと、壁に背を突き、逃げ場を失った緑依風の肩を左手で押さえつけた。


「大丈夫……。大人しくいうことさえ聞いていれば、刃物で君を切りつけたりはしないさ……。僕は、松山さんに“僕だけのもの”になって欲しいだけだからね……」

「須藤くんだけのもの……?」

 須藤は刃を納めると、「そうさ」と言って、ポケットにカッターをしまった。


「あの日、松山さんに出会って以来、僕の心はすっかり君に支配された……。松山さんは僕が知る限り、初めて無償の優しさをくれた唯一の人さ……。教師どもなんて、表面上は心配するフリをするけど、所詮はただの仕事……関わると面倒だと知れば、途端に我関せずの態度だ……」

 最後の方の言葉を吐き捨てるように言った須藤は、カッターを離した右手も緑依風の肩に添える。


「君は僕にとって、やっと見つけた心を許してもいいと思える存在だった……!もっともっと、松山さんに触れられたい!僕だけに優しく声を掛けて、そばに居て欲しいと思ったのに……松山さんは、そんな僕の気持ちに全く気付きもせず、誰にでも愛想を振りまく……酷い人だった……」

「…………」

 緑依風は自分の肩を捉えたまま、境遇や願望を口にする須藤に恐怖を感じつつ、なんとか逃げ出すチャンスは無いかとタイミングを見計らう――が、須藤の目はしっかり緑依風から逸らされず、隙が見つからない。


「中でも……一番気に食わなかったのは、坂下風麻と話す君の姿さ……。どんな人にも等しく接する君が、坂下を目の前にする時だけは特別で、更に優しい笑顔を見せる……とても腹が立ったよ」

 グリィッ……と、緑依風の両肩に、力を込めた須藤の親指が食い込む。


「……ぅっ!」

 緑依風が痛みに顔をしかめ、小さく呻くと、須藤はその反応を喜ぶかのように、目を据えたままニヤリと嗤った。


「――君は、坂下に好意を持っているみたいだけど、僕をこんな気持ちにさせた君だけが幸せになろうとするなんて、そんなことは許さない……。だから決めたよ……君がこの先、ずっと僕にしたことを後悔するように、君の心を……僕の与えた恐怖で支配してやろうって……」

「…………」

 緑依風は目玉だけを動かし、須藤の斜め後ろにある、教室の掛け時計を見る。


 風麻が言った十五分は、とっくに過ぎていた。


「(きっと来てくれる……このまま大人しくやり過ごせば、何事も無く終わるはず……!)」

 だが、須藤はそんな緑依風の期待を裏切るように、自分から目を逸らして別方向を見つめる彼女に苛立ちを露わにする。


「――っ、こんな時に、余所見してる場合かなっ!!?」

「きゃっ……!?」

 須藤に腕を掴まれ、机や椅子が並べられた方向へと振り投げられる緑依風。


 バランスを崩した彼女の体は、そのまま宙を浮くように傾いていき、鈍い音と共に全身を激しい痛みが襲い掛かった。


 *


 その頃。


 練習着に着替え終わった風麻は、二階席に緑依風がいないことに気付き、時計を確認していた。


「あいつ来てないな……」

 すでにあれから十五分経過しているが、体育館の出入り口を覗き込んでも、緑依風の姿は無い。


「風麻、ネット張ろう?」

 爽太が透明なケースからネットを取り出すと、風麻は「悪いけど、ちょっと緑依風迎えに行ってくる」と言った。


 すると、「ホント、さっきのマジでビビったし!」「なぁ~!ありえねぇ~っ!!」と、風麻達の後ろで、練習の準備もせずに雑談を楽しむ一年生がいたので、風麻はその後輩達に爽太のネット張りを手伝うよう指示した。


「あ、坂下先輩聞いてくださいよ!さっき、あの小さい木の中からいきなり人が出て来たんですよ〜!」

 後輩の一人――那須なすが、笑い交じりに話す。


「人……?」

「なんか前髪長くて、超暗そ〜なヤツなんですけど、一人で忍者ごっこかよ~って!」

「――――‼︎」

 那須がその人物の外見的特徴を語った途端、風麻の顔は一気に血の気が引いて、青ざめていく。


「そいつ、出て来てからどこに行ったかわかるか!?うちの生徒か……?何年だっ!?」

「えっ?校舎の方……二年生のネクタイしてましたけど……?」

 何も知らない後輩達は、キョトンとした顔で校舎の方角へ指を差した。


 風麻は更に背筋を凍らせ、唇を震わせながら大きく息を呑むと、様子がおかしいことに気付いた爽太が、「風麻?どうしたの……?」と近付いてくる。


「爽太……竹田先生に練習遅れるって言ってくれ!」

「えっ!?」

「やっぱり、一人にするんじゃなかった――っ!!」

「風麻っ!?」

 困惑する爽太を無視し、風麻は靴も履き替えずに体育館を飛び出していった。


「(クソっ、油断したっ……!教室にいないだけで、あいつは学校に来てたんだ……!!)」

 須藤が登校していないと聞いていた風麻は、学校の外のみ警戒して、校内に彼が潜んでいるとは考えなかった。


 俺達の気が緩むのを待ち、ずっと学校の中で監視し続けていたのか?

 それとも、緑依風が完全に孤立する日を最初から把握して狙ったのか?


「(あぁ、もう!そんなのどうだっていい……!)」

 それよりも今は、一刻も早く緑依風の元に向かわなければ――!


「はあっ、はぁっ……!」

 校舎を走る風麻の脳裏に、いつかの晶子の言葉が蘇る。


『風麻くん……このままだと緑依風ちゃんは、遅かれ早かれ風麻くんのそばからいなくなりますよ』


「~~~~っ」

 嫌だ、嫌だ……っ!

 緑依風がいなくなることも、傷付けられるのも、苦しむ姿を見るのも……!


 守るって約束したんだ……!

 俺が緑依風を守るんだ……!絶対にっ――!!


「(緑依風っ、緑依風……っ!間に合ってくれ……!!)」

 風麻は歯を食いしばり、人にぶつかるのも構わず、緑依風の無事を祈りながら必死に走り続けた。


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