第237話 医者の娘(後編)


 星華に謝りたいことがある――。


 すみれの元患者の妹――幸乃は、緑依風達にそう言って、彼女と何があったのかを二人に話してくれた。


「私には、お兄ちゃんがいたんです。小さい頃から体が弱くて、入退院ばかり繰り返してました……。星華ちゃんに会ったのは、六歳の夏休み……。秋山にあるおじいちゃんちに遊びに来た時、兄が夜中に発作を起こして救急車で運ばれたのが、この病院でした――」


 *


 その頃――。


 星華は中庭の木の下で、膝を抱えるようにして座っていた。


「なんでわかっちゃったかなぁ~……」

 私も、幸乃ちゃんも。


「……人の顔って、十年前後じゃあんま変わらないもんなんだなぁ~……」

 最後に見た幸乃の顔は、今よりもっと幼くて、でも星華が見た誰よりも恐ろしい形相で、怒りと憎悪を向けてきた。


「………っ!」

 星華は、自分の両腕を抱くような体勢になると、爪痕ができてしまう程ギュッと手に力を込める。


 そして、深いため息をつき、目を閉じた――。


 *


 それは、今から八年前の夏。


 当時の星華は、昼間は保育園に通い、母が当直の日の夜は当直室で過ごすことが日常だった。


 それよりもっと前は、近くに住む母方の祖父母に一晩預けられていたのだが、だんだん物心がついてくると、母のいない夜に不安を覚え、泣いてばかりいたので、現場の人の理解もあって、病院で寝泊まりすることになった。


 ある日。

 深夜遅くに目が覚めた星華は、一緒に寝ていたはずのすみれがいなくなっていたため、当直室を出て母を探しに向かった。


 すると、自分と同い年くらいの女の子が、エレベーター横の椅子に座って退屈そうにしているのを発見した。


 昼間は同年代の入院患者の姿を見ることはあれど、真夜中に子供が一人でいるのはとても珍しく、気になった星華は女の子に声を掛けてみた。


「なんでこんなじかんにここにいるの?パジャマきてないけど、患者さん?」

 星華に聞かれると、女の子はムッと不機嫌そうな顔で「わたしはどこもわるくない」と返す。


「お兄ちゃんのせきがひどくて、おばあちゃんが救急車をよんで、お父さんもお母さんも、またわたしをおいていこうとしたから、ついてきたんだけど……。お父さんとお母さんは、先生におはなしきいてるし、お兄ちゃんにもあえないし、つまんない!」

 女の子はそう言うと、唇をツンと尖らせ、未だ迎えに来ない両親に苛立ちを募らせていた。


「お兄ちゃん、なんでせきがでたの?もしかして“ぜんそく”ってやつじゃない?」

 星華が聞くと、女の子は「たぶんそれ」と言った。


「ゼーゼーって、おむねからおとがして、せきがとまらない病気でしょ?それならママが、ぜんそくだっていってた」

「へぇ〜、くわしいんだ?」

「だって、うちのママはお医者さんだし、その病気たくさんなおして、元気にしてるもん!」

 星華が誇らしげに言うと、「お医者さんのこども!?」と、女の子は彼女を尊敬するような眼差しで見つめる。


「すごいね!?じゃあ、おとなになったらお医者さんになるの?」

 女の子が聞くと、星華は胸を張って「もちろん!」と言った。


「ママみたいに、たくさん病気なおして、すごいお医者さんになるんだ!」


 この頃の星華は、母と同じ『医者』という職業に強い憧れを抱いていた。


 たくさんの患者に感謝され、難しい言葉を使って、若い医者や看護師に指示を出す母の姿は、テレビアニメの主人公よりとてもかっこよく星華の目に映った。


 母と同じ道を目指し、母と肩を並べて仕事がしたい。

 それが、幼い星華の願う未来だった。


 女の子の視線に、星華が得意げな気分になっていると、パタパタと斜め後ろから足音が聞こえてくる。


「あ、いたいた……。先生、星華ちゃんここにいましたよー!」

 角から出てきた看護師が後ろに向かって叫ぶと、その直後にすみれが小走りでやって来て、「あぁ、よかった……」と、星華を抱き締め、ホッと安堵のため息をつく。


「んもう……。ママがいなくても、部屋から出ないでねって言ったのに……」

 すみれは星華から体を離すと、娘のほっぺをむにむにと揉みながら注意する。


「だってママ、今日はいっしょにねてくれるっていったじゃん!」

 言い返されたすみれは「そうだけど~……」と、星華を寝かしつける前にした約束を思い出し、苦い顔をするが、その隣にいる小さな女の子の存在に気付くと、「あら、清介くんの妹さん」と言って、女の子の方を向いた。


「幸乃だよ!」

 幸乃が名乗ると、すみれは「幸乃ちゃん、お父さんが探してたわよ」と、幸乃の父親がいた方角を指差した。


「……お母さんは?」

 自分を探しているのが父のみだと聞いた途端、幸乃はまた不機嫌な顔になる。 


「お母さんはね、今日はお兄ちゃんと病院にお泊まりするそうよ」

 すみれがそう説明した所で、看護師に娘の居場所を教えてもらった幸乃の父が、「幸乃!」と娘の名を呼びながらやって来た。


「お待たせ。さぁ、お父さんとおじいちゃんちに帰るよ」

 父親に手を引っ張られると、幸乃は「いや!」と振り払い、床に座り込んだ。


「またお兄ちゃんがお母さんひとりじめじゃん!ユキも病院にとまる!」

「しょうがないだろ……お兄ちゃん苦しいのに、一人でお泊まりじゃ可哀想じゃないか。幸乃にはお父さんもおじいちゃん達もいるし、そっちの方がいいだろ?」

「やーだー!ユキもお母さんがいい!!」

 幸乃が駄々をこね続けると、幸乃の父親は困り果てた顔をしながら、「ほらほら、おじいちゃんち帰って、ねんねしような~」と、座ったまま動かない娘を米俵のように肩に担いだ。


「うわ~ん……お母さんもいっしょがいいよぉ~……!」

 担がれた途端、大きな声で泣き出した幸乃。


 そんな幸乃を見たすみれは、彼女の頭にそっと手を乗せると、「よしよし……」と優しく撫でながら宥めようとする。


 幸乃の父は、少し申し訳なさそうに「すみません、先生……」と、小さく頭を下げると、「いつもこうなんです……」と困ったように付け加えた。


 すみれは、「いえいえ、うちも似たようなものです」と幸乃の父に言うと、足元で自分のズボンの裾を握る星華の肩を寄せた。


「うちは夫が単身赴任で家にいないので、実家の両親にこの子を預けていたんですが、ダメだったみたいで……夜勤の日はいつもこんな感じです」

 すみれの話を聞いた幸乃の父は、ちょっぴり安心したように弱い笑みを浮かべると、「先生も大変ですね……」と言って、わんわんと泣き続ける幸乃の背を擦った。


「……では、先生。息子をよろしくお願いします」

「はい。幸乃ちゃん、お兄ちゃんすぐ元気にするから、お父さん達とお留守番頑張ってね……」

 すみれが幸乃にそう言い終えたところで、幸乃の父は一礼し、その場を去っていった。


 *


 幸乃達が帰ると、すみれは何かあればすぐ連絡するように看護師に伝え、星華を当直室へ連れ帰り、再び寝かしつけをする。


 ベッドに潜って横になった星華は、「ねぇママ。幸乃ちゃんのお兄ちゃんって、ぜんそく?」と、先程の幸乃の話を思い出しながら母に聞く。


 すみれは、「よく覚えてたわね……そう、喘息よ」と答えながら、今年で六歳になる娘の口から、その病名が出てきたことに驚いた。


「ママが、いちばんよくみる患者さんの病気っていってた」

「そう、胸がゼーゼーいって、苦しくなって咳がたくさん出る病気ね」

「しってる!だからさっき、幸乃ちゃんにもおしえてあげたんだ!」

 星華がえへへっと自慢げに笑うと、すみれもクスッと笑って、星華の頭を撫でる。


「ねぇ、ママ」

「なぁに?」

「ママはお医者さんだから、どんな病気もなおせちゃうんだよね?それって、おなかいたいのも、歯がいたいのもなおせる?」

 星華が知りたそうに尋ねると、すみれは「うーん……」と眉を下げながら唸った。


 これまですみれは、幼い星華にまだ難しい話は理解できないと思い、自分の専門について詳しく教えたことがなかった。


 しかし、以前からお医者さんになりたいと言っていた娘が、今のように何気なく話した病名や症状などを記憶し、興味を持っていると知り、これを機にと、星華にもわかりやすい言葉を選びながら説明をした。


「ママはね、息を吸ったり吐いたりする所の病気を診るのがお仕事なの。虫歯とか、お腹が痛い時のお医者さんとは違うのよ?」

「えっ、お医者さんにもしゅるいがあるの!?」

 初めて聞いた話に、星華は目を見開いてびっくりする。


「そうよ。だから、星華が歯が痛くなったり、大怪我したらママでも治せないから、危ないことをしたり、歯を磨かないなんてことはしないでね!」

 すみれが星華の小さな鼻を軽く押すようにして説明を続けると、星華は興奮気味になりながら「あ、じゃあじゃあ!」と言って、母を見上げる。


「ぜんそくとか、いきするとこの病気なら、ママはなおせるんだね!」

「…………」

 キラキラと、空にきらめく星のような娘の表情。


 それを見たすみれは、一瞬迷いながらも「うん……」と頷き、星華の問いかけを肯定した。


 本当は、治せない病気もある。


 難病、末期の腫瘍。


 喘息やその他の慢性疾患は、一時的に症状を和らげ、患者の苦痛を取り除くことができたとしても、完治させることは難しく、病種によっては、患者は生涯ずっとその病と闘い続けなければならないし、手を尽くしても救えなかった命だってある。


 だが、幼児にこれよりもっと難しいことを説明するのには骨が折れるし、何より自分を、まるでどんな願いも叶えてくれる魔法使いのように思う娘には、もう少しだけ現実から離れた夢を見ていて欲しかった。


 すみれは、自分の仕事の都合で、幼い星華を定期的にこの場所に連れてきて、大人ばかりの環境に置くことは、彼女にとって良くないことだと常に心を痛めている。


 子供のうちは子供らしく、今しか見れない世界に夢中になっていて欲しい。


 でも星華は、同年代の子供なら誰もが憧れる、仲間と共に冒険の旅に出るヒーローや、奇跡の力を持つヒロインよりも、これから嫌でも知らなきゃいけない大人社会に興味を示し、すみれが本来見て欲しい景色とは真逆の方向を向いている。


 星華が私の姿に憧れを持ってくれるなら、私が星華に夢や希望を見せてやればいい。


 今だけ、今だけだから――。

 なんでもできて、誰でも救える。


 星華のスーパーヒーローに、母親の私がなればいいんだ。


 すみれは、「いつか必ず、本当のことを話すから……」と、自分の心に言い聞かせ、ウトウトとし始める娘をそっと抱き締めた。


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