第235話 パンドラの箱(後編)


「いや~、しっかしまぁ、すっかりカップルらしくなっちゃって……」

 星華が頭の後ろに手をやりながら言うと、奏音が「まーね」と相槌を打つ。


「亜梨明ちゃんの方は前々からのとあんま変わらないけど、日下がね~……見た?亜梨明ちゃんと目が合った瞬間の緩んだ顔!くそ~っ、いいなぁ~!『彼氏と彼女』っていう関係!うらやま~っ!!」

「ちょっと、声大きいよ。学校じゃなくて病院なんだから……」

 緑依風が注意すると、「わかってますー!」と、星華はあまり反省してなさそうな返事をした。


「……っていうか、緑依風はどうなの?」

「ん?」

「坂下と何か進展あった?」

 星華に問われると、緑依風は歩みを止め、「う~ん……」と首を曲げる。


「進展……っていうか、いい方に向かってたらいいなって感じ……」

「焦れったいなぁ……。前に言ってた、『幼馴染以上の気持ち何パーセント』のやつなんて、結局半分超えてたら緑依風のこと好きなのと変わんないじゃん!今度坂下に会ったら問い詰めてやる!」

「やめなよ星華……」

 拳を握り、熱くなりすぎる星華に、奏音が腰に手を当てながら言うと、「だって、いい加減見ててイライラするよー!」と、星華は返す。


「緑依風だって、坂下にバレてからずーっと親友と恋人の間んとこで待ち続けてるのイヤでしょ!?中途半端なまま、坂下の答えが出るのを待って待って……!」

 星華は緑依風の肩を掴み、まるで不安定な足場に、ずっと立たされているような状態の友の心境を気遣う。


 だが、緑依風は困ったような笑みを浮かべながら、「……ううん、私は平気」と答えた。


「そりゃあ、焦れったいけどさ……。下手に急がせて、風麻の本当の気持ちと違うこと言われるより、ゆっくり考えてもらって、きちんとした答えが欲しいの。私にとって、いい結果でも……悪い結果でも……」

「…………」

 星華は、奏音と共に切ない気持ちで緑依風を見つめ、彼女の方に置いていた手をそっと放していく。


「ふふっ、大丈夫だよ!最近の風麻ね、すごく私に優しくしてくれるの!もちろん、昔からそうだったけど……私の気持ち知る前とは違う優しさ。不安もあるけど……今はそれが嬉しいから、この時間も大事にしたい。星華、ありがとね。奏音も。苛立たせちゃうかもしれないけど、もう少しこのままにして」

 緑依風がそう言うと、奏音は静かに頷き、星華も「しょーがないなぁ~」と言って、両手のひらを上に向けた。


「せめて、中学校卒業するまでに決着つけてね!」

 星華が茶化すようにウィンクをしながら言うと、緑依風もそれに乗るように「はーい!」と返事をして、三人はそんなやり取りに、小さく笑い声を上げながらまた歩き出した。


「……あ、そだ!」

 エレベーターで一階まで降りた所で、星華が何か思いついたように手を叩く。


「帰る前にママに差し入れしたいから、売店に行ってくるね!そこ座ってちょっと待ってて!」

 星華は、緑依風と奏音にそばにある椅子を指差しながら言うと、売店に向かって小走りした。


 *


 院内の売店に辿り着くと、星華は小さな買い物カゴを取り、母のすみれが好きなもの、元気になりそうなものをポイポイっと、放り込んでいく。


「昨日も外来の診察が長引いたって、疲れてそうだったしなぁ〜……。栄養ドリンクと、チョコと……おっと、あまーいミルクコーヒーも!」

 一通り選び終えると、後ろの方で「ママ!これもかって~!」と、小さな女の子が母親におもちゃ入りのお菓子をおねだりしている。


 母親らしき女性は、「いいよ~」とお菓子をカゴの中に入れ、欲しいものを買ってもらえることを喜んだ女の子は、「やった~!」と母に抱き付き、母親も愛おしそうに娘の髪を撫でる。


 その光景を眺める星華は、「(あの親子も仲良さそう~!……まっ、うちはもっと仲良しなんですけど!)」と、胸の内で自慢げに語り、他に買うものは無いかと店内を巡る。

 

 星華は母親が大好きだ。


 一人っ子で両親は共働き。

 おまけに父親は単身赴任という家庭環境を聞いた人達の中には、「大変そう」「お父さんともお母さんとも離れる時間が長いなんて、子供が可哀想」という言葉を投げてくることもあったが、星華はその度に「そんなことない」と言い返した。


 確かに、特殊な家庭環境かもしれない。


 世の中、共働きの夫婦が増えたといえど、片方が遠方にいて、年に二、三回しか会えないような家族は滅多にいないだろうし、星華と共に暮らすすみれも、大きな病院に勤める常勤医師が故に、当直で夜も家に帰らないことだってある。


 そんな日は、近くに住むすみれの両親――星華にとっての祖父母が、星華が幼い間は預かり、面倒をみてくれていたが、すみれは一番母恋しい年頃の娘のそばにいてやれないことに罪悪感を感じていたし、星華も、いて欲しい時に母がいない寂しさで泣いた日もある。


 ――だが、自分が『可哀想』と思ったことはない。


 両親は、会えない時間がよその家より長い分、一緒に居る時間は、その空白を埋めるようにめいっぱい可愛がってくれる。


 特にすみれは、医者という多忙で責任ある仕事で心身共に疲れていても、それを言い訳にせず、星華との時間を大事にしてくれるし、仕事と家族をどちらも疎かにしない母を、星華は尊敬している。


「そんなにお母さんのこと尊敬してるなら、あなたも医者を目指せばいいのに」


 この言葉も星華は何度も言われて来た。

 しかし、星華は自分は絶対医者にはならないと、とある出来事から決めていた。


 すみれも、それを知っているから、星華に「医者になれ」と言ったことはなかった。


「…………」

 一瞬、遠い場所に置いた記憶の箱が、開きそうになる――。


 大丈夫、忘れた。忘れたままでいたい。


「……あ、いいもんみっけ!二人に買ってってあーげよっと!」

 星華は、待たせているお詫びに緑依風と奏音の飲み物もカゴに入れてお会計を済ませると、「ふふふ~ん!」と、鼻歌を歌うようにしながら、二人の元へと戻った。


 *


 エレベーターの斜め前にある椅子は、外来に訪れた患者が通る通路に設置されている。


 星華の母、すみれの担当である呼吸器内科、循環器内科、消化器内科、整形外科、耳鼻咽喉科などに通う患者が右、左から行き来しているのを脇目に、緑依風と奏音がお喋りをしていると、「おっまたせ~!!」と、星華が白いビニール袋を振り回しそうな勢いで揺らしながら戻ってきた。


「あ、やっと戻ってきた~……」

「ってか、袋そんなにブンブンさせたら危ないでしょ……」

 緑依風に注意されると、「まぁまぁ、そう言わずに……」と、星華は先程買ったペットボトルの飲み物を二人に差し出す。


「はいこれ、待たせたお詫びにプレゼントー!私ってば、やっさし~!」

「えっ、ちょうど喉乾いてたんだ~!ありがとう~!」

 喉がカラカラだった緑依風は、星華にお礼を言ってすぐに蓋を開け、ボトルからプシュッと炭酸ガスが抜ける音が小さく響く。


「なんか、変わった色の飲み物だね……」

 奏音は、初めて見るそのドリンクのフレーバーを確かめようと、手の中でくるくるとボトルを回し、そこに表記された文字を見て「ん?」と眉間にシワを寄せる。


「何これ……?あずき味の炭酸飲料って書いてあるんだけど……」

 ラベルの文字を読んだ奏音は、怪訝そうな目を星華に向ける。


「ネットで売り切れ続出って聞いたんだけど、売店に行ったら売ってたんだー!感想聞かせて?」

「何の味かなって思ったら、これあずき……?」

 すでに一口飲み、独特な風味と味に顔をしかめた緑依風も、口元を押さえながらラベルの文字を読む。


「私達に毒見させるつもりで買ったな……」

 奏音は一度開けかけた蓋を締め直し、絶対に飲まないという意思表示をする。


「も〜っ奏音ったら、毒見だなんて〜!毒のあるものを病院で売ってるわけないじゃん!じゃ!私、受付の人にママ呼び出してもら――っ……」

 くるっと、星華が軽やかにターンをしながら後ろを振り向くと、腕を首から下げた布で固定した少女が、じっとこちら側を見つめていた。


 緑依風と奏音は「?」と、見知らぬ少女の視線を不思議に思う。


 ――が、星華はその顔をはっきりと認識した瞬間、彼女が誰であるのかを思い出し、途端に全身の血の気が一気に引いていき、心臓もドクドクと大きく動き始める。


「ぁ……ぁっ……!」

「どうしたの星華?」

 急に体を硬直させ、短く不規則な息を上げ始めた星華に緑依風が声を掛けると、それと同時に少女が一歩、また一歩と足を進めて、三人のいる場所へ向かってくる。


「ご、ごめん……っ!わ、わたっ、わたし、ようがあったんだ……!」

 星華は、奏音にすみれへの差し入れが入った袋をグッと押し付けると、「こ、こ、これ……っ!ママに渡しておいて!!」と言って、正面出入口とは反対方向へと駆け出した。


「ちょっと!」

「星華っ!?」

 奏音と緑依風が呼ぶ声は、星華の耳に届いていなかった。


 それよりももっと大きな声が、星華の記憶の箱から飛び出してきて、ぶつかった看護師の小さな悲鳴も、警備員の注意する声も、何も……何も聞こえていなかった。


「(やだやだやだ、やめて……!!出てこないでっ、思い出したくないっ……!!)」

 星華は耳を塞ぎながら自動ドアを通り抜け、中庭に出てもまだ走り続ける。


 自分にしか聞こえないその声から逃げるように。

 開いてしまった箱の中から溢れる光景を、もう一度押し込めながら。


 しかし、声の主である小さな女の子は、繰り返し叫びを上げ、星華の全身に響く。


「やめてよっ……!やだっ、やだぁ~っ……!!」

 中庭のすみの方に植えられた木の前で、星華は小さく蹲り、頭ごと覆うように耳を塞いだが、声はますます大きくなって、消えてくれない。


「うそつき!うそつき!!」

 星華の記憶の中で、少女が何度もそう叫ぶ。


「星華ちゃんのママは、人殺しだっ!!」


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