第227話 猫目の少女と泣き虫少年(後編)


 小児病棟へ繋がる扉を通過し、入院中の子供達が遊ぶプレイルームを目指す爽太と亜梨明。


「あ、ちょうどよかった!誰もいない!」

 窓からそっと中を覗き込んだ亜梨明は、ホッと安心したように呟き、爽太より一足先に入って、「なつかし~!」とはしゃいでいた。


 爽太も彼女に続いて靴を脱ぎ、中へと入る。


 懐かしい。

 九年前よりおもちゃが増え、壁に貼られた色紙の壁飾りなどは変わっているが、ピンク色の絨毯や、小さな椅子と机などは当時のままで、ここで過ごした日々の記憶が少しずつ蘇って来る。


 そして、部屋の中央に設置された黒いグランドピアノ。


 あの女の子が、どこか寂し気な様子で弾いていたピアノも、あの日と変わらぬ場所に存在していた。


「ピアノ、勝手に弾いて怒られないかな……?」

 亜梨明は久しぶりに本物のピアノを弾きたくてソワソワしつつ、無断で使用して叱られないか気にしているようで、なかなか蓋を開けずにいる。


「僕、看護師さんに聞いてきてあげるよ」

「うん、ありがとう!」

 爽太は一旦外に出て、近くにいた看護師にプレイルームとピアノの使用許可をもらい、再び部屋へと戻る。


「…………?」

 ふと、窓から見えたピアノの横に立つ亜梨明が誰かの面影と重なり、爽太はピタリと立ち止まる。


「あっ、爽ちゃん。どうだった?使ってもいいって?」

「……あ、うん。大丈夫だってさ」

 爽太が我に返って、亜梨明に使用できることを伝えると、彼女は「やった~!」と喜び、ピアノの蓋を開けて、椅子に座った。


「…………」

 亜梨明が椅子に座った途端、またもや爽太の脳裏に誰かの姿が浮かぶ。


 それは、あのピアノの少女――。


「(まさか……でも……)」


 たった一度。

 あの僅かな時間しか知らない、顔も声もはっきりとは思い出すことができない、自分のためにピアノを弾いてくれた女の子。


 それなのに、爽太は記憶の奥底に眠る、霧のように曖昧で朧げな姿が、何故か亜梨明と繋がりを感じて、胸騒ぎが止まらない。


 亜梨明は鍵盤の固さや音の響きを確かめるため、目を閉じながら一つ一つ白鍵や黒鍵を押し鳴らしている。


「ねぇ、爽ちゃん」

「ん……?」

「前に、私のピアノまた聴きたいって言ってくれたよね?」

「う、うん……」

「実はこの間、ずっと前から作ってたのに納得できなかった曲が、やっと完成したの!」

 そう言って振り向く亜梨明の目が、微かに残っていた少女の特徴と一致する。


 大きく、緩やかな猫目――。


「爽ちゃん……聴いてくれる?」

「…………!」

 爽太の速まっていた胸の鼓動が、この日一番大きな音を立てて打ち震えた。


 何も知らない亜梨明は、彼が僅かな動きでコクっと首を縦に振るのを確認すると、にっこりと微笑み、スッと軽く息を吸って演奏を始めた。


「…………」

 静寂に包まれた部屋の中に、ピアノの音がゆっくり、ゆっくりと広がっていく。


 少し寂し気で、切なさを感じる前奏――そこから流れるように奏でられたメロディーは、曲調こそ違えど、間違いなくあの少女が聞かせてくれたものだった。


 遠い昔、幼い爽太の心の琴線に触れた曲。


 辛い時、自分を勇気付けるように何度も思い出した大好きなメロディー。


 たった一度きりしか会っていない、名も知らぬ少女の音楽は――時を超えて、あの日と同じ場所で再び爽太の中に沁みこみ、癒してくれた。


 爽太の色褪せた記憶が少しずつ鮮やかさを取り戻していくと、いつの間にか視界は、胸の奥の熱い感情を溢れさせるかの如く出た涙で歪み、それを彼自身が止めることはできなかった。


 亜梨明はそんな爽太の様子に気付くことなく、高らかに歌うような気持ちでピアノを奏で、とても楽しそうな笑顔を浮かべているのだった。


 *


 演奏を終えた亜梨明は、満足気なため息をついて椅子から立ち上がり、爽太の方を向いてぺこりとお辞儀をした。


「聴いてくれてありが……爽ちゃん?」

 亜梨明が顔を上げて爽太にお礼を言おうとすると、彼は目を真っ赤に腫らしており、驚いた亜梨明は「どうしたの!?」と慌てて駆け寄る。


 だが、爽太はすぐにその理由を言わず、「ははっ……」と乾いた声を出し、両手で顔を押さえ、グズッと鼻を鳴らした。


「……なんで、気付かなかったんだろう」

「爽ちゃん?」

 亜梨明が覆われた爽太の顔を覗き込むと、彼はようやく顔から手を離し、泣き顔の中に嬉しそうな笑みを湛えている。


「亜梨明……君だったんだね……!」

「…………?」

 彼の言葉の意味がわからず、亜梨明が困惑した表情を浮かべると、爽太はゆっくりとピアノに近付き、鍵盤をそっと撫でた。


「ねぇ……昔、このプレイルームで亜梨明がピアノを弾いている時、意地悪な男の子が来なかったかい?」

「いじわる……?」

「そう。こうやって、ピアノの鍵盤を叩いて邪魔した子……覚えてない?」

 爽太はそう言って、ピアノの左端の鍵盤を手のひらで押すようにして鳴らし、プレイルームにバーンっと、低い不協和音が響く。


「――――!」

 爽太が鳴らした音に、亜梨明の遠い日の記憶が呼び起こされると、彼女は大きく目を見開き、驚愕した様子で彼を見つめた。


「もしかして……あのときの……?あの……男の子?爽ちゃんが……?」

 爽太は深く頷くと、再び感極まったように涙を流し、その場に崩れるように床に膝を付く。


 亜梨明が彼のそばに歩み寄ると、爽太はしばらく沈黙していたが、やがて泣き顔をあまり見られぬよう半分程隠しながら上を向き、長年募っていた思いを語り始めた。


「――僕ね、ずっと会いたかったんだ。ここで、僕にピアノを聴かせてくれた女の子に……」

「私に?」

「うん。だけど……その日からしばらくは、勝手に部屋を抜け出さないようにって、親と看護師さんの監視が厳しくて……。ようやく出られるようになった頃に探してみたけど、プレイルームに行っても、他の病室を覗き込んでも見つからなくて……それっきり。だんだん女の子の顔も忘れて、わからなくなったけど……――この曲だけは絶対忘れたくなくて、誰もいない時に口ずさんだり、頭の中で繰り返し思い出したりしてた……」

「…………」

「僕はこの曲に何度も救われたよ……。一人が寂しい時も、発作で苦しい時も、病気が治ってからだって……思い出すたび、不思議と心も体も安らいだ……」

 爽太は、服の上から傷跡の残る胸の中心に手を添えると、そのままクシャリとシャツを掴み、また一筋涙を頬に伝わせる。


「――名前も知らなくて、手掛かりなんて何一つ無かったけど……。でも、もしその子に会えたなら、絶対言おうって決めてたことがあるんだ……!」

 そう言った彼は、潤んだ目元のまま亜梨明を真っ直ぐと見つめ、彼女の片手を両手で誓いを立てるように握り、震えて何度も閉じそうになる唇を懸命に開かせた。


「――ありがとう、亜梨明。僕にこの曲を、聴かせてくれて……っ」

 これまでの思いをようやく伝えることのできた爽太は、再び感極まったように、「ありがとう」を繰り返しながら嗚咽を漏らし、亜梨明の手を握ったまま背を曲げて、小さくなった。


 亜梨明はしばしの間、何も言わずに爽太が落ち着くのを待っていたが、握られていない方の手で彼の手にそっと触れると、柔らかに微笑んで「あのね……」と、静かに声を掛けた。


「私にとっても、あの男の子との思い出は特別だったの……」

「え……?」

 爽太が少し顔を上げると、亜梨明もあの日の出来事を懐かしむような表情で語り始める。


「……この曲は、私が初めて作ったオリジナルの曲で、人前で弾いたのも、あの時が初めてだったの」

「…………」

「さっきまで強気だった男の子が、急に泣きそうになって、何かしてあげられないかなって考えた時……咄嗟に思い付いたのが、ピアノを弾くことだった」

 亜梨明は爽太の涙に濡れた頬を手で拭い、そっとピアノに視線を移す。


「――あの頃の私は、まだ楽譜の書き方も知らなくて、頭で思いついたメロディーを、思いついたまま弾くだけだったけど、すごく気に入ってたから……自分が作った曲で、男の子を励ませられたらいいなって思ったの。そしたら、男の子がすごく褒めてくれて、それがすごく嬉しくて……そのおかげで、私は曲を作ることに自信を持った……」

 亜梨明はもう一度爽太に顔を向けると、「爽ちゃんのおかげなんだよ」と言って、にっこり笑った。


「私がピアノをもっと好きになって、曲を作り続けられること。私の生きがいをくれたこと――完成した曲を、もう一回聴いてくれたこと……ありがとう、爽ちゃん!」

 そう言って、亜梨明が感謝の気持ちを伝えると、爽太は「うん……っ」とくぐもった声で頷き、真っ赤に染まった目元からまた一つ、雫をこぼした。


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