第228話 もう少しだけ
プレイルームを後にし、病棟から離れた場所のベンチまで歩く亜梨明と爽太。
白い壁と天井。
そして大きな窓から見えるのは、夏の青い空に映える、白い入道雲――。
二人で窓が正面になるように並び座ると、爽太は湿っぽくなった顔を手で隠すようにして、「あはっ……」と照れ臭そうに声を漏らす。
本当はもう少しあの場に居たかったのだが、遊びに部屋に入ってきた子供達が、見慣れぬ大きな人がいることや、泣き跡残る顔の爽太に興味津々だったりと、居たたまれない気持ちになって退散したのだった。
「これ……戻るまでになんとかしないと……」
爽太が未だ腫れの引かない目元に触れ、参った声で言うと、「爽ちゃん、意外と泣き虫さんだよね」と、亜梨明がからかうように言った。
「やんちゃだったって話も……前におばさんに聞いた時は信じられなかったけど、今思い出すと納得。これじゃあ、お互い一度会ってたなんて絶対わからないよ!だって、今の爽ちゃんと全く正反対なんだもん!」
「ははっ……本当に、とんでもない悪ガキだったなって、自分でも思うよ」
爽太は恥ずかしそうに表情を歪ませ、膝の上に肘を乗せて手を組んだ。
「……言い訳になっちゃうけど、あの頃はそうでもしないと、やってられなかったんだ」
「え?」
「亜梨明に出会う数か月前にひなたが生まれて……ずっと一人っ子でいたのに、急に親の関心が自分だけじゃなくなったことに、すごく不安になった。最初は、気を惹きたくてワガママを始めたのがきっかけ……。でも、だんだんワガママだけじゃなくなって、まだ赤ちゃんの妹に意地悪するようになって……看護師さんや同室の子にも、自分の存在感をアピールしたくて無茶苦茶言って、思い通りにならなかったら……手を上げてケンカになって……」
爽太はそのまま、当時のことを更に詳しく亜梨明に語ってくれた。
最初は仲良くできていたはずのルームメイト達とのケンカが絶えず、嫌われて避けられるようになったことや、「乱暴な子と一緒に居させられない」と、両親が看護師伝いに保護者達からの苦情を受け、他の子から距離を取らせるために、病棟の最奥の一人部屋に隔離されたことなどを――。
爽太は、亜梨明に語りながら自分の手のひらを見つめ、いじめてしまった子の表情、言葉を思い出し、申し訳ない気持ちと共にその手を握り締める。
「――でもね、親に叱られてますます腹が立っても、走り回って、どんどん具合が悪くなって苦しい日が続いても、僕自身は……元気な時よりずっと良かった」
「どうして?」
亜梨明が聞くと、爽太は「だって……」と、言いかけたところで、微笑みながらも悲しさを帯びた横顔で窓の外を見上げ、彼女の質問に答えた。
「……そうやってる方が、お父さんもお母さんも、僕だけを見ててくれるから……。僕を心配してくれてる間、叱るために向き合ってくれている間は、二人に愛されてるって実感できる。――僕は“要らない子”じゃないって、安心できるからね」
「…………」
亜梨明は、さっきまでの面白半分な気持ちで彼の幼少時代を口にしたことを後悔した。
亜梨明自身は、物心つく前から奏音の存在を理解していたし、もちろん両親にもっと自分だけを構っていて欲しいと思う日もあれど、そのおねだりの仕方も自然と身についていた。
でも、生まれてから五年も一人っ子でいた彼が、突然できた妹の存在に困惑し、病気を悪化させてまで、親の気を惹くためにがむしゃらになっていただけだったと知って、切なくなる――。
きっと、それをこれまで一人で抱え込んでいたのではないかと思ったところで、彼はふっと表情を和らげて、「うちの親とひなには内緒ね」と、口元に人差し指を立てて言う。
彼が初めて語ってくれた胸の内――寂しさに触れた亜梨明は、ぽすっと、爽太の肩に頭をくっつけ、孤独の傷跡に寄り添う気持ちで距離を詰めた。
「……爽ちゃん。ずっと、誰にも言わずに我慢してたんだね……」
「……ううん。カッコ悪くて情けないから、言えなかっただけだよ」
「情けなくなんかないっ……!」
「えっ……?」
急にツンと鼻奥の方が痛くなったと亜梨明が思った瞬間、目からポロリと涙が落ちる。
爽太はちょっとびっくりしたようだが、亜梨明はもう一度「情けなくなんかない……!」と、彼の言葉を否定して、抱き締めた。
抱き締める際に、自然と顔が爽太の胸元へとくっつくと、そこから甘くも爽やかな香りが漂い、彼の胸の鼓動が聞こえてくる。
トクトクと、一定の間隔で脈打つ爽太の心音は、彼が様々なものと闘い、耐え抜いたが故に鳴り続けるもの。
亜梨明は、例えやってはいけないことだったとしても、彼にそれを自責の念や、「情けない」なんて言葉だけで終わらせずに、心細さに震えながらも一生懸命だった幼い爽太を認めてあげて欲しかった。
「…………」
爽太は亜梨明の言葉に、長年心の奥に秘めていた罪悪感や悲しみ、惨めさから解き放たれたような感覚になると、彼女の背を抱き、頭を包み込むようにして撫でながら「……ありがとう」と言った。
しんとした、音のない空間で亜梨明に聞こえるのは、抱擁を交わす爽太の鼓動と呼吸音。
爽太の腕の中にいる幸せに
そして――……。
「…………!」
額に伝わる、柔らかな感触とじんわりとした熱。
優しくも確かな触れ心地……でも、すごく緊張しているのだと伝わるくらい、亜梨明の頭に添えられた爽太の手は震えていて、亜梨明自身も
爽太は、亜梨明の額にくっつけた唇をゆっくりと離すと、「えっ、と……」と、たどたどしく言いながら首元を押さえる。
「口同士は……まだ、感染症に注意しなきゃだし、ダメだと思うけど……おでこなら、いい……かなっ、て……っ!」
「…………!!」
突然の予想外過ぎる出来事に、亜梨明が声も出せずにはくはくと口を動かし、目を白黒させていると、爽太は「ふはっ!」と、吹き出して笑った。
「顔、真っ赤だよ!」
「そ、爽ちゃんこそ……!」
「……っ」
亜梨明が負けじと指摘すると、夕日の如く赤かった彼の顔はまた赤みを増していき、恥じらうように斜め下を向いた。
「……っ、そろそろ戻らないと!三時まであと十五分くらいしかな、い……っ!?」
立ち上がろうとする爽太の頬に、今度は亜梨明がキスをする。
「あ、亜梨明っ……!」
「先にしたのは爽ちゃんだもん……!」
爽太の両腕を掴んだ亜梨明が、ムキになったように言う。
「…………」
「…………」
一秒、二秒――と、少しの間、見つめ合うだけになっていた亜梨明と爽太は、どちらともなく互いの背に腕を伸ばし、固く、強く抱き締め合う。
「はなれたくない……っ」
亜梨明が声を震わせて言った。
「僕もだよ……」
爽太の声も、静かで物悲しさを帯びている。
「でも……」
「うん、わかってる……。約束は守らなきゃダメだよね……」
自分達のために計画を立ててくれた真琴、明日香、奏音、高城先生――。
少しぐらい長引いてもなんて思うのは、彼らの厚意を無下にするようでできないし、したくない。
約束の時間には、病室に帰らなければ。
でも――。
「――でもっ……あと、少しだけ……もう少しだけ……このままでいい……?」
亜梨明は、爽太との間にある僅かな隙間すらも無くそうと、腕に力を込め、彼の肩口に顔を埋める。
「うん……」
爽太も、亜梨明とぴったりとくっつき合うよう、彼女の華奢な体を強く抱き寄せ、掠れた声で頷く。
誰もいない病院の片隅で、亜梨明と爽太は互いの呼吸、鼓動、温もりを感じながら、この時を止めて永遠にしたいと願う。
しかし、やはり時間は止まらない。
刻一刻と迫る、“その時”がいよいよ間近になると、二人は名残惜しい思いのまま抱擁を解き、病室へと戻るのだった――。
*
二日目は、当初から決められていた通り、外出許可をもらった亜梨明は家族や爽太と共に病院の外へと出かけた。
車で約一時間程の場所にある大型商業施設に到着すると、夏城周辺であまり見ない雑貨店や洋服店が並んでおり、奏音はそこで両親に新しい服を買ってもらった。
程よくお腹が空いた所で、五人は昼食を取るためレストラン街へと移動する。
昨日に続いて洋食が食べたい亜梨明と、初めて見るお店のラーメンが食べたい奏音が一瞬揉めたが、最終的にジャンケン対決をして亜梨明が勝利し、奏音は悔しそうにしていたものの、無邪気にはしゃぐ姉の姿を見て笑みをこぼし、相楽夫婦も娘達のそんな光景を久しぶりに見れて、嬉しそうだった。
食事を終えると、すぐさま病院へと戻る一行だったが、時間に少し余裕があったのでスーパーに立ち寄ることにした。
明日香は、亜梨明の病室で使うウェットティッシュや消耗品が、院内のコンビニよりも安いからとここでまとめ買いをし、爽太と奏音は翌日帰りの車中で食べるおやつや飲み物を購入。
久々の長距離の移動やお出かけでややお疲れ気味の亜梨明は、車椅子に乗って、それを爽太や奏音に交互に押してもらい、珍しい商品を見て楽しんでいた。
*
そして、最終日の十五日――。
院内レストランで五人揃って昼食を終えると、すぐさまお別れの時間となった。
ロビーの前で、名残惜しい気持ちになるのは亜梨明と爽太だけではない。
夫ともう一人の娘を見送る明日香、そして真琴と奏音も。
あと数日もすればまた共に暮らせるとわかっていても、離れ離れになるのはやっぱり寂しい。
「……次に会えるのは、再来週くらいかな?」
奏音が退院予定日を思い出しながら言った。
「再来週かぁ~……リハビリ頑張ったら、週明けには帰っていいよって、先生言ってくれないかな~?」
亜梨明が間延びした声で言うと、明日香は「また無理して熱出たらどうするの?焦るのはダメよ」と言い、奏音も「いい加減、学習しなよ……」と、ジト目になりながら言った。
爽太と真琴は、「ははっ」と笑い、三人のやり取りを微笑ましい気持ちで見守っている。
「風麻達も亜梨明に会えるのを楽しみにしてるから、リハビリは無茶しない程度に頑張ってね」
「うん!」
「おや〜?爽太くんに言われると素直に返事するんだな」
真琴にからかわれると、亜梨明は「んも~っ、そういうこと言わないでよ~」と、ぷーっと頬を膨らませた。
「待っててね」
「うん、待ってる」
亜梨明と爽太は握手を交わし、笑顔を向け合う。
「じゃあ、そろそろ出発するよ……」
「えぇ、気を付けて帰ってね……」
「明日香も、体に気を付けて……。何か不安になっても、一人で抱え込まないで」
真琴は明日香に労わる言葉を掛け、軽く抱擁するように妻の背に手を回して添えると、亜梨明と爽太は「わ」と、ちょっぴり照れながら顔を見合わせ、奏音は「うわ……」と、嫌悪感を剥き出しにして、鳥肌の立つ両腕を
「さて、二人とも行こうか?」
真琴は明日香から離れると、何事も無いような素振りで爽太と奏音に声を掛け、荷物の入ったキャリーケースの取っ手を握る。
「はい!」
「お父さん……お願いだから外でそういうことしないで……」
怪訝な表情で睨みつける娘に、真琴は「?」ととぼけた様子で首を傾げ、入り口に向かいながら亜梨明と明日香に手を振った。
奏音も、呆れた気分でため息をついた後、苦笑いを姉と母に向け、父の後ろをついていく。
爽太も置いていかれないよう、彼らと一緒に自動ドアを通り抜けるが、くるりと振り向くと、笑顔で左右に手を大きく動かし、亜梨明もそんな彼に両手を振って、元気よく見送る。
夏空の下、陽の光に溶け込むように照らされる爽太の姿はとても綺麗で、その光景はしばらく、亜梨明の目に焼き付いて離れなかった。
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