第215話 力(前編)


 昼食を素麺と青菜のおにぎりで済ませた緑依風は、自分の部屋で夏休みの宿題を進めつつ、末っ子達のことを考えていた。


 優菜は食事中も元気が無く、しょんぼりとしながら、小さなお口でおにぎりをもくもくと食べ、素麺をすすった。


 食器洗いをしている最中、葉子は優菜と冬麻の間に起こったことについて、もう少し詳しく説明してくれた。


「優菜は冬麻くんを泣かせた子を追い払って、喜んでもらいたかったのよ。でも、冬麻くんは優菜に助けられたのがすごくショックだったみたいで……「よけいなことしないで!」って言われちゃったの」


 きっと、優菜は冬麻に「ありがとう」と言って欲しかったのだろう。

 それが、喜んでもらうどころか“余計なこと”と言われてしまい、落ち込んでいるのだ。


 好きな女の子に助けられ、恥ずかしいと思う冬麻の気持ちも、好きな男の子にそんな風に言われて傷付く優菜の気持ちも、緑依風はどちらも理解できる。


「うーん……でも、どうしたもんかなぁ~……」

 緑依風が背伸びをしながら独り言を呟くと、コンコン――と、部屋のドアをノックする音が聞こえた。


「お姉ちゃん、はいってもいい?」

 声の主は優菜で、緑依風が「いいよ」と返事をすると、彼女は難しい顔をしながら扉を開き、緑依風のベッドに座る。


「お姉ちゃん……冬麻くん、なんでおこったんだろう?」

「多分怒ってないよ……。でも、今は冬麻が元気になるまで、そっとしておいてあげてね」

 この場合はきっと、優菜が「余計なことしてごめんね」なんて謝れば、ますます冬麻の自尊心に傷が付く。


 それを予感した緑依風は、冬麻の心が落ち着くまで“何もしない”ことが、一番いいと判断した。


 ――と、思っていたところで、ピンポーンとインターホンの音が聞こえる。


「優菜ちゃーん!!あーそーぼー!!」

 一階から冬麻の元気な声が響くと、優菜の表情が一気に明るくなる。


「冬麻くんだ!!」

「遊んでおいで!」

「うん、いってくる!!」

 優菜は勢いよく緑依風の部屋のドアを開けると、「いまいくー!」と、階段を駆け下りていった。


「意外と早く立ち直ったな」

 ちょっぴり拍子抜けしつつも、元気を取り戻した冬麻の様子にすっかり安心した緑依風は、再びペンを手に取り、宿題に集中した。


 *


 一時間後。

 数学の問題集を終わらせたところで、緑依風が休憩しようと立ち上がった時だった。


「もういいっ、かえるっ!!」

 ――と、冬麻の怒った声が一階から二階の緑依風の部屋まで届く。


 緑依風が心配して部屋を出ると、玄関で優菜が「なんで!?どうして!?」と困惑しながら、靴を履く冬麻の背に叫んでいた。


「だって、優菜ちゃんばっかりかつんだもん!!」

「じゃあ、こんどからわたしまけてあげるから!だからかえらないで!!」

 優菜は靴を履き終えた冬麻の腕にしがみ付き、必死に引きとめるが、冬麻は優菜の手を振り払うと、キッと彼女を睨んでドアノブを握る。


「そんなの、うれしくないもんっ――!!」

 冬麻は泣きながら悔しそうに腹の底から声を上げ、荒々しくドアを開けて帰ってしまった。


 どうして冬麻が怒って帰ってしまったのかわからない優菜は、玄関前に座り込んでわんわん泣いている。


「あ〜、大丈夫だよ優菜……」

 緑依風は優菜を抱き上げて、そっと声を掛ける。


「きっ、きらわれちゃったかもっ……!」

「そんなことないって。また明日になったら、冬麻も機嫌直るよ」

「お姉ちゃん……っ、どうして冬麻くんあんなにかちたがるの?」

「ん~……優菜の前でかっこよくいたいんだよ。優菜のことが大好きだからね」

 緑依風は優菜の頭を優しく撫でながら、冬麻が帰った坂下家のある方向を見つめる。


 どうやら緑依風の思った以上に、彼の心の傷は根深そうだった。


 *


 冬麻が心配になった緑依風は、再び坂下家を訪れる。


「おー……今、俺のベッドに潜って拗ねてるんだ」

 緑依風が風麻の部屋に案内され、ベッドを見ると、ヤドカリのようにタオルケットに埋まって、泣きべその顔だけを出してる冬麻がいた。


「なんか、優菜に勝負を挑んで何もかも負けたらしいな……」

「何して遊んでたんだろう……」

「お兄ちゃんのうそつき……」

 冬麻は上目遣いで風麻を見た。


「あんた……何言ったの?」

「男のほうがちからがつよいから、うでずもうならかてるって、いった……」

「まさか、優菜の方が力が強いとは思わなかったんだよ……」

「あのねぇ~……優菜の方が体大きいんだよ?力だって強いに決まってるじゃない」

 緑依風の言う通り、優菜は幼稚園の園児の中でも一番背が高く、平均よりやや低めの冬麻とは十センチ以上身長差がある。


「へいへい、俺の考えが甘かったでーす……。――そういや、お前も腕相撲強かったよなぁ~。……幼稚園の腕相撲大会で優勝してたし」

 その話を聞いた途端、緑依風はギクッと肩を震わせ、あまり思い出したくない遠い日の出来事に、表情を歪ませた。


 年長組の頃。

 夏休み前の腕相撲大会、女の子のトーナメントで優勝した緑依風に、風麻が自分も緑依風と勝負したいと言い出し、帰宅してすぐ二人は腕相撲で力比べをしたのだが、結果は緑依風の圧勝。


「ふうまくんにかった~!!」と、緑依風が大喜びしてぴょんぴょん飛び跳ねていると、風麻は負けた悔しさに泣き出してしまい、それが緑依風が唯一彼を泣かせた、苦いエピソードである。


「あの後、俺お前にぜってぇ勝つつもりだったけど――」

「ほっ、他には!?優菜と何して遊んだの?」

 風麻が当時のことを言いきる前に、緑依風は彼の声を遮るように冬麻に尋ねる。


「しんけいすいじゃくと、ゲーム……」

「頭脳戦もダメか……」

「優菜、トランプの神経衰弱得意なんだよね……」

 力勝負だけでなく、記憶力や指先と知能を使ったアクションゲームでさえ全敗したという冬麻の気持ちを思うと、緑依風も風麻も目を覆わずにはいられない気分になった。


「……ぼくは、優菜ちゃんよりかっこわるい……」

 冬麻は頭も布団の中に入れると、グズッと鼻を鳴らしながら言った。


「しんちょうも優菜ちゃんよりちいさいし、ちからもないし、よわむしだし……」

 タオルケットの中から、涙声で惨めな気持ちを語る冬麻。


 緑依風と風麻は、傷心しきった冬麻を心配そうに見つめ、今日はそっとしておこうと目線だけで話し合い、静かに部屋を出た。


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