第229話 竹林の家(前編)


 八月十二日の午後、十二時頃――。


 爽太が亜梨明に会うため東京に発つ準備をしている一方、緑依風は家族と母方の親族である青木一家と共に、今年も母、葉子の実家――白崎の祖父母の家を訪れようとしていた。


 飲食店を営む松山家にとって、年に一度の家族旅行ともいえる母の実家への里帰り。


 緑依風は毎年この帰省を楽しみにしており、それは妹の千草と優菜も同じのようだ。


 休憩で立ち寄ったパーキングエリアでは、ジュースやソフトクリームを買ってもらったり、葉子が青木姉妹の母で、彼女の実姉でもある花と一緒にお土産選びをしている間は、日頃忙しくてなかなか遊び相手をしてもらえぬ父の背に飛び乗ったり、ふざけたりと、とにかくご機嫌だった。


 緑依風がペットボトルのお茶を飲みながら、そんな父と妹達の光景を見て和やかな気分になっている時だった。


「お姉ちゃん、今日くらい受験勉強のこと忘れよ!ねっ?」

「うん……」

 背後から聞こえてきたのは、立花と海生の会話。


 実は今年の帰省、青木家は受験生の海生のために見合わせる予定だった。


 ところが、ここ最近受験勉強、夏期講習ですっかり煮詰まっている海生の様子を心配し、青木夫妻は例年通り、海生も連れてみんなで実家に行くことを決めた。


 お盆前、緑依風は海生本人の口から、彼女の恋人である海斗のことにも悩んでると聞いた。


「高校……私の頭じゃ海斗と一緒は無理って言ったの。学校は違っても、好きなのは変わらないから大丈夫って。……でも、海斗は絶対一緒じゃなきゃ嫌だって、納得してくれないのよね~……」

 一つしか変わらないとはいえ、いつも年上の先輩らしく、大人びていると思っていた海斗が、そんなワガママのようなことを言っていることにも驚いた緑依風だが、なんと彼は、難関校も目指せる成績でありながら、海生の通えるレベルの学校にランクを落とすとまで言ったらしい。


 もちろん、海生もそんな海斗の考えには反対で、かといって彼のレベルに合う学校を今から目指すのも現実的ではなく、空回りしすぎた結果、模擬試験の点数は散々だったという。


「今ほど、勉強をしなかったことを後悔した日は無いわね~……。赤点さえ避けれれば大丈夫。なんとかなるでしょう?って、ずーっとぼんやりしてたから……」


 *


 白崎家――緑依風達の祖父母、良治よしはる美枝子みえこの住まいに到着すると、みんなで車から荷物を下ろし、それぞれが寝泊まりする部屋へと運んでいく。


 美枝子は良治が育てたトウモロコシを茹でており、荷解きを終えた所で孫たちに振る舞ってくれた。


「ん~、やっぱりじぃちゃんちはいいね!静かで自然もいっぱいで!」

 立花がトウモロコシをひとかじりし、開け放たれた窓の景色を見て言った。


「だっはっは!じぃちゃんはお前達が来て賑やかだな~って思うがな!」

 良治はそう言って、立花のそばに腰を下ろし、胡坐をかく。


 白崎家はこの辺りの土地を広く所有している。


 大昔はもっと広大な面積を管理していたそうだが、時代の流れと共に手放したり、遠縁に譲った場所もあるのだとか。


 すぐそばにある竹林ちくりんは、蚊や蛇が出そうなので緑依風達は近付かないが、たまに出入りする良治によると、夏場でも涼しくて心地よい場所らしい。


 緑依風と海生は、みんなから少し離れた縁側でトウモロコシを食べていた。


「じぃちゃんのトウモロコシ、甘くて美味しいね!」

「……うん」

「…………」

 緑依風が話しかけても、海生はどこか上の空な返事しか返さない。


 海生は昔から物事をあまり深く気にしない人間で、美しい容姿から嫉妬した、一部の同級生の嫌味な発言や嫌がらせ行為も、「謝ってもらったから、もう気にしてないわ~」と、受け流せる程、大らかな心の持ち主だ。


 こんなに悩んで、落ち込む姿を見るのは初めてで、緑依風はますます心配になってしまう。


 緑依風がそんな彼女の横顔を見つめて、何か元気付けられることはできないかと、考えている時だった。


「――――!」

 突然、緑依風の方へと振り向く海生。


「……どうしたの?」

 緑依風が聞くと、「今、あっちで声が聞こえた気がして……」と、海生は家の周辺を囲う柵の向こう側――竹林の方角を覗き込むように背を伸ばす。


「声?」

 緑依風もトウモロコシを持ったまま、海生の視線の先へと注目した。


 すると、白い割烹着を着た人が、地面に倒れている姿が見えた。


「――あ、大変っ!」

 緑依風と海生は、竹林の方へと走って向かった。


 竹林の入り口の前には、「あいたたた……」と足を押さえて痛みを堪えているおばあさんがいた。


「おばあさん、大丈夫ですか~?」

 海生がおばあさんに声を掛けた。


「あらぁ〜……わざわざ来てくれたんですか……どうもすみませんねぇ〜……」

 おばあさんは海生に謝ると、近くに落ちた竹籠と、ナスとキュウリ、りんごを集めようと立ち上がったが、「あ、痛っ……」と言って再び座り込んだ。


「おばあさん、足怪我したんじゃ……」

 緑依風の声と共に三人がおばあさんの足首に注目すると、そこは赤くなっていて、腫れているようだった。


「あらやだ、捻っちゃったのかしらねぇ〜……。いやだわ~、年を取るとすぐに足がもつれちゃって……。まぁ、百歳超えちゃったらしょうがないわよねぇ……」

「百歳!?」

 おばあさんの年齢を聞き、緑依風と海生が驚きに声を上げる。


 本人の言う通り、足腰は弱っているに違いないが、はっきりとした口調や顔のシワの深さ、血色のいい肌艶を見ると、百歳を過ぎているとは思えない。


 ポカンとした二人をよそに、おばあさんは足を引きずって這うようにしながら、「あぁ〜……息子達がせっかくくれたのに……」と言って、落とした野菜を拾って、竹籠の中へと入れた。


「それじゃあ、失礼するわね……」

 そろそろと立ち上がり、緑依風と海生に会釈するおばあさんは、「いたたたた……」と言いながら歩き出し、薄暗い竹林の中へと入ろうとする。


「あら、おばあさんちょっと待って……!」

「その中危ないですよ?」

 緑依風と海生に呼び止められると、おばあさんは「あらぁ〜……」と言って振り返る。


「危ないもんですか……だって、私の家はこの中にあるんですもの~。……それじゃ、お嬢さん達ありがとうね〜」

 おばあさんはのんびりゆったりした声で、二人にお礼を言うと、そのまま竹の小径こみちを歩き進んでいった。


「私、おばあさんが心配だわ……」

 海生が背中の曲がったおばあさんを見ながら言うと、緑依風も「そうだね……おうちまで送ってあげよう」と頷き、二人でおばあさんを追いかけた。


「おばあさん!」

 海生がおばあさんに声を掛けると、おばあさんは「まぁまぁ〜〜?」と振り返る。


「どうしたの~?お嬢さん方……」

「おばあさんのおうちって、この近くなの?」

 海生が聞くと、「ここから五分くらいかねぇ〜」とおばあさんは答えた。


「五分……それなら、私達おばあさんをおうちまで送ります!」

 緑依風が言うと、「いやぁ、でもねぇ~……」とおばあさんは申し訳なさそうに眉を下げる。


「おばあさん、足痛いでしょう?私がおばあさんをおんぶしておうちまで送り届けますから!さ、乗ってください!」

 海生がしゃがむと、緑依風はおばあさんが手に持っているカゴを受け取った。


「あらまぁ……若いのになんていい子なの……!」

 おばあさんは感動するようにシワだらけの頬に両手を添えた後、二人の厚意を受け取り、海生の背に乗り始める。


 おばあさんからは、お線香の香りがした。


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