第17章 時を超えて

第220話 東京へ


 八月十日。

 部活動を終えた爽太が、風麻と共にツクツクボウシの鳴き声が響く住宅街を歩いていると、ズボンのポケットの中にあるスマホから短い振動が伝わる。


「――おっ、『亜梨明日記』だ!」

 爽太の隣で、自分のスマホからピコンと鳴った音に気付いた風麻は、彼より少し早く通知の内容を確認しており、爽太も画面をタップして日記の文面を読み始めた。


 ◇◇◇


 こんにちは。

 先週から熱が続いていた亜梨明ですが、今朝ようやく平熱に下がりきりました。


 初日は三十九度の高熱で、私も医療スタッフの方々もハラハラしながら経過を観察しておりましたが、一昨日から微熱はあれども食欲は戻り、先程も昼食を終えると「アイスが食べたい」と、院内のコンビニに連れてけモードになっていました(笑)


 高城先生と相談した結果、七月末にお知らせしていた夏城への早期転院の話は取り止めることに致しました。


 もう少しここでゆっくり検査とリハビリを続けた後、当初の予定通り八月下旬に戻る予定です。


 亜梨明にはまだこの話をしていないのですが、早く帰れると聞いてからリハビリを張り切り過ぎていた部分もあったと思うので、体が休みたいと訴えていたのでしょうね。


 感染症にもかかりやすいため、これからも引き続き注意しながら見守りたいと思います。


 ◇◇◇


「おっ、相楽姉熱下がったんだな!」

「うん」

 日記を読み終えた二人は、亜梨明の回復に安堵し、ホッと表情を和らげる。


「でも、残念だな……。仕方ないとはいえ、この間はお盆に帰れそうって聞いてたし、楽しみにしてたけど……」

「…………」

 風麻の言う通り、七月最後の日記では、亜梨明の調子も検査結果もずっと良好だったため、高城先生は早めに彼女を夏城総合病院に戻そうと考えていたようだが、その直後に亜梨明は高熱を発症し、緊迫した状況となった。


「だいじょぶか?」

「え……?」

「相楽姉と会えるの、遠のいちまっただろ?」

 風麻が爽太の心情を労わるように見つめる。


「確かに残念だけど……。でも、亜梨明が元気に戻って来てくれる方がいいよ。いざとなればビデオ通話もできるし、距離があっても顔見て話はできるでしょ?」

 爽太がスマホに視線を落としながら平気な素振りを見せても、風麻はまだ彼を気遣うような面持ちをしていた。


「……それより、風麻は最近松山さんとどうなの?」

「えっ、なんだよいきなりっ!?」

 突然緑依風の話を持ち出され、あたふたとし始める風麻。


「だって、この間から部活中も帰りも「緑依風が」「緑依風の」って、松山さんの話が急に増えたし、松山さんのこと喋る風麻の顔、すっごくニヤニヤしてるから!」

「~~っ、んなことねぇし!!」

 紅潮した風麻が爽太の肩をパンっと軽く叩くと、彼は「あっはは!」と無邪気な笑い声を上げて、「いい話が聞けるの待ってるね!」と言った。


 *


 風麻と別れた後、夏の強い日差しを受け、賑わうセミの声を聴きながら、一人家路を歩き続ける爽太。


 自宅に到着した爽太が「ただいま~」と、ドアを開けながら言うと、「おっかえり~!」と妹のひなたが元気よく出迎えた。


「おかえり爽太」

 リビングに入ると、父の晴太郎と甲子園野球のテレビ中継を見ていた母親の唯が、立ち上がってエプロンをつけ始める。


「ただいま」

「外暑かったでしょ。爽太の分のご飯今から準備するし、先にシャワー浴びておいで」

「うん」

 爽太が頷くと、野球観戦に夢中になっていた晴太郎は、ホームランを打った選手の活躍に「お~っ!!」と歓声を上げて拍手を送っている。


「……あ、そうだ。亜梨明の熱下がったって」

 先日、爽太から亜梨明が発熱した話を聞いて心配していた唯は、「そう、よかったわ~」と胸を撫で下ろし、晴太郎も聞こえていたのか「よかった~」と振り向きながら会話に混ざった。


「ただ、転院も延期になっちゃったみたい……」

「そう……」

「……じゃ、汗流してくるね」

 爽太はくるっと母に背を向け、洗い物の詰まったスポーツバッグを抱え直し、浴室へと向かう。


 語尾にやや力無さを感じた唯は、同じく息子の背が寂しそうに見えた夫と目を合わせ、困り顔で微笑む。


「爽太もすっかり恋する男の子ね~。頭ではしょうがないってわかっていても、亜梨明ちゃんに会える日が延びたこと、相当落ち込んでるみたい」

「うーん……。爽太が望むなら東京に連れて行ってあげたいけど、こればかりは相楽さんちの事情もあるからなぁ~……」

 晴太郎はもどかしそうに腕を組みながら唸り、唯も残念そうに眉尻を下げたまま、台所へと立った。


 *


 シャワーを浴び、昼食も終えた爽太は、自分の部屋に戻ってエアコンのスイッチを入れると、スマホを手にしてベッドに座る。


 そして、深いため息をつきながらスマホを操作し、もう一度『亜梨明日記』を読み直した。


「風麻に悪いことしたなぁ……」

 がっかりしたことを悟られたくなくて、物わかりの良いフリを装い、これ以上触れられないよう緑依風の話題にすり替え、保身に走った自分を卑怯と思う。


 だが、そうでもしないとますます気持ちが沈んでしまいそうで、他の方法で乗り切る余裕なんて無かったのだ。


 両想いになってすぐの遠距離恋愛――。


 亜梨明が東京に発って二か月が過ぎたが、会えない日々が続いても、亜梨明への『好き』という気持ちは全く薄れないどころか、日に日に強く、色濃くなるばかり。


 メッセージのやり取りは、可能な限りほぼ毎日。

 電話も時々しているし、連絡は割と密に行っているつもりだった。


「(それでも……)」

 爽太はスマホの画像フォルダを開き、亜梨明が旅立つ日に撮影した集合写真のサムネイルをタップする。


 手術前で健康的な姿ではなかったが、それでも自分の隣でピースサインをしながら写る亜梨明の笑顔は、陽だまりのように明るくも温かで、愛おしくてたまらない。


「爽ちゃん!」と、亜梨明の自分を呼ぶ声が脳内に鮮明に再現されると、抑えきれない気持ちが声になる。


「――亜梨明……会いたい……っ」


 会って、君に触れたい。

 君のすぐそばで、声を聴いて話がしたい。

 抱き締めたい、抱き締められたい。

 叶うことなら、今すぐに。


 東京への旅費は両親に頼めなくても、これまで貯めてきたお小遣いやお年玉の貯金を崩せばなんとかなる。


 しかし、友人達とは、大勢で東京の病院に見舞いに行くよりも、彼女が夏城に戻って来てから日を分けて会いに行こうと決めていたのに、勝手に一人抜け駆けして行くなんて、さすがにずるいにも程があるし、そもそも相楽家の人達から許可をもらわなければ。


「(そんなワガママ、できるわけないのに……)」

 一旦溢れ出た想いを再び押し殺し、静かに項垂れる爽太。


 何度も何度も這い出ようとする気持ちを、懸命にしまい込もうとしている時だった。


 突然、爽太が手に持っているスマートフォンから、電話の通知を報せる呼び出し音が大きく鳴り響く。


 帰宅後にマナーモードを解除していたことを忘れていた爽太が、やや驚きながら画面を見ると、表示されていた相手の名は亜梨明――ではなく、片割れの奏音だった。


「はい……」

 爽太がひと呼吸置いて電話に出ると、「あ、日下?今、電話して平気?」と、姉の亜梨明よりちょっぴり低めの声が聞こえた。


「うん、大丈夫だよ。どうしたの?」

「あのね……十二日から十五日の間って、何か予定入ってる?」

 爽太はカレンダーを確認しながら、「何もないけど……」と答える。


「ホント?よかった!……実はね、お盆に私とお父さん東京に泊りがけで亜梨明に会いに行くんだけど、日下にも一緒に来て欲しいの!」

「――えっ!?」

 願っても無い奏音の申し出に、爽太は声を張り上げて「いいのっ!?」と聞き返す。


「うん、もちろん!……っていうか、急なお願いで断られると思ってたし、むしろこっちが助かるというか……」

「どういうこと?」

「……亜梨明、夏城に帰るのが延びちゃったこと聞いて、すごくしょんぼりしちゃったらしいの。多分その一番の理由って、やっぱり日下に会えないことだろうなって、お母さんと話してて……。リハビリだって、ここ最近より一層頑張ってたのは、日下に早く会うためだったと思うし、でもそれでダウンしちゃって……。無理し過ぎて後戻りするなら、いっそお見舞いに来てもらおうかってね!」

 奏音の誘いの理由を聞いて頷く爽太だが、「でも、高城先生にああ言われたのに、みんなで行って平気なの?」と、確認を取る。


「――あ、緑依風達は誘ってないよ。日下だけ」

「えっ、僕だけ!?」

 まさか自分だけ声を掛けられていたとは思わず、爽太は再び驚きの声を上げる。


「だから、このことは他の人達には言わないで欲しいの。日下だけ特別扱いっていうのは、やっぱりみんなに叱られちゃいそうだし……」

「わかった」

 爽太が内緒にすることを承諾すると、奏音は「ありがとう」と、お礼を言った。


「十二日の夕方に出発して、亜梨明との面会は十三日に予定してるの。病院近くにある宿泊施設に泊まるけど、宿のお金とかはうちが持つから、日下は着替えと歯ブラシセットとか、そういうのだけ持って来てくれる?」

「さすがにそこまでお世話になれないよ!」

 爽太が申し訳なさそうに言うと「そのくらいさせて」と奏音は言った。


「それから、亜梨明にはサプライズで喜ばせたいから、亜梨明にも日下が一緒に来ることは絶対秘密にしてね!」

「うん!とりあえず、うちの親にも行っていいか聞いてから、改めて相楽さんに連絡するね!」

「ははっ、オッケー!多分、お母さんからも日下の親に連絡してお願いすると思う!じゃ、またね~!」

 奏音との通話を終えた爽太は、「ふぅ……」とため息をつく。


 そして、グッと両手で拳を作ると、声にならない喜びを喉元から「~~っ!!」と響かせて、もう一度集合写真を見る。


「亜梨明に会える……やっと!やっと……っ!!」

 立ち上がり、部屋の鏡に映った顔を見ると、他人よりも白い肌が高揚に赤く染まり、瞳もいつもよりギラギラと光を纏っているように思えた。


 そんな自分の姿に、クスッと小さく笑った爽太が、ドアを開けて両親の元へ報告に向かおうとすると、明日香からのお願いメッセージを読み終えた唯が、「爽太~っ!」と、嬉しそうに興奮した様子で息子の名を呼んでいた。


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