第246話 狂気が宿る時
制服から着替えた須藤は、部屋を出て、台所で食事の準備をする志野の元へと向かう。
この家で、血の繋がった家族よりも長い時間滞在し、顔を合わせる回数の多い家政婦の志野。
二年前から須藤家に来て家事をしてくれているが、依頼者の直美との関係は険悪で、かと言って志野が辞めることも、直美が別の家政婦に変更をするわけでもなく、須藤家に派遣された家政婦の中で一番長続きしていた。
陰湿で、愛想のひとつもない女だが、文句を垂れながらも仕事は完璧にこなすため、依頼したことだけきっちりやってくれれば構わない直美にとって、家政婦を取り換える理由が無いのだろう。
志野も、この性格が災いしてクレームが絶えず、あちこちを転々としてきた故、嫌な依頼者であろうと、金さえもらえればそれでいいと割り切っているようだった。
「あの、志野さん……」
須藤が後ろから声を掛けると、志野は野菜を切る手元から目を逸らさぬまま、「何ですか、坊ちゃん」と、素っ気ない口調で言った。
「お夕飯なら、今作ってますから……部屋に戻って待っ――」
「夕飯のことじゃありません。……頼みたいことがあるんです」
志野は「はぁ……」と、気だるそうに息を吐き、肩を落とすと「何でしょう?」と、ようやく依頼主の息子に向き直る。
「これを、洗って欲しいんです……」
須藤はそう言って、志野にハンカチを見せる。
「ん……?これ、血ですか?坊ちゃん……こんな可愛い柄のハンカチ持ってましたっけ?」
「僕のじゃありません。……でも、借りて汚してしまったので、綺麗にして返したいんです」
すでに洗濯の仕事を終えていた志野は、突然増えた仕事に嫌そうな顔をしながらも、ハンカチを受け取ると、「わかりました」と言って、台の上の空いてるスペースにそれを置いた。
部屋に戻ると、須藤は再び出会ったばかりの緑依風のことを想う。
去り際に志野が何か嫌味を言っていた気がするが、今はそんなことが些細に思える程、彼は幸せな気分に浸っていた。
「(松山さん、松山さん……。もしかしたら……そうだ、あの人ならきっと――)」
自分を必要としてくれるかもしれない。
ずっと欲しかったものが、手に入れられるかもしれない。
愛したい、愛されたい。
触れたい、触れられたい――。
*
翌日。
志野にハンカチを洗ってもらった須藤は、廊下の隅の方で身を潜め、緑依風に会えることを期待していた。
朝休みの時間帯は会えなかった。
それから朝礼の後、一時間目が終わった後も待ち、二時間目の授業が終わると、移動教室のために出てきたミディアムヘアの少女の横姿を見つけ、須藤の鼓動が急速に高まっていく。
「あ、あのっ……!」
須藤が緊張に貼りついた喉を何とか動かし、風麻や奏音と雑談しながら歩く緑依風を呼び止めると、彼女はすぐ彼の声に気付き、「あ、須藤くん……」と振り返った。
「…………!」
緑依風に名を呼ばれると、須藤の体温は一気に上昇し、抑えきれない喜びの感情で、ふるりと体が揺れる。
「僕の名前……憶えてくれてたんですか……?」
須藤が小さな声を震わせながら聞くと、目の前にいる緑依風は「うん、覚えてたよ」と言った。
「――……っ」
腑抜けてしまいそうな顔を隠すために、俯く須藤。
それを見て、彼の感情に気付いた風麻はピクリと眉を動かし、「何か用か?」と、苛立つように聞く。
「あ、あのっ……まつ、やまさん……」
「ん?」
「これっ、昨日……ありがとう、ございました……!」
須藤が両手で握り締めていたハンカチを差し出し、感謝の気持ちを伝えると、緑依風は「わ、綺麗に洗ってくれたんだね!ありがとう!」と言いながら、それを受け取った。
「…………!」
俯いたままの上目遣いで見た緑依風の笑顔に、須藤はまた胸いっぱいの幸せを感じると、ハンカチを返す時に言おうとしていた気持ちを告げるため、勇気を振り絞って口を開く。
「あ……あのっ――!」
今度、もっと話せませんか?
できれば、仲良くなれませんか?
友達に、なってくれませんか?
クラスも違えば、何か接点があるわけでもない緑依風と、どうにかして繋がるきっかけが欲しい須藤は、そう声にして伝えるつもりだった――が。
「緑依風、そろそろ行くぞ!」
「あ、うん!」
須藤が一言目を発する前に、風麻が先に緑依風を呼び、緑依風も何か言おうとしていた須藤に気付かず、須藤から離れていく。
「じゃあね」
「あ……!」
短い別れの言葉と共に、友人の元へ駆けて行く緑依風。
「待って」と言いたいのに、声が出ない。
「(行かないで……やっと、やっと――君なら僕を孤独から救ってくれると思ったのに……)」
初めて無償の優しさをくれた人。
初めて抱えきれないくらい幸せな気分を与えてくれた人なのに――。
須藤がそう思いながら緑依風の背に心で訴えていると、彼女が隣にいる男子生徒を見上げながら向けた表情に衝撃を受ける。
「(違う……僕のとは、まるで違う……)」
須藤にくれたものとは比べ物にならない程、柔和で幸せそうな笑顔。
須藤が緑依風に『したい』『されたい』と願う気持ちが、彼女からはその男子生徒――風麻に向けられているのだと、一目見ただけでわかる。
「………っ」
悟った瞬間、さっきまであたたかでキラキラと光の粒が溢れていたはずの心が、泥水を掛けられたかのように一気に薄汚れ、須藤は歯を食いしばる。
ひどい。酷すぎる……。
君なら僕を見てくれると思ってたのに……。
やっと、心を許せる人に会えたと思ったのに……!
裏切られた……許せない。
でも好きだ。もう一度振り向いて。僕を、僕だけを見て……!
そいつが好きなら、優しくしないで欲しかった。
お願いだ……その気持ちをどうか、全て僕に向けてくれ……!
憎悪、情愛――。
須藤の中で、緑依風に対する二つの感情が交互に湧き出し、それがだんだん同時に噴き出して混ざり合うと、血のように赤黒く、熱くて醜い感情が心を支配していく。
「………っ!」
後悔させてやりたい……。
松山さんに、僕に関わったことを……僕の心に期待だけ持たせて蔑ろにしたことを、死ぬまでずっと後悔させて、苦しませてやりたい……。
あの男に向けた幸せな顔なんて二度とできない程、彼女の心をぐちゃぐちゃに壊してやりたい……!
そう望むようになった須藤の考えが行きついたのは――。
「――そうだ、松山さんに……僕のことが忘れられないようにすればいい……」
松山さんがこの先一生、僕を忘れられないようなことをしてやれば、僕は『記憶』として永遠に彼女の中で存在できる……。
温情なんかよりも強く人の心に残る記憶――恐怖、屈辱、痛みで。
松山さんが誰を好きになっても、誰に愛されてもその都度僕を思い出せるように、松山さんが僕に
そうすれば、それはもう……彼女は永遠に僕の手の中にいるのと同然だ……。
「(僕だけのものにしてやる……どんな手を使っても……!)」
怒りは狂気に、愛を執念へと変貌させた須藤は、ニタリと不敵な笑みを浮かべる。
チャイムが鳴っても、須藤は教室に戻らなかった。
しかし、存在を潜めるようにして過ごしてきた彼を気にする者は誰もおらず、授業は開始されるのだった。
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