第245話 冷たい家


 ジィジィと鳴く、セミ。

 残暑が厳しい日でも、セミは元気だ。


 須藤がそう思いながら赤信号の横断歩道前で止まると、後ろからやって来た小さな男の子が、母親らしき女性に「くぅま!くぅーまいっぱい!!」と、嬉しそうに指をさしながら伝えている。


「(元気なのは子供もか……)」

 毛先を汗で濡らす息子に気付いた母親は、バッグからハンドタオルを取り出すと、「ママの方を向いて」と言って、優しく汗を拭いてあげている。


「いっぱい遊んだもんね~。おうち帰ったらアイス食べよっか!」

「うん!」

「…………」

 信号が青に変わると、須藤は自宅のある方向――春ヶ﨑方面にある豪邸が並ぶ区域に入り、頬を伝う汗を手で拭う。


 通行人の目を隠す、要塞のように厚くて高さのある白い外壁に囲まれた、白くて四角い大きな家。これが須藤の自宅だ。


 門扉を開け、階段を上った先に庭と玄関が見える。


「…………」

 ただいまも言わず、靴を脱いで家の中に上がる須藤。

 出迎える者なんていない家で、そんな言葉は必要ないからだ。


 リビングまであと数歩というところで、須藤の鼻の中に香水の強い匂いが入り込んでくる。


「(あぁ……母さん、今日はいるんだ……)」

 扉を開けると、ブランド物のスーツに身を包み、ネックレスとイヤリングを付けた須藤の母、直美なおみが、ずんぐりとした体型で目つきの鋭い家政婦、志野しのに頼み事をしている最中だった。


 数週間ぶりに帰宅した直美は、スリッパの音をうるさく立てながら家の中を移動し、また出かける準備をしているようだ。


「(気持ち悪い……)」

 甘ったるくて、いつまでも鼻腔内に残りそうなこの人工的な匂いが、須藤は大嫌いだ。


 直美は不満や苛立ちが強いほど、まるで彼女自身が香水瓶になったかと思うくらいたくさんふりかける癖があり、それがわかるようになってからの須藤は、香りで母の機嫌を伺うようになった。


「志野さん!ブラウスのアイロン掛けは終わってるの!?」

「終わってますよ……おっしゃられた通り、そちらに置いてるじゃないですか」

「……っ、だったら早く言いなさいよ!」

 直美の物言いに、皮膚が突っ張るほどしっかりと髪を結い上げ、お団子頭にした志野の目つきが、より一層つり上がり、鋭くなる。


 須藤は直美と志野のこういったやりとりを、もう何度も見てきているが、母が大声を出す度神経はすり減り、みぞおちのあたりが重苦しくなってくる。


 それでもたった一人の母親だ。

 そう思いながら、須藤は鞄の中にタブレット端末、書類の入ったファイルを詰めている最中の直美に、意を決して声を掛ける。


「母さん……」

 須藤が呼び掛けると、直美は今初めて息子の存在に気付いたようで、「あぁ、帰ってたのね」と素っ気ない声で言った。


「私、すぐ会社に戻らなきゃいけないの」

 予想通り、「おかえり」なんて言葉はもらえない。


「夜の便で海外に出るし、またしばらく日本にいないわ。お金は白也の机の上に置いてあるけど、足りなければ口座から勝手に引き出してちょうだい」

「…………」

 ただ淡々と、自分の言いたいことだけを伝え、目線すら合わせてくれない母。


 先程帰り道で見た親子の母は、小さな息子のために膝を曲げ、柔らかな微笑みを向けていたのに、須藤の記憶の中で、直美が同じようなことをしてくれた思い出は、一度だって無かった。


「……なに?言いたいことがあるなら今のうちに、手短に話して」

 須藤の表情が、自分に対する不満を抱えてると察した直美は、腕を組み、長い爪先をトントンと動かしながら息子の尋問を始める。


「あ、えっと……」

「…………」

「そのっ、今月末に……文化祭が、あるんだ……」

 別に話す予定のなかった話題だが、このまま無言を貫き通すのも後々面倒だ。


「お、おやも……来ていいし、母さんもっ、いきっ……ぬきに……」

「文化祭……?」

 直美の整えられた細い眉が下がり、眉間には深いシワが刻まれる。


「そんなもの、見に行ってる時間なんか無いわよ!私が忙しいのはわかってるわよね?わかってるなら、こんなくだらないことで私の時間を奪わないで!」

「…………」

 言うんじゃなかったと、母の無駄な時間を過ごしたと言いたげなため息を聞き、後悔する須藤。


 直美は俯いたままの息子から離れ、荷物を手にすると、「じゃ、志野さん。あとはよろしく」と言って、リビングのドアを開く。


「白也は志野さんの休みの日は、いつも通り好きな物を買って適当に過ごしてちょうだい。それから……最近は無いみたいだけど、厄介ごとはもう起こさないで。子供同士の揉め事でいちいち学校に呼び出されるなんて、一番時間がもったいないわ……」

「…………」

 バタン――と、リビングのドアが閉まり、直美が玄関から家の外へ出ていく音がすると、志野はチッと舌打ちし、頼まれた仕事を再開する。


 *


 須藤が自室に向かい、カーテンが閉じられた薄暗い部屋に入ると、机の上に茶封筒が置かれていた。


「五十万……一か月分か……」

 母が愛情の代わりにくれるもの。

 それはいつも、中学生の子供が簡単に使いきれない額のお金だ。


 須藤の両親は、元々ビジネスパートナーだった。

 恋愛感情は持ち合わせていなかったものの、互いに世間体を気にする性分だったため、利害の一致から結婚し、周囲の「子供はまだか?」という声を煩わしく思ったためだけに子作りをし、須藤は生まれた。


 須藤の父は、最初こそ息子を会社の跡継ぎに育てるつもりだったが、他に好きな女ができると関心は薄れてしまった。


 母の直美は、夫が浮気をしてると知っても、それを容認したまま離婚もせず、自らも起業してたった数年の間に世界からも注目される会社を造り上げた。


 通学鞄を開け、学校から配布されたプリントを取り出す須藤。

 内容は、保護者に向けた文化祭を案内するためのものだった。


 来るはずがないとは、わかっていた。

 母は今までだって、子供のためのイベントに喜んで参加することなんて無かった。


 保育園時代は、まだ幸せだったかもしれない。


 その日限りだったとしても、周囲にごく普通の家族をアピールするために夫婦共に来てくれた運動会。

 

 でもそれが終わって、迎えに来てくれた母に抱き付こうとすれば、「やめて、みっともない」と拒否され、それが、須藤が自分は母に愛されていないと悟った、最初の日だった。


 春ヶ﨑にある私立の小学校を受験し、見事合格した学校での生活は、気の強いクラスメイトからいじめの標的にされた。


 須藤が耐えられずに学校から逃げ出したことで、教師から呼び出しを受けた直美は、我慢し続けた息子の心を労わるどころか、「こんなくだらないことで私の時間を奪わないで」とだけ言い捨て、中等部に上がらず、公立の学校へ進学するよう手続きをした。


 それからの須藤は、面倒ごとに巻き込まれないよう、常に息をひそめるように――その場の空気に溶け込み、誰にも存在を気付かれぬように意識しながら学校に通い、それに疲れた時は学校にも行かず、家で過ごすという日々を送っていた。


 孤独だ。家でも学校でも。

 元々人見知りな性格だったが故に、友達なんて一度もいたことは無いし、気にかけてくれる教師も――表面上はしてくれていたが、それは『教師と生徒』という関係だったからで、うるさく思った直美から、家庭のことに口出しするなと釘を刺されれば、もうそれきり。


 厄介な親を持つ厄介な生徒など、学校側からも願い下げなのだ。


「(僕は、何のために生まれたんだろう……)」

 誰にも必要とされず、誰にも心配されず、ただ寝て起きて、食事をして生きるだけの人生に、何の意味がある?


 そう思いながら、須藤が鞄の中の教科書を入れ替えようとした時だった。


 鞄の奥底で、血で赤黒く染まった花柄のハンカチが、教科書に押し潰されているのを発見する。


 そしてそれを手にした瞬間、須藤の頭の中に「大丈夫……!?」と叫ぶ、少女の声が蘇った。


 硬いボールが顔面に直撃なんて、今までいじめられてきた経験からすれば、なんてことはないと思っていた。


 それよりもっとひどい仕打ちを受けたって、小学校時代のクラスメイトは誰も助けてくれないどころか、優しい一声さえかけてくれなかったのだ。


「(それなのに、あの人はハンカチを差し出して……介抱してくれた……)」

 こういう時、本来なら「ありがとう」と礼を言って、感謝の意を伝えるべきだったのだろう。


 しかし、あの時の須藤はそれよりも、自分を心配してくれた存在への困惑の方が大きくて、ただハンカチを受け取り、痛む鼻を押さえることで精一杯だった。


 鼻を押さえて視界が悪くなった状態で階段を下りる時も、その少女は足を滑らせて転落しないように常に声を掛け、気を配ってくれていた。


 くっきりとした二重瞼の目を細め、「お大事にね」と柔らかな表情と声で伝えてくれた少女の名前を、養護教諭は確かこう呼んでいた――。


「ま、つ……やま……」

 須藤の薄い唇から漏れた、『松山』という女子生徒の名前。


 名を口にすれば、須藤の胸の奥から感じたことのない感覚。

 モヤモヤした気持ちと似ているが違う……もっと柔らかくて、ふわっと羽のように軽やかなのにジンとした、懐かしくも感じるものが溢れ出す。


「松山、さん……」

 もう一度声にすれば、今度は全身が熱くなり、心臓の鼓動が急に早くなって、苦しい――のに、『幸せ』という言葉が似合う、不思議な感情が生まれた。


「松山さん、松山さん……」

 その名を繰り返す度、その不思議な感覚はどんどん強まって、もっともっと感じたいと求めずにはいられなくなる。


 須藤はそれからも、ハンカチを大事そうに握り締めながら緑依風の名を囁き、助けてくれた彼女の声、シャツ越しに肩に触れてくれた時の温度、微笑みを思い出しては、湧き出る温かな感情に幸福を覚える。


 そして理解した。

 あぁ、これは恋だ……。


 今まで自分がそんなことを知る日は無いと思っていたし、浮かれたやつらの馬鹿げた“何か”としか思えなかったのに、相手を考えるだけで体も心も熱くて、喜びで満たされるもの。

 

 もしかしたら、あの人と出会うために自分は生まれてきたのかもしれない。


 そんな、ありふれた言葉がまさに似合うと思ってしまう程、須藤は自分の存在価値を見出してくれた緑依風に、大きな感情を抱き始めていた。


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