第239話 ママみたいに(中編)
それから数ヶ月後。
夏はとっくに過ぎ去り、十一月中旬。
寒さが身に染みる季節となっていた。
この日も星華は、当直室のベッドですやすやと眠りについていたが、夢の中の遠い場所から、母のPHSが鳴る音が聞こえてきて目が覚めた。
起き上がるとすみれはすでにおらず、部屋の中は真っ暗だったが、星華は当直室を出てはいけないという母の言いつけを守って、もう一度眠りにつく。
きっとすぐに帰って来る。
あの夏の日以降も、すみれは何度も患者の元へと走ったが、星華が良い子に眠って待っていれば、次に起きた時にはきちんとそばに居てくれた。
ところが、星華が再び目を覚ましても、今日のすみれは当直室に戻っていなかった。
しんとした薄暗い室内は、おばけが出てきそうで怖い。
それに、何故だかわからないが、言いようもない不安が星華の胸を騒ぎ立てる。
「ママ……」
星華はベッドから降りると、小さな手でドアノブを回し、母を探しに行く。
後で怒られないよう、絶対に入ってはいけない場所以外をそっと覗き、母の姿さえ確認できたら、すぐに部屋に戻るつもりだった。
しばらく探し歩くと、複数の人の気配がした。
すみれも近くにいるはずと思った星華は、角を曲がって大好きな母親の横姿を確認し、「ママ!」と、叫ぼうとする。
――が、目に映った光景は、そんな彼女の声を喉元でせき止め、失わせた。
すすり泣く大人達。
そして、そんな彼らに頭を下げる、弱々しい母。
「……力及ばず、申し訳ありませんでした」
そう謝罪するすみれは、掛けている眼鏡を僅かにずらし、指の背で目元を拭っていた。
まだこの時点では、星華に母の発した言葉の意味がわからなかった。
でも、今これ以上、あの場に近付いてはならないということだけは、幼い星華でも理解ができる。
半歩、後ろに後ずさろうとした時、俯いていた男性の陰から、小さな女の子が現れ、星華に近付いてくる。
女の子は、夏に出会って友達となった幸乃だった。
だが、近付いてきた彼女の表情は、とても友達に向けるようなものではなく、激しい感情を込めた眼差しが、星華の鼓動を速まらせる。
「うそつき……!」
幸乃が肩を震わせ、唸るような声で言う。
「え……?」
「なおせるっていったじゃん……!ママはぜんそくなおせるっていったじゃん!!」
星華は何故幸乃が怒っているのか、未だ状況がわからず困惑していたが、そこに幸乃の声に気付いたすみれや、幸乃の両親、看護師達が慌てて駆け付け、二人を引き離そうとした。
「しんじてたのにっ……!星華ちゃんのママなら、お兄ちゃんの病気なおしてくれるって、しんじてたのにっ!!」
「幸乃、やめなさい……」
父親に押さえられても、幸乃は何度も暴れて振り解き、星華に向かって泣きながら叫びを上げる。
「お兄ちゃん、死んじゃった……!!星華ちゃんのママは、お兄ちゃんのことたすけてくれなかった……!うそつき!うそつき!!星華ちゃんのママは、人殺しだっ!!」
「幸乃っ!!」
幸乃の父が、先程よりも強い声で娘を静止させる。
「………っ」
幸乃は、はぁはぁと荒い呼吸を繰り返しながら、ギラギラとした目で星華の姿を捉え続けた。
幸乃の父は、怒りの収まらない娘を落ち着かせようと、彼女の細い腕に両手を添えて目線を合わせ、静かな声で諭そうとする。
「……幸乃、先生のせいじゃない。先生は悪くないんだ……」
「…………」
「先生は、お兄ちゃんを……清介のことを……ちゃん……と、さい、ごまで……っ」
そう言いかけたところで、息子を喪った悲しみが胸いっぱいに溢れた幸乃の父は言葉を詰まらせ、口元を押さえながら嗚咽を漏らし出す。
幸乃の母も、娘と夫――二人を抱き締めながら涙を流し、幸乃は両親の間で、「おにいちゃん、おにいちゃぁん……」と、兄を呼び続けた。
星華は、幸乃と家族が一つのかたまりになって泣き合う姿を、呆然とした顔で見つめていた。
*
夜が明け始めた頃――。
星華は、すみれに頼まれた看護師によって、当直室に連れ戻された。
看護師が退室すると、星華はすぐさまベッドに潜り、耳を塞ぎ、ギュッと目を閉じて母が戻って来るのを待っていた。
何も見たくない、何も聞きたくない……。
しかし、目を閉じても耳を塞いでも、まるで先程の光景が今も目の前で起こってるかのように感じ、繰り返し再現される光景に、星華はただひたすら耐えるしかなかった。
しばらくすると、カチャッ――と、扉が開く音が聞こえた。
「星華……」
すっぽり被った白い掛布団の上から、母の声する。
「星華……ママとお話ししましょう?」
すみれは、星華が被っていた掛け布団をそっと捲り、ベッドの上に座ると、「難しくてわからないかもしれないけど、何があったかお話するから、聞いてね……」と言って、娘の小さな両手を握った。
星華が、俯いたまま首を縦に動かすと、すみれは先程のことについて詳しく、星華も理解できる言葉で話し始めた。
幸乃の兄――清介が、深夜に自宅で喘息の発作を起こし、発作を止める薬を使ったが治まらなかったので、救急車を呼んだこと。
幸乃の家の近くの病院では、次々に受け入れを断られてしまい、その最中に清介の容態が急変してしまったこと。
幸乃の家から県外の夏城総合病院に搬送が決まったのは、最初の発作が起こってから数時間後――病院に到着した頃には、もう手遅れの状態だったこと。
「――あと……あともう少し早く治療を受けられていれば……っ、もっと早くうちの病院に運ばれていれば……っ!」
すみれはそう言いながら、清介の搬送が断られた回数、運ばれてきた時の清介の姿を思い出し、涙を滲ませた。
適切な治療を迅速に受けられれば、必ず助かるはずの命だった。
娘と二つしか歳が変わらない、まだ、たった八歳の男の子。
入院中、すみれが様子を見に病室を訪れると、「あ、先生!」と、人懐こい笑顔を見せてくれる、そんな明るい少年だった清介。
医者として、同年代の子を持つ母親としても、すみれは清介の命が救えなかったことへ、とても悔しい気持ちでいっぱいだった。
すみれが眼鏡をずらし、濡れた目を押さえた時だった。
「……なおせるって、いったのに」
「えっ……?」
娘から出てきた思わぬ言葉に、すみれが涙を拭う手を止める。
「星華……?」
星華は、俯いたままだった顔をようやく上げると、悲しみと怒りに満ちた瞳からポロポロと涙を零し、母を睨んだ。
「ママは、あたしになおせるっていった……。なおせるっておもってたから、あたし……幸乃ちゃんにいったのに……」
「星華、あのね……」
「ママのせいで、あたしは幸乃ちゃんに嘘つきにされた……!!」
「――――!!」
すみれが短く息を呑み、傷付いた顔をしても、星華は膨れ上がって破裂した想いを吐き切るまで止まらなかった。
「ママは……あたしに嘘ついたっ、ママが嘘つくから……あたしまで嘘つきになった!ママが……ママがっ……幸乃ちゃんのお兄ちゃんたすけてくれたら、あたしはっ……う、うそつきにならなかったのに……っ!」
「星華、ごめんね!ママ……っ!」
すみれが抱き締めようとしても、星華はその手を振り払い、ひっくひっくと喉を鳴らし、母を睨み続ける。
「ママなんかきらいっ!お医者さんもきらいっ!!あたしはっ……ママみたいになりたくない……っ!おいしゃさんなんかっ、ぜったいならないっ……!!」
星華は、そう言い切ると再び布団を被り、わぁぁぁと大きな声を上げて泣いた。
すみれも、星華に悟られぬよう、声を押し殺して泣いていたが、やがて静かに部屋を出ると、母から医師としての顔つきに戻り、仕事へと向かった。
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