第233話 命のバトン


 八月二十五日――。

 亜梨明は東京の病院を後にし、母と共に夏城総合病院へと戻る。


 今日の天気は雨のち曇り。

 病院からタクシーを使って最寄りの駅に到着した亜梨明は、少し湿っぽい空気を嗅ぎながら、キョロキョロと人が行き交う様子を眺めていた。


「亜梨明、こっちよ」

「はーい!」

 母の明日香に呼ばれて、共に切符売り場へと向かう亜梨明。


「大丈夫?やっぱり……お父さんにお休みしてもらって、東京まで迎えに来てもらった方がよかったかしら?」

「ううん。ここまで遠いのに、来てすぐに戻るんじゃお父さんも大変だもん。それに、久しぶりの電車……ちょっぴり楽しみだったから!」

 夏城から東京に向かう際には、弱った心臓の動きを助ける補助装置などを着けており、長距離移動で体に負担を掛けぬようドクターヘリを使った。


 しかし、今は手術を乗り越え、身一つで動けるようになったため、病院側が転院の移動手段を手配するのではなく、家族の車でのお迎えか、公共の交通機関を利用するように言われ、それなら久しぶりに電車に乗りたいと、亜梨明が自ら言い出したのだ。


 もちろん、まだ体調は完全に安定しているわけではないし、経過観察が必要なため、地元に戻れば自宅に寄ることも無く、すぐに夏城総合病院に再入院しなければならない。


「あ、お父さんからメッセージ。おうちにバランスボール買うから、何色のやつにするか聞いて、ですって!」

 カタンカタンと、軽快な車輪の音を鳴らす電車の中、亜梨明の隣に座る明日香が、真琴からの文面を見せる。


 東京の病院で、バランスボールを使った体力作りのトレーニングにハマった亜梨明のために、退院後も遊びながら体力作りができるよう、真琴が購入を検討しているのだ。


「ピンクがいいな!可愛い色のやつ!」

 亜梨明がそうリクエストすると、明日香は「は~い」と言って、夫に娘の希望を伝えた。


「…………」

 明日香が返事の文章を打ち始めると、亜梨明は対面にある車窓の外の景色――雲の隙間から地上に降り注ぐ光の筋を見ながら、今朝の診察時に高城先生に言われた言葉を思い出していた。


「――僕の診察は、これで終了だ。夏城の南條先生に、もう一度バトンを渡すよ」


「夏城の病院を退院した後も、月に一度の定期健診と薬の服用は忘れないでね。それから、少しでもおかしいと思った時には、迷わず南條先生に相談すること。再発の可能性は、低いとはいえゼロではない……。不安にさせてしまったら申し訳ないが、自分の体の声によく耳を傾けてね……」


 高城先生は、今後の話をするうえで「不安にさせてしまったら」なんて語っていたが、亜梨明は全くそんな気持ちにはならなかった。


 確かに、手術を終えたと言えど、元々健康体で生まれた奏音や緑依風達とは、やっぱり違うままかもしれない。


 病気再発の心配も、頭の片隅に置いておかなければならないし、運動制限が無くなっても、人より虚弱な体質は多分この先もずっと続く。


 亜梨明の『元気になった』は、『あの頃より元気になった』なのだ。


 それでも、もっと細かく考えれば、どんなに健康体な人だって、ある日突然の出来事で命の危機に晒されることもあるし、重病で死に近かった自分よりも遠い場所にいた人が、呆気なく“その場所”へと飛び立ってしまうこともあることを、テレビやネットで見てきた。


 違う、違うと思いながらも、結局は『いつ、どこでどうなるか』なんて可能性は、自分も他の人も変わらない。


「(それなら、何にも怖くない)」

 家族や、今まで亜梨明の治療に携わってくれた医療スタッフ、五月のあの日――命を諦めようとした時に真っ先に見つけて、ここに留めてくれた爽太。


 みんなが繋いだ命のバトンのアンカーは、他の誰でもなく自分自身。

 そのバトンをしっかり握りしめて、『人生』というの名の道を、自由自在に駆け抜けたい――。


 亜梨明は、そう強く思いながら明るくなっていく空を眺め、夏城の病院を退院した後にやりたいこと、自分の未来を思い描いていた。


 *


 翌日。


 一昨日とは打って変わって、またもやギラギラと元気な真夏の太陽が照り付ける朝、メンバーのムードメーカー、空上星華は奏音と共に緑依風の家を訪れていた。


 訪問の理由は、夏休みが終わるまであと五日しかないというのに、星華の宿題がまだ全体の三割しか終わっていないので、前日の夜になって二人に「ヤバい!」と泣きつき、手伝いを頼んだのだった。


 緑依風の部屋に行き、彼女が出した折り畳みテーブルの上に宿題を広げる。


 小一時間程すると、緑依風が休憩のためにと冷たいアイスティーと、クッキーやリーフパイなどの焼き菓子を用意して、それらを味わいながらお喋りタイムが始まった。


「あ、そだ!亜梨明ちゃん夏城総合病院に帰って来たんでしょ?」

 星華が、昨日更新された『亜梨明日記』の内容を思い出しながら言った。


「うん。でも、お見舞いなら明日以降にしてもらっていい?今日は昨日の移動で疲れてるみたいだから」

「……っていうか、今日中にここまで終わらないと、二学期に間に合わないんじゃない?お見舞いに行ってる暇無いよ」

 緑依風は、星華のほぼ空欄だらけの数学ドリルを捲り、呆れたようにため息をつく。


「もぉ〜……二人に手伝ってもらおうと思ったのに、監視されるだけなんて……」

 星華の考えでは、国語や数学、理科の問題集は緑依風にやってもらい、社会の問題集と音楽の宿題は奏音に全任せして、自分はラクができそうなものだけをするつもりだったのだが、そう都合よくいくはずもなく、結局全部自力でやらされている。


「手伝ってはいるよ?わからないところ教えてるじゃない」

 テーブルに顔を乗せて項垂れる星華のおでこを、緑依風はツンと指先で押しながら言う。


 ちなみに現在残っているのは、先程から少しずつ進めている五教科のドリルと、税についての作文、読書感想文、家庭科の調理レポートと、音楽の作曲の宿題だ。


 美術のポスターだけは、八月前半に終わらせたそうだが、他はすべて途中で投げ出し、遊びまくっていたという。


「ねぇ、奏音~っ!作曲の宿題代わりにやってよぉ〜!私、音符なんて殆ど読めなくてチンプンカンプンだよ~~っ!!」

 星華は奏音に向かって土下座をすると、そのまま彼女の膝に縋りつくようにして、お願いをする。


「私が作曲してあんたの作った曲って提出したら、ゴーストライターじゃない!自分でやって!」

「うぁ~んっ!奏音のケチーっ!オニーっ!!」

 星華はそう言って悪態をつくと、わざとらしくすすり泣くフリをしながらペンを取り、数学の続きを始める。


「とりあえず、このドリル達だけでも終わらせられたら、あとは一日ずつで間に合うでしょ。そしたら明日お見舞い行こうよ。ねっ、奏音。いいかな?」

 緑依風が聞くと、奏音は「うん、もちろん!」と頷き、「亜梨明もみんなに早く会いたいってずーっと言ってるし、調子が悪くなければ会ってやって」と言った。


「ほら星華、亜梨明ちゃんに久々に会えると思って頑張って!」

「ぐぬぅ~っ、頑張る……!」

 星華は歯を食いしばり、渋々だが今日中にドリルを終わらせる意志を見せる。


「そうだ、緑依風。坂下も誘う?男子は男子で行ってもらった方が人数割けるかと思ったけど、日下がいるなら、多分亜梨明は二人きりで話したいだろうし」

「うーん……そうだね。じゃあ、風麻は私達と一緒に来てもらおうか」

 緑依風はそう言ってスマホを取り出すと、「明日ヒマかどうか聞いてみる」と、風麻にメッセージを送った――が、数秒の内に帰ってきた文面は、「ムリ」と言う言葉と、号泣する顔のスタンプ。


 そして、「宿題マジ終わらん」「助けて」「母さんに外出禁止令食らってる」と、現状を報せる内容が届いた。


「わぁ~、坂下も相変わらずだね……」

 奏音が「またか」と言いたげな顔で緑依風のスマホ画面を覗くと、緑依風も「もう~、小学校入ってから毎っ年コレなんだから~!」と深いため息をつき、「了解」「おやつあとで持ってってあげるから、宿題がんばって」と返事を送った。


「それじゃ、三人で行こっか!」

 奏音が言う斜め横では、星華が再びやる気を無くしており、「あ~眠くなってきた……十分だけ寝ていい?」と、床の上に大の字になって昼寝をしようとしている。


「……お見舞い、二人になりそうだね」

「うん、星華は明日も宿題で忙しそうだし……」

 奏音と緑依風が、冷ややかな視線を星華に向けながら言うと、星華は「うわ~っ、冗談だよぉ~っ!!」と飛び起き、シャーペンを握った。


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