第223話 爽太と真琴(後編)
午後九時を過ぎて、三人は明日香のいる宿泊施設へと到着した。
この施設は付近の病院に入院する患者の家族が利用するもので、温かな雰囲気と落ち着いた内装は、ホテルや旅館よりも『おうち』をイメージしていると、爽太は奏音に聞かされた。
チェックインを終えると、爽太は奏音や真琴と共に、共有スペースのダイニングへと足を踏み入れる。
宿泊する者が利用する木製のテーブルと椅子、そのすぐそばにあるぬいぐるみの置かれたソファーやテレビ。
自由に使えるキッチン、銀色の冷蔵庫――。
見覚えのある光景が、爽太に何かを思い出させようとする。
「…………」
「日下くん」
ぼんやりとしていた爽太に、真琴が声を掛けた。
爽太が「あっ、はい……!」と、返事をしながら振り向くと、三人の到着に合わせて集まった明日香が、奏音や真琴と一緒に立っていた。
「こんばんは、日下くん。わざわざ来てくれてありがとう」
明日香に挨拶されると、爽太も「こんばんは、お久しぶりです」と挨拶返しをする。
「長旅で疲れたでしょう。今晩はゆっくり休んで。それから、事前に日下くんのお母さんから話は聞いていたと思うけど、宿泊代は持つ代わりに、二日間うちのお父さんと同じ部屋になっちゃうんだけど……本当に大丈夫だったかしら?」
明日香は申し訳なさそうに再度確認するが、東京までの道中、爽太も真琴が優しくてとてもいい人だと思い、すっかり安心していたので、全く問題は無かった。
奏音や明日香と別れ、真琴と宿泊部屋に赴くと、彼は一番風呂も爽太に譲ってくれた。
爽太は、もっと打ち解けたいと思うまでに、真琴に心を許しきっていたが、彼が日中の仕事と長距離運転で疲れていることを考慮し、会話も早々に切り上げ、明日に備えて今日の所は早めに眠ることにした。
*
それから約三時間後――。
慣れない寝具で眠りが浅かった爽太は、寝る前に服用しなければならない薬を飲み忘れていたことに気付いた。
暗闇の中、隣のベッドを見ると、真琴は横向きになって眠っている。
そっとベッドから降りて、自分の鞄から薬の入った持ち歩き用ケースと、財布を持った爽太は、音をなるべく立てぬよう注意しながら、扉を開いて一旦ロビーへと向かった。
ロビーにある自販機で小さなペットボトルの水を買い、黄色い間接照明のみが灯された、誰もいないダイニングの椅子に腰かけると、銀紙のプラスチック部分を押して薬を手に取り、それを飲む。
薬を喉に通すと、爽太はくるりと周囲を見回し、記憶と今目に映る景色をパズルのピースの如く、ひとつひとつ当てはめていく。
「(やっぱりだ……)」
実際にここに来たことがあるわけではない。
でも、爽太はこの場所を知っていた。
そう、ここは――。
「…………!!」
爽太がこの場所のことを思い出した瞬間、誰かがとても慌てたように足音を立ててダイニングに入ってきた。
「日下くんっ……!」
「おじさん……?」
真琴は僅かに呼吸を乱しながら、「よかった……ここにいたんだね……」と、安堵するようにため息をつく。
「目が覚めたら、ベッドに日下くんの姿が無くて……でも、部屋のトイレにもいないし、何かあったらどうしようかと……!」
どうやら真琴は、爽太が部屋の外に出たことに気付いて探しに来たらしい。
「すみません、薬飲んだら戻ろうとしたんですけど……」
爽太は真琴に頭を下げながら謝る。
「いや、いいんだ……。こっちこそ、もう少し待てば良かったのに勝手に焦った……」
真琴は寝癖で乱れた髪を撫でるように整えると、テーブルの上にあるペットボトル、そして空になった薬の包みに視線を移す。
「……それは、術後ずっと飲んでいるのかい?」
真琴の声が、ダイニングの中に静かに響く。
「……はい。これだけは、術後も一生飲まなきゃいけないので……」
爽太の声も、真琴と同じくらい静かに――そして少し切なげに部屋の空気に溶けた。
「そうか……。でも、思ったより少ないね?」
真琴は、亜梨明が今飲んでいる薬の量を思い出して比べた。
「かなり減りました。最初は薬だけでお腹いっぱいになるくらい処方されていましたが、今はこれだけで大丈夫なんです。きちんと欠かさず飲めば、他の人と同じように生活ができます」
爽太が言うと、真琴は「そっか……」と嬉しそうに微笑みながら、爽太の対面の椅子に座った。
「亜梨明の薬の量も早く減るといいな。……今はまだ、体調や術後の拒絶反応に不安が残る亜梨明だけど、君を見てると『きっと大丈夫』だって、前向きに思える」
「そうなんですか……?」
「うん。亜梨明の手術が決まった時もね、難しい手術に亜梨明を挑ませること、とても不安だった。それしかもう、亜梨明が生きる術はないとわかっていても……。でも、日下くんのお父さん達に色んな話を聞けて、元気に生きてる君の様子に、亜梨明も無事に乗り越えてくれるって、勇気付けられたんだよ」
「…………」
自分が家族に支えられながら共に試練を乗り越えたことが、亜梨明や相楽家の人達のエールになっていた。
爽太は、それを教えてくれた真琴に「ありがとうございます」と告げると、ふわりと部屋の内装を見渡し、「……この施設、僕の家族も利用してました」と言った。
「母は僕が東京の病院に入院していた時、ここに滞在して毎日僕の所に来てくれました。小さな妹は父と祖母に任せて、何か月も――僕のためだけに……」
「…………」
「連休になると、父は妹を連れてここに家族三人で泊まって、僕に会ってくれました。――でも、小児病棟に妹は連れていけないから、両親はここで撮った妹の写真を見せてくれて、その写真で見た椅子やソファーの色で、同じ場所だってさっき気付いたんです」
爽太はテーブルの上で組んだ手に軽く力を込めると、以前父が話してくれたことを思い返した。
「僕は、ここに来たことは無かったけど……元気になった後、父が僕に言ってました。僕の手術前日……母はここで、万が一の不安を泣きながら語っていたって。その前も……容態が悪い状態が続いて心配で眠れない夜は、ここで家にいる父に電話して、窓から僕がいる病院を眺めていたんだって……」
真琴は口を閉ざしたまま、真剣な眼差しで爽太の顔を見つめている。
「あの頃の僕は、自分だけが苦しい思いをしてるって思っていました。でも、全てが終わって話を聞いた時……病気と闘っていたのは自分だけじゃない。家族みんなで闘ってくれていたんだってわかって、うちの家族すごいな!強いな!って誇らしく思いました。そんな家族の想いが、まだここに残っているような気がして……!」
爽太は語っている途中で、今が深夜であることを思い出すと、「すみません!こんな遅い時間に長く話して……」と真琴に謝り、「もう少ししたら、部屋に戻りますから」と言って、話を切り上げようとした――が、真琴は小さく首を横に振ると、ふっと柔らかく口元に弧を描く。
「君も……君の家族も、亜梨明やおじさん達と同じ気持ちで、ずっと頑張ってきたんだね」
「……はい。だから、亜梨明の手術が成功した時……安心と同時に、自分のことみたいにすごく嬉しかったんです!」
爽太が笑顔でそう言うと、真琴はスッと手を伸ばし、目の前の少年の頭を優しく撫でた。
「…………?」
「亜梨明が好きになった子が、君でよかった……」
「えっ?」
「日下くんは、亜梨明が経験した苦しみも寂しさも痛みも……喜びも全部、俺達家族以上に理解できる。……こんなことを言うのは気が早いけど、俺はいつか、亜梨明を日下くんのお嫁さんにして欲しいって思ってるよ」
「…………!」
真琴の思わぬ発言に、爽太は目を丸くしてびっくりしてしまう。
「あれ?嫌だった……?でも、確か亜梨明の出発前に言ってたよね?「おじいちゃんとおばあちゃんになっても」とか「ずっと亜梨明の隣に」とか?もしかして……冗談だった?」
「ち、ちがいますっ!あ、違うっていうのは!冗談じゃなくてっ、そのっ……!」
爽太は口をはくはくとさせながら、真っ赤になった顔で必死に何か言葉を探そうとしているが、真琴は「ははっ」と声を上げて、「ごめんごめん、意地悪しちゃった!」と爽太の肩を軽く叩いた。
「すみませんっ……。今思えば、僕っ……とんでもないこと言ってましたよね。おじさんからすれば……大事な娘を僕なんかがって……!」
「いや、嬉しかったよ……俺も、あの子の母親もね。本当だったら、あそこで「娘はやらん!」って言う父親の方が多いんだろうけど、亜梨明は君が大好きだ。俺も、日下くんなら亜梨明をとても幸せにしてくれると思うから……」
眼鏡の奥にある真琴の眼差しは、爽太に絶大な信頼を寄せているとわかる。
だが、爽太はそれを嬉しく思いつつも、胸の奥に残る罪の意識に「でも……」と、自信なさげに俯いた。
「僕は、亜梨明をすごく傷付けたことがあります……。この先だって、彼女を傷付けたり泣かせてしまうことが、全く無いとは言い切れません……」
爽太が肩を落として不安を吐露すると、「それはきっと、お互いにあるだろう」と、真琴は言った。
「あの子だって世間知らずで、一度決めたらなかなか意志を曲げない頑固者な部分もあって、君を困らせたりすると思う。それでも、誰よりも大切に想ってくれたら、それで充分だよ」
爽太がゆっくりと顔を上げると、真琴はさっきと変わらぬ目で爽太を見つめ続けている。
そんな彼の表情に、爽太の心の器は一気に自信が満ち溢れていった。
「……はい、亜梨明を好きな気持ちは、誰にも負けるつもりはありません。亜梨明を幸せにしたい気持ちも負けません!」
爽太が力強く宣言すると、真琴はとても満足した様子で頷き、熱くなる目を閉じて深く息を吐いた。
「
真琴はそう言って、もう一度爽太の頭の上に手を置き、滲む涙を悟られぬように目を伏せた。
そんな様子を、母娘揃ってなかなか眠れず、ダイニングで温かい物でも飲もうかと思っていた奏音と明日香が、壁の角に隠れながらこっそり見守っていた。
*
二人に気付かれぬうちに、自分達の部屋に戻った奏音と明日香。
眠気はまだ訪れなかったが、今の爽太達に鉢合わせるのも気まずいので、飲み物は諦めて再びベッドに潜る。
「前から薄々思ってたけど、お父さんと日下ってなんか似てる……」
奏音が掛布団を引っ張りながら言った。
「そう?」
「雰囲気とか、恥ずかしいセリフを恥ずかしいって思わないで言っちゃうとこ!」
奏音がちょっと嫌そうな顔で言うと、明日香は「うふふふっ」と笑った。
「そうねぇ~……。でも、他の人が聞いたら恥ずかしく思うセリフが、その人のことが大好きになると、どんなものより元気になれる『魔法の言葉』のように思えちゃうのよ。はぁ……今でも忘れられないなぁ、若い時のお父さんが言ってくれた嬉しい言葉の中に――」
「あーもうっ!はやく寝ようっ!眠くなったっ!!」
奏音は惚気話を聞かされないよう、パチッと照明のスイッチを切り、母に背を向けて横になる。
「ふふっ、奏音も早く好きな人が見つかるといいわね〜」
「うるさい……」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます