第221話 彼女の父親
翌朝、十一日。
東京の病院では、亜梨明が理学療法士の間宮先生と共にリハビリに励んでいるところだった。
約一週間程お休みしていたリハビリ。
今行っているのは、一旦落ちたであろう体力を取り戻すため、階段を使って三階まで上って下りてくるという内容だっだが、病み上がりでもあるため、今日のメニューはこれのみ。
「はぁ〜……脚がパンパンになる〜……」
亜梨明は、息を整えながらふくらはぎを手で軽く揉むと、「でもまだまだ行けます!」と、顔を上げて間宮先生にやる気を見せた。
一休みすると、今度は一階まで下りる。
一階では、ちょうどリハビリの様子を見に来た明日香が待っており、亜梨明は「あっ、お母さーん!」と母に手を振って駆け寄った。
「聞いて聞いて!今三階まで上って来たんだよ」
多少息切れこそしているものの、まだまだ余裕といった表情で、報告する亜梨明。
そんな娘の元気な姿に、明日香が目を細めて微笑んでいると、「先生っ!今度は五階まで行きましょう!」と亜梨明がメニューの追加を求めた。
「今日はおしまいだよ」
「えぇ~っ!まだまだいけます!階段がダメならボール投げでも自転車でもウォーキング……ストレッチだけでも~!!」
そう言って、亜梨明が間宮先生に両手を合わせて頼むが、先生はオロオロとしながら「そう言われても……休むことも大事だから」と、亜梨明の目線に合わせて中腰になりながら言う。
「亜梨明、無茶言わないの。先生困ってるじゃない……」
明日香がやんわりと叱ると、亜梨明は両手を下ろし「だって……」と、小さな声で言った。
「この間休んじゃった分、早く取り戻さなきゃ……。これじゃあ、いつまで経っても夏城に帰れない……。爽ちゃんにも、みんなにも……会えないままなんだもん……」
亜梨明が肩を落として、リハビリを焦る理由を語ると、間宮先生は細い笑みを浮かべて「だからこそ、休養が必要なんだよ」と言って、亜梨明の目を見て説得した。
亜梨明は、これ以上ワガママを言っても無理だと悟ったようで、拗ねたような顔つきで「はぁい」と返事をすると、間宮先生に挨拶をし、母と共に病室へ戻った。
*
病棟のある階まで繋がるエレベーターに乗ると、未だむすっとしたままの亜梨明に、明日香は「ふぅ……」とため息をつく。
「まだ熱が下がったばかりなんだから、あまり無茶しちゃダメよ。焦り過ぎて帰れる日が遅くなる方が困るでしょう?」
「わかってる……。でも、じっとしてられない気分なんだもん……」
明日香や間宮が言うように、休むことや眠ることも今の自分に必要だというのは、亜梨明自身も重々理解していた。
だが、手術が終わっても未だ帰れぬ状況にストレスは募るばかり。
そろそろ家に戻って、鍵盤の足りないキーボードではなく、自宅のグランドピアノが弾きたい。
可愛いフィーネのふわふわの毛を撫でてやりたいし、父と妹と家族揃って食事もしたい。
友人達と文字だけのやり取りでなく、顔を見て一緒にその場の空気に溶け込んで笑い合いたい。
そして何より、爽太に会いたい。
大好きな人のそばで、同じ時間を過ごしたい。
自分の部屋に戻ってきた亜梨明は、枕元に置いていた懐中時計を手にして、爽太への思いを馳せる。
明日香は、不貞腐れながら寝転がる娘の姿にクスッと息を漏らすと、「そんなにがっかりしないで」と言って、椅子の上に置いていたペールブルーの紙袋を持ち上げた。
「じゃ~ん!ほら、見て亜梨明!」
「あっ……!」
明日香が紙袋から取り出したのは、とても可愛らしいふんわりとした肌触りの新しいパジャマだった。
「わ~っ!すっごく可愛い!!」
「でしょ?明後日お父さん達が来た時に着るといいわ!」
「ありがと~!」
お気に入りのブランドの、新しいパジャマをもらった途端、一気に上機嫌になる亜梨明。
「ねぇねぇ、お父さん達が来たら、新しくなったあっちの建物のレストランに連れてってくれるんだよね?」
「うん。それから、高城先生が昨日外出許可もくれたの。お盆に帰れなくなっちゃった代わりに、半日だけ気分転換にお出かけしておいでって!」
「ホント!?やった~っ!!もう、ずっと外に出れてなかったし、どこでもいいからお出かけしたいって思ってたんだぁ~!」
亜梨明が両手を上げて大喜びすると、明日香は「だから、無理して体調崩さないよう、先生の言うことはちゃんと聞いてね」と言い、亜梨明も「はーい!」と素直な返事をした。
「あと、明日リハビリが終わったら、下の床屋さんで髪の毛も少し切ってもらおっか。前髪もだいぶ伸びて目が隠れちゃってきたし、後ろ髪も軽く揃えてもらって、可愛くしてもらわなきゃ。せっかくの……」
――と、言いかけたところで、明日香は口を閉ざし、触れていた亜梨明の髪からそっと手を離す。
「………?」
亜梨明が不思議そうに凝視すると、明日香はニコッと取り繕うような笑顔を見せる。
「お母さん、どうしたの?」
「ん?」
「なんかたくさん喋るし、プレゼントもくれて色々してくれるし、ニコニコしてる」
「ふふっ……亜梨明が最近ずっと頑張ってたから、ご褒美よ」
「……そっか!」
亜梨明は、恐らく母親が何かを企んでいると察知したが、とりあえず今は何も聞かないことにした。
きっとすごく素敵な企画を立ててくれている。
ただ、そのことを楽しみに思うことにして、ワクワクと胸を躍らせるのだった。
*
十二日の午後六時。
昼過ぎまで仕事に追われていた真琴が、奏音と共に車で爽太の家の前まで迎えに来てくれた。
「こんばんは」
車から降りた真琴は、爽太とその後ろに並んでいた彼の両親に丁寧に頭を下げて挨拶をする。
「せっかくのお盆休みに、息子さんをお借りしてすみません……。おまけに、猫も預かっていただけるなんて……本当に助かります」
日下夫婦は、息子の爽太を東京に連れて行ってもらう代わりに、相楽家の猫、フィーネを預かると名乗り出た。
爽太は、奏音に指示されてトランクに荷物を詰め終えると、フィーネを入れたカゴを母に手渡す真琴をじっと見つめる。
短く纏めるように切りそろえられた髪を中分けにして、眼鏡をかけている彼は、声も話し方もとても柔らかく、『紳士』という言葉が似合う雰囲気だ。
爽太は真琴と以前から何度も会ったことがあるし、話すのも今日が初めてというわけではないが、友人の奏音がいるとはいえ、“彼女の父親”という関係にある真琴と数日過ごす状況に、少し恐縮してしまう。
「――では、三日後に。必ず無事に爽太くんをおうちにお届けしますので」
日下夫婦と話を終えた真琴は、くるっと爽太に振り向くと、にっこりと緩やかに微笑みながら「じゃあ、そろそろ行こうか」と、言った。
「はい、お世話になります。じゃ、行ってくるね!」
真琴に挨拶をしながら後部座席のドアを開けた爽太は、両親に軽く手を振って車に乗り込む。
晴太郎は「楽しんでおいで」と。
唯は、「おじさんの言うことちゃんと聞くのよ」と言って、快く息子を送り出した。
ブゥン……と、エンジンが掛かる音がすると、車はゆっくりと発進し、爽太の家と両親の姿が遠く小さくなっていく。
もうすぐ亜梨明に会える期待と、彼女の家族の中で過ごす三日間に、緊張で鼓動が速まっていくのを感じる爽太。
この時、彼はまだ知らなかった。
これから向かう東京の病院で、衝撃の真実が待ち受けていることを――。
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