第213話 猫と妹(後編)
二階の自室でバイオリンの練習をし、バレー部の友人とくだらなくも楽しいメッセージのやり取りをしていると、時刻は午後七時を過ぎていた。
「……あ、そろそろフィーネにご飯あげなきゃ」
リビングに下りると、フィーネの体内時計も夕食の時間だと覚えていたようで、空っぽのお皿の前でちょこんと座って、晩御飯を待ち構えていた。
「はいはい、あげますよ……」
ドライフードの入ったビンの蓋を開けると、フィーネはおやつの時と同じくニャーニャーと鳴き、お皿の中がご飯で満たされるとすぐさま顔を突っ込み、カリカリと音を立てて食べ始めた。
お水も綺麗なものに取り換え、自分自身もそろそろお腹が空いてきたなと思っていると、ピンポーン――とインターホンが鳴り、奏音はモニター画面を見る。
「おっ、緑依風だ!グッドタイミーング!」
奏音が玄関のドアを開けると、紙袋を持った緑依風と――。
「あれ、なんで坂下まで?」
すぐ後ろにいる風麻が、「よっす!」と短く手を挙げて奏音に挨拶した。
「散歩に行くから奏音ち行く時連絡しろって、風麻に言われてね」
緑依風はそう言うが、彼女の後ろに立つ風麻が、ちょっぴりぎこちない顔でそーっと視線をずらすので、奏音はすぐそれが嘘だと悟り、「あはっ」と吐息に笑い声を混ぜる。
「坂下、心配だったんでしょ?遅い時間に緑依風をここまで来させて、悪かったね」
「ちっ……!」
「えっ?」
緑依風は本気で気付いていなかったようで、驚いた様子で風麻を見上げる。
「違うからな!昼に店で焼き菓子食いすぎて、運動するのに距離がちょうどよさそうだと思ったから、ついでに行こうと思っただけで……!!」
「あっはははっ!まぁいいや、そういうことで!緑依風、坂下、ありがとね!」
奏音は緑依風から夕食の入った紙袋を受け取ると、照れる二人をいたずらっ子のような笑みを浮かべて見つめていた。
「ニャー!」
「……あっと、猫が外に出たらマズイ!」
玄関前までフィーネが来ていたことに気付いた奏音は、開きっぱなしのドアを慌てて閉める。
「はぁ、早めに帰ったおかげで家の中は散らかされずに済んだけど、気分屋な猫と一対一がなかなかにしんどい……」
「そうなの?」
緑依風が聞くと、「私相手だと態度がコロコロ変わるんだよ~」と、奏音は答えた。
「甘えて来たかと思いきや、突然クールになって……そもそも、フィーネは亜梨明が大好きなんだもん。私にはツンデレどころかツンツンデレで、全然なびいてくれないんだから」
奏音が不満を露にすると、「でも、相楽って動物に例えたら絶対猫だよな!」と風麻が言った。
「はぁ?どこがさ……」
「相楽姉と比べるとクールだったり、笑ってるかと思ったら冷めた顔になったり、態度コロコロ変わるじゃんか」
「え~っ、そんなつもりなかったからなんか心外……」
確かに亜梨明に比べれば落ち着いた方だと自負していたが、まさか猫っぽいと思われていたとはと、奏音はちょっぴりショックを受ける。
「ふふっ、でもゴメン。私も風麻と同意見だ」
「緑依風まで~?」
奏音が眉間にシワを寄せながら嫌がると、「特に、今聞いた話だとフィーネとそっくり」と、緑依風は奏音の目を見て言った。
「奏音もフィーネも、亜梨明ちゃんが大好きでしょ?」
「――――!」
咄嗟に返す言葉が見つからず、奏音がまごついていると、緑依風はクスクスと声を漏らし、「ほらね?」と笑った。
「くぅ~……言い返せないのが悔しい!」
奏音が頭を抱えて悔しがると、風麻はニッカリと歯を見せ「相楽は猫決定だな」と緑依風に言い、「……で、爽太は結局どっちだ?」と去年の議論を掘り返した。
「今更その話する……?犬でしょ」
「いやだから、猫だって!」
「犬以外無いって!」
「それは、お前が爽太の表面しか知らない証拠だ!」
「はーいはい、人んちの前でケンカしないの」
奏音は、徐々にトーク熱が上がってきた二人の間に入り込んで諫めると、「ご飯食べるから、緑依風達も帰りな。仲良くね」と言って、ドアノブに手を掛ける。
「うん、じゃあまた学校でね!」
「じゃあな~!」
緑依風と風麻はそれぞれ奏音に手を振り、元来た道を歩いて行く。
二人の背中をしばらく見送っていた奏音は、「去年は姉弟みたいだったのにね~」と独り言を呟き、家の中へと入った。
*
緑依風が渡してくれた紙袋の中には、四つのタッパーが入っていた。
一つはひき肉とトマトのスパニッシュオムレツ。
二つ目はジャガイモとタマネギ、ウィンナーのジャーマンポテト。
小さめのタッパーにはミルクスープで、漏れてきても大丈夫なようにビニール袋で保護してある。
そこにおにぎり二つと、コールスローサラダまで。
「うわ~、おかずたくさん嬉しい~っ!」
奏音は早速おにぎりとサラダ以外をレンジで温め、大満足の顔で緑依風の料理を食べた。
食事を終えて、洗ったタッパーの水気を取ると、母の明日香から電話が掛かってきた。
戸締りはきちんと、何かあれば何時になってもいいから連絡しなさいと明日香は言い、途中替わった真琴も、年頃の娘を一人家に残してきたことを気にしているようだが、奏音は「プチ一人暮らしを満喫しているから、全然気にしないで」と言って、父を安心させた。
*
シャワーも浴びて、歯を磨き、あとは寝るだけになった奏音。
スマホをいじっているうちに、いつの間にか眠ってしまった彼女は、つけっぱなしの照明の眩しさに目を覚まし、トイレに行ってからもう一度寝直そうと、部屋のドアを開ける。
すると、隣の亜梨明の部屋のドアの前で、フィーネが今晩も悲しそうに伏せており、奏音は短く息を吐いて、彼女の後ろを通ってトイレへと向かう。
用を済ませてトイレを出ると、伏せた状態から座り直したフィーネは、奏音の顔を見るなり亜梨明の部屋のドアに両前足を付き、「ニャー!」と鳴いた。
「だから、いないんだってば。亜梨明はまだ帰ってこれないの」
まるで人間に話しかけるように奏音はフィーネに説明するが、当然フィーネに複雑な人間の言葉が通じるはずも無く、大きな口を開けてただ鳴くばかりだ。
「ニャー!」
「…………」
「ニャー!ニャーッ!!」
奏音に「開けて、開けてちょうだい!お姉ちゃんの部屋に入れてちょうだい!」と訴えるフィーネ。
そんなフィーネの姿に、だんだん奏音も心が痛んで来て、「しょうがないなぁ」と肩を落とし、久しぶりに亜梨明の部屋のドアを開ける。
真っ暗で、誰もいない空間。
だが、ほんのりと亜梨明の空気を感じる。
奏音が、亜梨明のいた名残にキュっと胸の奥が詰まる思いでいると、フィーネはようやく開かれた部屋の中にタタッと入り込み、亜梨明のベッド上へと飛び乗った。
「あ、ちょっと……!すぐ出るんだから!」
枕横でぐるぐると周り始めたフィーネに言いながら、奏音は亜梨明のベッド前まで近付くが、フィーネはすでに眠る体制に入ってしまい、それを見るとすぐに部屋から追い出す気になんてなれなかった。
亜梨明のベッドに腰掛けると、この部屋でよく二人、姉妹揃って好きな紅茶を飲みながら、爽太の話、バレー部の話、共通の友達の話をしていたことを思い出し、なんだか急に寂しくなってしまう。
「……っ」
ジワリと涙が滲み出した奏音は、そのままぽすっと横になり、僅かでも寝具に残る亜梨明の香りに安心したようなフィーネの背を撫で、グズッと鼻を鳴らした。
「確かに、緑依風達の言う通りかも……」
奏音がそう語りかけると、フィーネはまるで返事代わりのようにゴロゴロと喉を響かせ、丸まっていた体を伸ばし、更にリラックスするような体勢になった。
今日はこのまま亜梨明の部屋で眠ってしまおう。
奏音は掛布団を捲ってその中に潜り込み、フィーネを軽く抱きしめるようにして目を閉じる。
フィーネも、いつもなら奏音が一緒に寝ようとすると起き上がってどこかへと去ってしまうのに、この日はすっかり落ち着いた表情で抱かれ、スヤスヤと朝まで共に眠り続けたのだった。
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