第240話 ママみたいに(後編)


 その日以来、すみれが当直の日の夜は、星華が小六になるまでの間、祖母が家に泊りに来て面倒を見てくれることになった。


 しばらくすると、すみれとの関係は徐々に修復され、今までのように休みの日に出かけたり、親子仲良く過ごせるようにもなったが、あの日の出来事については、お互い一切触れることは無く、そのまま八年の時が過ぎた。


 大きくなるにつれ、星華は清介のように、病院に受け入れを断られ続け、治療が間に合わずに亡くなった患者がいることを知る。


 そして、そういったニュースや新聞記事を目にする度、あの日の母の涙、自分が発した言葉を思い出し、後悔の念に胸が痛くなった。


 *


「…………」

 生ぬるい風に揺られる枝葉の下で、星華は膝を抱えたまま座っていた。


 あの頃、星華にとって母の存在は絶対的だった。


 人の命を救う職に就く母が、誰よりもかっこよく、輝いていて見えた。


 そんな人の娘である自分にも誇りを抱いていたし、母の言葉を疑おうなんて、微塵も考えなかった。


 何でも治せるなんてこと、今思えばありえないのに。

 あの頃の星華は、幸乃に「嘘つき」と言われたこと、母にも救えない命があること、自分の憧れていた母の像が崩れていくことへのショックで、母を責め立てることしかできなかった。


 謝らなければと思うことは、何度もあった。

 でも、あの日を思い出したくなくて、思い出せば心が潰れてしまいそうで、忘れることを選んだのだ。


 成長した幸乃との再会は、星華が押し込めた記憶を全て蘇らせた。


 もう一度封印しようと試みるが、開かれた箱は二度と閉じず、漏れ出した記憶も元の場所に戻ろうとはしてくれない。


「………っ」

 星華が揃えた膝の上に額をくっつけて項垂れていると、トンッ……と、背中に何かがぶつかる感触がする。


 目を開けて振り向くと、坊主頭の小さな男の子が、星華の背にもたれるようにして座っていた。


「……あんた誰?」

 星華が聞くと、「知らない人に名前は言わない」と男の子が言った。


「なにしてんの?」

「ここ、つまらないんだよ……。前いた病院はあそぶとこあったのに、子供をみてくれる先生がいなくなったから、家から近いとこに入院したんだけど、おっさんとおばさんばっかでさ……」

「あんた脱走したの!?パジャマ着てるってことはどっか悪いんでしょ!?」

 星華が言うと、「もう治ったから、明日家に帰るんだよ」と男の子は生意気な口調で返した。


「こんなのなれてるし、せきもたんも出なくなったし、げんきだから遊ぼうとおもったのにさー……あ、やべっ!」

 急に星華の背に隠れ始めた男の子。


 星華が正面を見ると、男の子の母親らしき女性が小走りでこちらに向かってくる。


「こらっ!せっかく良くなったのに、勝手に抜け出したりして……!また悪くなったらどうするの!?空上先生にお願いして、大きな注射持ってきてもらうよ!!」

「へへーんっ!もうそんなのにだまされないもんねーっだ!!」

 男の子は母に向かってまぶたを捲り、舌を出してあっかんべーをすると、星華と木の間をするりと抜けて、逃走しようとする――が。


「ほら、お母さん迎えに来てんじゃん……。おとなしく帰りなよ……」

 星華が男の子のパジャマの裾を掴み、母親の前に差し出すと、母親は「すみません……」と謝り、息子がもう逃げられないよう、しっかりと手を握る。


「やだよ、またじじくせー部屋にもどるなんて!」

「そんなこと言わないの!お菓子もらったりしてたくせに!……あ、すみません」

 男の子の母親は再び星華に謝りながら、息子を引っ張って病室に連れ戻した。


「ママの患者か……。この病院、小児科も小児病棟もだいぶ前に改装する時、無くなったんだもんね……」

 すみれを含め、子供を診れる医師は各科にある程度在中するが、それでも元々制度を整えている病院に比べると、やや心許ない。


「……帰るか」

 星華はお尻に付いた砂や小石を手で軽く払うと、友人達に見つからぬよう、院内に戻ることは避け、駐車場のある方へ回り道して帰ろうとするが、見慣れたボブカットヘアーの少女が、垣根の後ろからひょっこりと現れる。


「あ、星華いた!!」

「げっ、奏音……!」

 ずんずんと、何か言いたげな顔で向かって来る奏音に、星華は「いや~、参った参った~!」と、平然を装いながら歩み寄る。


「ごっめーん!冷房で冷えちゃったのか、急にお腹痛くっなってさー!」

 パチンと両手を合わせ、ウィンクをしながら立ち去った理由を誤魔化す星華だったが、奏音は短くため息をつくと、「あんた、“用がある”って言ったじゃん。それに、トイレのこと思いっきり通り過ぎてたし」と言って、辻褄が合わないことを指摘した。


「あれ、そうだっけ~?まぁ、いいじゃん!細かいことはさ~!……あ、ママに差し入れ渡してくれた?そんならもう帰ろっかー!!」


 あれこれ聞かれる前に、さっさと病院を離れてしまおう。


 そう思いながら星華が急ぎ足で歩き出すと、キュッと、奏音に後ろから手首を掴まれる。


「……?」

「……はぐらかさなくていい。さっき、伊田さんから星華が逃げた理由聞いたから」

 星華は「そ」と短い返事をして、奏音から目を逸らした。


「……なんて言ってた?嘘つき?人殺しの娘?」

「あんたに、謝りたいって……」

「え……?」

 星華は疑うように聞き返した。


「あんたとおばさんに、ずっと謝りたかったって言ってた。だから、会ってあげて……」

「…………」

 奏音は、星華を見つけたことを緑依風にメッセージで報告すると、強張った表情の友の手を引き、待ち合わせ場所のロビーへと向かった。


 *


 奏音に連れられて訪れた病院内のロビー。

 受付や、会計待ちの患者のためにたくさん並べられた椅子の端の方には、緑依風と真っ黒に日焼けした顔を緊張で青くした幸乃が座っていた。


 星華の姿を見つけた途端、「あ」という口の形を作って、立ち上がった幸乃。


 緑依風は、そんな幸乃に「大丈夫」と優しく声を掛けながら、背中を軽くポンポンと叩いて、固くなった彼女の体を解そうとする。


 星華がすぐ目の前までやって来ると、幸乃の緊張度合いは一気に上がり、唇を何度も小さく開閉させながら、言い出すタイミング、言葉選びに悩んでいるようだ。


「あ、あのっ……!せ、せいかちゃん……」

「…………」

「昔、星華ちゃんと先生に酷いこと言って、ごっ、ごめんなさいっ……!!」

 やや翻った声で謝り、頭を深く下げる幸乃の体は、見ていて可哀想になってしまう程に震えている。


 最後に会った日の激しさとは真逆の幸乃の姿に、星華は拍子抜けしたように、ふ~っと深くため息をつくと、「いいよ……もう昔のことだし」と言って、表情を和らげた。


「でも……」

「幸乃ちゃんだって、ずっと気にしてくれてたんでしょ?」

 顔を上げた幸乃は、怪我をした腕を押さえながら「こんなの言っても、言い訳にしかならないけど……」と、今日までずっと募らせていた思いを語り始める。


「あの時の私は、お兄ちゃんの死を受け入れられなかった……。救急車の中、苦しむお兄ちゃんを見てるのが、怖くて怖くて……きっと星華ちゃんのママなら助けてくれるって、その可能性にすがるしかできなくて……お兄ちゃんの死を、誰かのせいにしないと……悲しさに、耐えられなかった」

「…………」

「でも、気付いたの。自分がどれだけ星華ちゃんと先生に酷いことを言ったのか……。先生が、もう無理ってわかっていたはずなのに、諦めないでいてくれたこと……あの日、誰よりも一番……お兄ちゃんのことを助けたいって真剣に思ってくれてたのかって……考えたらっ、なのにっ……あんなことっ……!」

 幸乃はそう言って、頬に涙を伝わせると、しゃくりが治まるのを数秒待って、再び語り出す。


「謝れる機会なんて、きっと無いかもしれない……。でも、もしあれば……怖くても絶対言うんだって決めてたの。だから、今日は星華ちゃんにも……先生にも会えてよかった。許してくれなくても、絶対に謝らなきゃって、ずっと……ずっと思って……っ」

「…………」

 星華が無かったことにしようとしていた過去を、幸乃は長年ずっと後悔し、苦しみ続けていた。


 それを知った星華は、背を丸めながらぐずぐずと泣いている彼女の肩にそっと手を置き、今の自分の想いを伝える。


「――確かに、あの時はすごくショックだったし、忘れたい記憶だったけど……でも大丈夫!幸乃ちゃんが謝ってくれて、仲直りできて……私はもう、このことを忘れなくてもよさそうだから」

「うん……」

 幸乃は、星華に許してもらえたことに安堵すると、濡れた目を拭いながら微笑み、嬉しそうに頷く。


「そういえば、腕どうしたの?」

「あ、これは……おじいちゃんちの木に実が成ってたから、取って食べようと登ったら落ちちゃって……折れた」

「幸乃ちゃんワイルドー!」

 星華が驚きながら言うと、幸乃はもう一つ、彼女に伝えたかったことを告げる。


「あのね、星華ちゃん……私、将来は救命救急士になろうって思うの」

「え?」

「お兄ちゃんみたいに、治療が遅れれば助かるはずの命も助からないことがある。そんなことになる前に、病院に辿り着く前に……命を救える仕事があるって知って、あの日の私達みたいなことを、無くせるようにしたい。病院に搬送するだけじゃなくて、その前の段階に立って、命を繋ぐ仕事に就きたいの」

「幸乃ちゃん……」

 すでに固い決意を宿しながら語る幸乃の目を見て、星華の胸にも、とある気持ちが湧いてくる……。


「――うん、いいんじゃない!かっこいいじゃん!!」

 星華がニッと笑いながら言うと、幸乃は「うん、頑張る!」と言って、笑顔を咲かせた。


 *


 幸乃は父親に車で迎えに来てもらうというので、連絡先を交換してすぐ、彼女とはお別れとなった。


 本当はもう少し話をしたい気持ちもあるが、夏休みの宿題がまだまだ残っている星華は、「今度電話する!」と伝え、緑依風達と共に帰路へとついた。


「……にしても、星華が医者か~」

 帰りの道中、奏音が秋の空気を纏い始めた空を見て言った。


「……ん?あぁ、幸乃ちゃんからなんか聞いた?昔の夢だよ。みんなもあるでしょ、小さい頃になりたかったものって」

「まぁね~、今は特にないけど……」

「星華は、幼稚園とか保育園の先生になりたいんだっけ?」

 緑依風が前に星華が語った将来の話を思い出すと、「それも多分、変わるよきっと」と、星華がさっぱりとした口調で返す。


「じゃあ、最後には何になると思う?」

 奏音が聞くと、「さぁ~?」と星華は両手のひらを上向けにし、「なんだっていいじゃん!」と言いながら立ち止まる。


「でもね、さっきこれもいいかなって思うのが浮かんだ!」

 その『いいかなと思うもの』について、星華は二人に語らなかった。


 だが、その仕事に就く自分の未来像が、星華の頭の中にははっきりと映し出されていたのだった。



 *


 夜七時過ぎ。


 仕事を終えたすみれが帰宅し、「ただいま~」と言いながらリビングに入ると、ソファーの上には寝転がって本を読む星華。


 そして、そんな彼女の手の届く距離に、大量の本が積み重ねられている。


 よく見るとそれはすみれの所有する本――医療のことについて記されたものだった。


「あ、ママおかえり!」

 星華は読んでいた本を積まれた本の上に置くと、起き上がってすみれに声を掛ける。


「星華、これって……」

 今まで、星華が一切触れようともしなかったはずの本。


 それも、リビングに置いていたものだけでなく、すみれの部屋の本棚に収められていたものまでが、ここに運び込まれている。


「あ、ごめんごめん!借りちゃってまーす!」

 怒られると思ったのか、星華は苦笑いしながら謝り、読み終えたリビングの棚にしまってあった本を少しずつ戻す。


「あのっ……星華、今日――」

「あ、ママも幸乃ちゃんに会ったんでしょ?緑依風達から聞いた」

「そのっ、その……こと、なんだけどね……」

 すみれが星華の心の傷を心配し、躊躇いながら話そうとすると、「私、幸乃ちゃんに謝られたよ」と、淡々とした口調で言った。


「ずーっと気にしてたみたいでさ、私とママに言ったこと、謝りたかったって。すごい勇気あるよね!普通わざわざ大昔のこと謝りに来るなんて、怖くてできないよ!」

「…………」

「――でねっ、私も幸乃ちゃんを見習って、ママに言いたいことあるんだ!」

 すみれの前に立った星華は、軽く深呼吸をし、しっかりと母の顔を見つめて口を開く。


「ママ、あの時酷いこと言ってごめんね」

「星華……」

「ずっと、私もママに謝らなきゃって思ってたのに、あのことを思い出したくなくて逃げてた。……でも、幸乃ちゃんに会って話をしたら、私もちゃんとママに謝らなきゃって思ったんだ」

「…………」

「ママも辛かったのに、私があんなこと言って……。――あの後、おばあちゃんに話をしてるの聞いちゃったけど、医者を辞めようとしてたでしょ?この仕事大好きなのに、私のために辞めようとしてくれたんでしょ……?」

 すみれは、目の奥が熱くなっていくのを感じながら星華の手を取ると、「あのね星華……」と言った。


「星華の言う通り、ママはこの仕事が大好き。子供の頃からこの仕事に憧れてて、たくさん勉強して……挫けそうな日もあったけど、それを乗り越えて、やっと医者になれたの。生涯ずっと医者でありたいと思ってるし、この仕事がママの生きがいだった……。夢を叶えられたのだから、それ以上何もいらないって思うくらいに……。でもね、パパと出会って結婚して……仕事よりも私自身よりも大事な物ができた。星華……ママは星華のことが、この世で一番大切で大好きよ」

「ママ……」

「――だから、星華を傷付けて悲しませるくらいなら。星華が、医者のママを持って悩むくらいなら、いつだって辞めてもいいと思ってる。退職届の封筒だって、いつでも出せるように準備もしてるわ……」


 すみれの眼差し、声色、手を握る力加減や温度――その全てに、星華は母の愛情の深さを心の奥底まで感じる。


 生きがいにしている仕事を辞める覚悟もあるだなんて、本当は身を裂かれるような思いのはずなのに、それよりも自分を大切にしようとしてくれるのなら、星華だって、母に願うことは一つだ。


「――ううん、ママはお医者さんを続けて」

 星華は首を横に振って、母親を見上げた。


「ママは今だって、私の憧れだから。好きなことを続けられるママが、やっぱり一番かっこよくて好きなんだ!」

 星華の言葉を聞いたすみれは、潤んだ瞳を閉じて頷くと、「わかったわ……」と微笑みながら言った。


「それに、ママ家事苦手だし!」

「う……」

「洗濯物の白いのと黒いの洗い分けるのもめんどくさーいって、何回も失敗してるし、煮物だって作ればすっごいしょっぱい日とゲロあまな日ばっかで、ちょうどいい味付けの日は滅多に無いし、掃除も大嫌いでしょ!ママが専業主婦になって長嶋さんが来てくれなくなったら、うちは大変なことになるよ!」

「う、うぅ……」

 痛い所を突かれ、しょぼんとしながら肩を落とすすみれを見て笑った星華は、「それからね……」と母の顔を見上げて、体を左右に揺らす。


「……ねぇ、ママ。小児科のお医者さんって、どう思う?」

「え?」

「まぁ、興味がある……って、だけなんだけどさ」

 星華はそう言って、まだ片付けられていない本に視線を移し、そばにあった一冊を手に取った。


「小児科のお医者さんって、減ってるんでしょ?もし子供専門の医者が増えたら、夏城に……もう一回小児科ができたらいいなぁ~っていう、そのぐらいの気持ちだけど」

「…………」

「なーんて、軽すぎるよね!この本読んでも、チンプンカンプンだった!こんなに難しい本をたくさん読んで、たくさん勉強したママからしたら、医者舐めてんのかって思われるかもだけどっ――!?」

 星華が語り終わる前に、すみれがガバッと勢いよく抱き付き、ギューッと強く強く抱き締める。


「ちょっ、ちょっとママっ!?苦しいんですけど~~っ!!?」

「――また、目指してくれるの?星華の夢を壊したママと、同じ道を……」

「……同じじゃないよ、ママ。似てるけど、ママとは違う道。でも、どんな仕事を選んでも、私はママみたいな人になりたい……」


 強くて、凛々しくて。

 好きなことも、愛する人も、全てを大切に想い、生きれる女性に――。


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