第218話 恋人のフリ(前編)
風麻に立たせてもらい、先程のベンチまで戻った緑依風。
座ってひと呼吸置くと、風麻がトイレに行ってからの出来事を説明した。
「お前っ……それ、危ないやつだってばよ……!」
話を聞いた風麻は、緑依風と同じくらい青ざめた顔になる。
「そ……そうだよね……」
緑依風は未だ震える体を落ち着かせるように、自身の両腕を抱いた。
「だから前に言っただろ……変な輩もいるから気をつけろって」
「だって、杖ついてたし……本当に困ってそうだったし、そんな風には見えなかったんだもん……」
ニコニコとして、優しそうなおじさんだと思った。
脚を引きずるような歩き方、小刻みに痙攣する手。
困っているなら助けてあげなきゃと、親切心から出た行動で、まさか危険な目に合いそうになるとは、夢にも思わなかった。
「(……でも、油断してた)」
夏休み前、梅原先生が教卓の前で説明した不審者情報を、緑依風は注意せねばと思いつつも、どこか他人事だった。
冬丘や秋山に遅くに出歩くことはまず無いし、夏城町内を夕方出歩くとしても、背後に怪しい人影が無いか時折振り返って、自分なりに警戒していた。
それに、頭のどこかに『自分は絶対大丈夫』という過信する気持ちもあった。
その考えが間違いで、『必ず大丈夫という保証は無い』と、緑依風は今になって身を持って知ることになった。
緑依風は騙されたショックと、見知らぬ男に性的な目で見られていたことへの気持ち悪さがまだ抜けきらず、膝の上に置いた手をキュッと握って、涙目になる。
「……大丈夫か?」
「うん、まだちょっと怖いけど……自業自得だし」
「言っとくけど、お前は困った人を何とかしてあげたいって思っただけで、全く悪くないからな?」
「……うん、ありがと」
風麻の励ましは嬉しいが、すぐに気持ちを切り替えることもできず、緑依風は顔を上げられない。
それでも、いつまでもここで座りっぱなしになるのも風麻に申し訳ないと思い、「そろそろ行こっか」と立ち上がった。
「もういいのか?」
「うん。早く回って、暗くなる前に帰る方がいいよね」
緑依風が頑張って笑顔を作って風麻に言うと、彼は少し何かを考えるような顔つきになった後、そっと右手を差し出す。
「……?」
「緑依風……手、繋ぐか?」
「えっ……?な、なんでっ!?」
突然の申し出に驚き、狼狽える緑依風。
「……そのっ、そうやって付き合ってるように見えたら、さっきみたいなヤツが寄ってこないし……守ってやれるかなぁ~って……」
「…………」
きっとこれは、風麻なりの精一杯のアイデアで優しさ。
でも、緑依風はその善意を素直に喜び、受け取ることはできなかった。
「――ごめん、いいや」
「へっ?」
「……それは、私のこと……本当に好きになってくれた日までとっておきたい」
風麻にまだその気があるわけでないのに、中途半端な関係で“恋人のフリ”なんてすれば、それこそ願いが叶わなくなってしまいそうで、緑依風は彼の手に己の手を重ねることはできない。したくなかった。
「そっか……ごめん。変なこと言ったな……」
「ううん、私こそ。でも、風麻の気持ちはすごく嬉しいから……これは、私の問題なの」
「…………」
気まずそうに、差し出した手を引っ込め、軽く握った拳を見つめる風麻。
「その代わり、なんだけど……」
目線を上げた風麻に、緑依風は半歩近付いてグッと息を呑む。
「……そばにいて」
「え?」
「手は繋がなくても、私の近くにいてて……!」
今度は緑依風の顔がかあっと熱くなり、風麻がぱちくりと瞬きをして、彼女を見つめる。
「変なおじさんとか、怖いのから……声掛けられないようにっ……!」
緑依風は今、風麻がさっきどんな思いで“手を繋ごう”って言ってくれたのか、身に染みるように理解できた。
すごく、勇気を出してくれたんだ。
私のために。
それを断っておいて“そばにいて欲しい”とは、我ながらなんて自分勝手だと思っていると、風麻はニッと笑って「いいぜ!」と言った。
「これならお前も安心、俺も安心!どっちもいいことだよな!」
「うん……!」
「よしっ、じゃあなるべくお互い離れないように歩こうぜ!」
「うん!」
そこからの二人は、なるべく距離を作らないように意識をして、ショッピングモールの中を歩き回った。
雑貨店、アパレルショップ。
途中、小腹が空いたのでフードコートに寄り、クレープを食べた。
つかず離れずの距離を保ちながら歩くのは意外と難しいもので、時折腕がぶつかったりすると、以前の風麻ならそんなことは全く気にしないどころか、異性の友人とは思えない程近付いたり、肩に触れたりしていたくせに、「あ、わりぃ……」と、照れるようにそっぽを向き、緑依風も恥ずかしくなってしまう。
彼の自分に対する特別な思いのパーセンテージは、今どのくらいなのだろう?
直近で聞いたものだと、三十六パーセントだと言っていた。
まだまだ半分にも到達していないが、それでも緑依風は嬉しかった。
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