第253話 九年分の大好きを
男子バレー部員が更衣室で着替えを始めた頃。
緑依風は、体育館の玄関の内側で、壁に背中を預けながら風麻を待っていた。
「(緊張する……なんて言ってきっかけを作ったらいいんだろう……)」
家に辿り着く前に、告白できる雰囲気なんて作れるのか……。
それも、自分が誰かから恨まれているかもしれないという状況下で、こんなことをしていいんだろうか……。
風麻に、呆れられてしまうだろうか……。
でも、いつもそうやって何かしら理由を付けては、本当の気持ちを言えぬまま逃げ続け、彼への恋心を自覚してから、いつの間にか九年もの歳月が経過していた。
開けっ放しの扉の外からは、秋の匂いを纏った涼しい風が入り込む。
なのに、緑依風の顔は風麻に想いを伝える緊張で熱を帯び、逆に手はじっとりと滲み出る汗で冷たくて、それを頬に当てながら、伝える言葉を考えていた時だった。
「わりぃ、お待たせ……!」
――と、着替え終わった風麻が急ぎ足で緑依風の元へとやって来る。
「ん、どうかしたか?」
「えっ――!?」
両手で頬を包み込みながら、目をギューッとさせていた緑依風を不思議そうに見つめる風麻に、緑依風は少々慌てた声で、「な、何もないよ!帰ろう!」と言って、靴を履き始めた。
*
体育館を出て、夕闇に染まり行く空の下を歩く緑依風と風麻。
しばらくは互いに無言のままだったが、校門を出たあたりで、「待っている間、変わったことは無かったか?」と風麻が尋ねる。
「う、うん……多分。本を読むのに集中してたから、気付かなかったのかもだけど……でも、大丈夫だよ!」
本当は、風麻にどうやって告白するかを考えることに集中していたのだが、それに気付かぬ風麻は、「そっか……」と、変わりないことに安心して、ホッと息を吐く。
「俺も一応、時々上見て警戒はしてたけど、特に怪しいヤツとかはいなかったな」
「あ……練習も……見てたんだけどね……」
「ん?」
「その……か、かっこよかったよ……」
「お前……本当にズバズバ恥ずかしいこと言うようになったよなぁ……!」
緑依風が素直な感想を声にすると、風麻は照れくささのあまり顔を覆い隠し、斜め下を向いてしまう。
「あ、嫌だった……!?なら、ごめん……もう言わない……」
余計なことを言ってしまったと、緑依風が落ち込むと、「いや、そのっ……嫌とかじゃなくて……」と風麻は赤い顔のまま緑依風に向き直り、「嬉しいよ、嬉しいけどまだ慣れないから……」と、熱くなった顔の額から滲み出た汗を拭った。
「タダでさえ俺、褒められ慣れてねぇんだよ……。ましてや女子になんてさ……チビの坂下、アホの坂下ってのばっかでさ……」
「……確かに、私も風麻にいっぱい酷いこと言ってたね」
「それは、お互い様だろ。……ま、そんでも俺達は仲良しだったよな!しょっちゅうケンカしてたけど、しばらくしたらすぐ仲直りしてたし!んで、またケンカになる」
「あははっ、同じことばっかりしてたね。それで、晶子や利久に「またか……」って、言われちゃうんだ!」
「ははっ、そうだったな!」
風麻と懐かしい日々を語り合っていると、だんだん緑依風の強張っていた気持ちが柔らかく解れていき、二人だけの間に流れる和やかな空気に、背中を押してもらえるような気分になって来る。
「(言うなら今だ……伝えるんだ……っ!)」
足を止め、深く息を吸い、ゆっくりと吐き出すのを二、三度繰り返す緑依風。
風麻は、数メートル程歩いたところで、隣にいた緑依風の姿が見えないことに気付き、ハッと後ろを振り向く。
「りい――……」
「風麻、あのねっ……!」
車道を走る車のヘッドライトに照らされる風麻の顔は、これから緑依風が何を言い出すのか全くわからない表情をしている。
驚くかな……?今更って、笑うかな?それとも怒る……?
やっぱり怖い、でもっ、でも……!
私は――もう、逃げない……!
「あのねっ……!へ、返事は今じゃなくていいの……!!」
「へ?」
「でもっ、わたしっ……風麻にまだちゃんと告白できてなくてっ!いつか絶対言うって思ったままで、知られちゃってるから意味無いかもだけど……そっ、それでも、言いたいのっ!」
声が震える。
全身がグラグラして崩れそう……。
あぁ、亜梨明ちゃんも……他の子も……こんなに壊れてしまいそうな状態で、頑張ったんだ……!
緑依風がそう思いながら、風麻から目を逸らさず、想いを伝えようと必死になっていると、風麻も真面目な顔つきで緑依風に歩み寄り、彼女の言葉を待つ。
「わたしねっ……去年まではっ、風麻に好きってバレちゃったら、風麻と一緒にいられなくなっちゃう、友達ですらなくなっちゃうって、怖くて……っ、それでいつも生意気なことばかり言って、風麻を嫌な気持ちにさせてたと思う……っ。でもっ、風麻に知られてからの言葉が、本当の気持ち……!わたしっ、風麻が大好きっ!!私の中では、風麻が誰よりもかっこよくて優しくて、世界で一番大好きなのっ……!!」
泣くつもりなんてなかったのに、自然と涙が溢れる。
悲しいわけじゃない。
この先のことを考えて不安になったからでもない。
九年分の風麻への『大好き』が、声と言葉だけでなく、涙となって次々と零れていくのだ――。
「こんな時に何言ってるんだって、思ってるかもしれないけど……!でもっ、いま言わなかったら、わたしずっと……また言わなくなっちゃうかもしれないって思ったのっ……!だからっ、だから――っ……!」
湧き上がり過ぎた感情に、緑依風がだんだん喋り続けることが困難になってくると、そんな緑依風の両手に自分の両手を伸ばした風麻は、ギュッと少し強めに握って、彼女の言葉を心に刻み込むように何度も頷く。
「ありがとな……」
そう言った風麻の声は、今まで緑依風が聞いた中でも一番優しいものだった。
「……っぅ……ちゃんと……伝わった……っ?」
「うん、伝わった……!」
「風麻のこと、大好きだよ……っ」
「うん……!」
ひっくひっくと、喉を鳴らしながら言う緑依風に、風麻は深く頷いて、彼女の気持ちがしっかり心に届いていることを伝える。
「――でも、ごめん。……返事は、まだできない……」
風麻がそう言って、緑依風の手を握る力を弱めると、緑依風がふっと顔を上げ、風麻はそんな彼女に申し訳なさそうな細い笑みを浮かべて、その理由を話す。
「……大丈夫だ、緑依風のせいじゃない。これは……俺自身の問題なんだ」
「風麻の……?」
濡れた長いまつ毛を瞬きに揺らし、緑依風が気になる様子で尋ねる。
「緑依風が長い間ずーっと大事にしてた気持ちだからこそ、俺もその分いっぱい考えたい。緑依風が俺を想ってくれる心をきちんと受け止められる土台を、俺自身が準備ができてないっていうか……覚悟が足りてない気がするっていうか……。だから、そのっ……こんだけ待たせておいてまだ待たせるのかって、怒られるかもだけど……もう少し、返事は待ってくれ……」
風麻は、叱られてもしょうがないといった表情で、緑依風にそう告げるが、彼女は怒ることもがっかりすることもなく、「わかった」と言った。
「話してくれてありがとう……。そういうことなら全然待てるよ。待つのは得意だもん!」
そう言って、冗談めいた言葉を交えながら緑依風が笑うと、風麻も「得意って!」と参った様子で眉を曲げて微笑する。
「……返事の代わりって言ったら変だけど、俺もひとつ……お前に言いたいことがある」
「……?」
緑依風が首を傾げると、風麻は短く息を吸って吐き、誓いを立てるような面持ちになって、口を開く。
「緑依風のことは、絶対俺が守る……!」
「えっ?」
「この間も同じこと言ったけど、改めて約束する……。嫌がらせの犯人が何考えてるか知らねぇけど、万が一危なくなったとしても、絶対俺が助ける……!だから、なるべく俺のそばにいててくれ……」
風麻の表情はとても真剣で、緑依風に本気で自分の身を心配し、大切にしてくれているんだと伝わるものだった。
「……ありがとう、すごく心強い」
沈みゆく夕日の色が移ったかのように、じんわりと緑依風が嬉しさに頬を染めると、風麻はらしくないことを言った恥ずかしさがだんだん出てきたようで、こそばゆいような顔をしている。
「……さて、帰るか」
「うん……!」
緑依風が歩き出すと、風麻は彼女からなるべく離れないよう、歩調を合わせて足を動かす。
恋人同士ではない。
でも、“きょうだいのような親友”という呼び方は似合わない程に、今の緑依風と風麻の心の距離は、これまでで一番遠くて近い。
それをお互いに感じ合い、幸せな気分に浸る二人が歩く道の反対側では、物陰に溶け込むように佇む少年が、割れてしまいそうなくらい歯を強く食いしばり、硬いアスファルトを靴底ですり潰すようにグリグリと踏み鳴らしながら撮影していた。
*
空が薄闇から深い闇に吞まれていく時間帯になると、須藤家に雇われている家政婦の志野は、この日の仕事を全て終え、帰り支度をしていた。
志野がエプロンを取り外し、やり残した仕事が無いかもう一度チェックしていると、玄関の方から、バタァン――!!と、扉を乱暴に開閉する大きな物音がした。
てっきり、あのヒステリックな依頼主の女が帰って来たのかと思った志野だったが、リビングのドアをそっと開けてみると、それは気弱で存在するのかしないのかわからない程おとなしい、息子の白也の方だった。
須藤はドスドスと足音を立てて二階に上がり、部屋にこもると、低く唸るような声を喉奥で響かせ、握り締めたままだったペン型カメラを床へと叩きつける。
「くそっ……坂下風麻っ……!!」
フーッ、フーッと、呼吸を乱しながら、憎らしそうに風麻の名を口にする須藤は、机の上にある教科書や筆記用具も床に落とし、収まらぬ怒りのまま次々と部屋の中にある物へと当たり散らす。
「ただの友人の癖に、松山さんの心を縛り付けて――ッ!……ねぇ、そうでしょ松山さん……?あぁ、可哀想に……早く解放してあげないと……」
須藤は壁に貼られている緑依風の写真に手を伸ばすと、彼女の唇の辺りを撫ぜ、哀れみながら語り掛ける。
「きっとあいつに騙されているんだ……。大丈夫だよ……もうすぐ、あんなやつのことなんて考えられないよう、僕が君を――……」
そう言ってる最中に、コンコン――と、ドアをノックする音と、「坊ちゃん」と自分を呼ぶ志野の声が聞こえた須藤は、写真の中の緑依風との対話を邪魔されたことに苛立ち、チッと舌を鳴らして壁から離れる。
「晩御飯はテーブルの上にありますから」
志野が用件を伝え終えて立ち去ろうとすると、須藤はゆっくりとドアを開けて、部屋の外へと姿を現す。
「…………」
いつもなら、人と目を合わせることを拒み、長い前髪に目元が隠れていたはずの須藤。
だが、今ここに立つ少年は、まるで自分より遥かに年上の志野のことを蔑むような眼差しを向けて、睨み付けていた。
「ハッ……何ですかその顔?お母様そっくりですよ?」
「志野さん……明日から来なくていいです」
「はぁ?」
突然の解雇宣言に、志野は甲高い声を上げる。
「……僕はもう、自分のことくらい自分でできるし、親からもらったお金もたくさんあります……。母と派遣会社には僕から連絡しますから、ここにはもう来ないでください」
須藤が冷ややかな声で伝えると、志野は腹立たしさに顔全体を
「そーですか、そーですか、清々しました……!仕事だから我慢してきたけど、雇い主もその子供もロクでもないこんなとこ、さっさとおさらばしたくてたまりませんでしたから……!」
開き直ったような顔で捨てゼリフを吐いた志野は、取り出した合鍵を須藤の足元に落とし、挨拶もせぬまま家を出て言った。
「ふん……。自分がロクでもない人間だから、ロクでもない人間の元で働くことしかできなかったくせに……」
須藤は志野が捨て落とした合鍵を拾い上げると、再び自室へと戻る。
「……でも、これで誰にも邪魔されずに、松山さんとゆっくり過ごせるね……」
そう言って、壁に貼られたいくつもの緑依風の写真に不敵な笑みを向けた須藤は、まるで彼女を抱き締めるような思いで両手を広げてピタリとくっつき、その写真に体を擦りつける動作をする。
「これからは僕と松山さんだけの……二人っきりの空間だ……僕だけを見つめる松山さんとの……素敵な……ふふっ……ふふふふ……っ」
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