第212話 猫と妹(前編)


 午後四時。

 木の葉での勉強会はここまでとなり、五人が教科書や筆記具の片付けをしながら、楽しく雑談をしている時だった。


「あっ、そうだ奏音!」

 緑依風に呼ばれた奏音は、ペンケースをトートバックに入れながら「ん~?」と返事をする。


「今日一人なら、晩御飯うちに食べに来ない?ちょうどお母さんは閉店まで仕事だし、妹しかいないから遠慮しなくていいよ」

「ホント?助かる~!お昼も夜もコンビニか~って思ってたから、手作りご飯食べたい!」

 奏音はトートバックを肩に掛けると、「まぁ、今日に限らずコンビニ、スーパーのお惣菜ばっかなんだけどさ~」と言いながら苦笑いし、父と二人となった食事事情を語り始める。


 当初はなるべく交代で食事の準備をしようと、父の真琴と相談して決めたのだが、去年から会社の支店長を任されることになった真琴は多忙で、残業になる日も少なくない。


 結果、父が帰宅してご飯を作ってくれるのを待つと、食べられるのは夜十時近くになってしまうので、残業なら早めの連絡をもらい、部活や習い事の日はさすがに自炊をする気力も無いので、帰りに二人分の温めるだけで食べられるものを買って、先に奏音一人で食べるのだった。


「お母さんのありがたみを、今ひしひしと感じてるとこ……」

「俺も、春休みに母さんいないとき、ほんっとうに困りまくったな……」

 奏音の気持ちに共感するように、腕組みをした風麻はうんうんと頷く。


「緑依風は偉いよ~……」

「まぁ、私は料理好きだからね。ご飯準備は割と楽しくやってるよ」

「そう言えるスキルが欲しかった……」

 半月程自炊をする生活が続いても、全く料理好きになれない奏音は「は~っ」と深くため息をつき、緑依風との性格の違いを痛感するのだった。


 *


 木の葉を出て、まず星華と別れた四人。


 歩きながら緑依風は、「今日はスパニッシュオムレツと、ジャーマンポテトとミルクスープにするんだ~」と献立を伝え、奏音は「わ、ボリューム満点!楽しみっ!」とワクワクしている。


「ミルクスープって何?」

 風麻が聞くと、「シチューっぽいけどサラサラしたやつ」と緑依風が教え、爽太は「カフェごはんみたいでオシャレだね~」と、にっこり顔で言った。


「あ~っ、久しぶりに人の手作りご飯が食べれる~!」

 ――と、感激していた奏音だったが、彼女は突然ハッと何かを思い出すと、「ごめん、緑依風……」と気まずそうな表情になり、緑依風に謝る。


「やっぱり、家に帰って食べるよ」

「えっ?」

「猫が……フィーネが待ってるから」

 誘いを断る理由を聞き、三人はキョトンとしながら、奏音が更なる事情を話すのを待つ。


「実はね――……」


 奏音の口から説明されたのは、こんな内容だった。


 去年の秋、相楽家に引き取られることになった白猫のフィーネ。

 彼女は命の恩人の亜梨明にとてもよく懐き、大好きな亜梨明が学校から帰って来ると尻尾を立てて大喜びし、すり寄って行く程だ。


 亜梨明がリビングのソファーに座れば、すぐに彼女の膝に乗りたがり、また、本当は動物と一緒に寝室で眠るのは衛生的に良くないと、明日香にダメ出しを受けた亜梨明だったが、母が寝静まった頃にこっそり自分の部屋に連れ込み、寝ていたせいで、夜には亜梨明と同じベッドで寝るのが習慣付いてしまった。


 亜梨明が四月に倒れて自宅に帰れなくなった日から、フィーネは毎晩亜梨明の部屋の前に赴き、「ニャー」と鳴きながら、そこにいない亜梨明に「入れてちょうだい」と訴え、今晩も扉が開かないと悟ると、しょんぼりとした様子で、ドアの前の床の上で眠っているのだった。


「……それは、可哀想だね」

 緑依風がフィーネに同情すると、「ご主人様のこと、ずっと待ってるんだな……」と、風麻も眉を下げて言う。


「でも、亜梨明の手術の時にうちで預かった時は、そんなに元気が無いようには見えなかったけど……」

「いや、違うんだって。ここまでならまだ可哀想だけで済むんだけど……」

 奏音はまた語り出し、三人は話の続きを聞く。


 *


 六月三日の相楽姉妹の誕生日パーティーで、久しぶりにご主人様に会えたのも束の間、奏音に家の中へと戻されてしまったフィーネは、ますます亜梨明の存在が恋しい気持ちに拍車が掛かったのか、次の日から家の中に誰もいないと、腹の底から大きな声で「あーお、あーお!!」と低い声で鳴く癖がついてしまった。


 そして、その鳴き方をした後、何故か棚の上にある写真立てや飾りの小物、テーブル上のリモコンを全て落とし、家中を駆け回り、おかしな行動をするようになったという。


「――と、留守の時間が長くなると、家中大惨事なワケ」

「な、なるほど……」

 奏音の話を聞き終えた三人は苦笑いし、彼女が早く家に帰りたい理由を理解した。


「……じゃあ、私あとで奏音の家にご飯届けに行くよ」

「えっ、いやぁ~……さすがにそれは悪いよ」

「でも相楽さん。コンビニはもう通り過ぎちゃったし、今日のご飯どうするの?」

「あぁ、買い置きのカップ麺あるし。それ食べる」

「遠慮しないで、できたらすぐ持ってく!」

 緑依風が少し声を張りながらもう一度言うと、彼女の厚意を嬉しく思った奏音は、「ははっ、ありがと!それじゃあもらっちゃうね!」と甘えることにした。


 *


 その頃。

 相楽家では、フィーネがエアコンの風がちょうど良く当たる場所で、涼みながら眠っていた。


「フィーネ!お姉ちゃんとあそぼ!」

 フィーネの夢の中では、亜梨明がお気に入りの猫じゃらしを持って目の前に立っており、フィーネはフリフリと左右に動く猫じゃらしをじっと観察している。


 亜梨明はフィーネを「うちの三女」だと言っていた。


 なので、自分をよく一般の人が言う『ご主人様』や『ママ』とは呼ばず、あくまでフィーネの『姉』として、接しているつもりらしい。


 フィーネが前足で猫じゃらしを捕らえると、亜梨明はまたそれを動かし、フィーネは機敏な動きで素早く追いかけ、また捕まえて、ハミハミと猫じゃらしを噛んだり、後ろ足も使ってキックしていた。


「はぁ〜ちょっと休憩ね。お姉ちゃん疲れちゃった」

 亜梨明がソファーの上で寝転がると、フィーネもすぐそばにより、亜梨明の顔の横で丸くなって眠る。


「一緒に寝よっか」

 亜梨明がそう言って、フィーネの頭や顔を優しく撫でると、フィーネは目を細めてゴロゴロと喉を鳴らし、眠りにつく……。


 すると、ガチャッ――と、遠くの方で金属音が聞こえる。


 それと同時にフィーネは目を覚まし、グッと伸びをすると、音のする方向――玄関へと向かって駈け出した。


 もしかしたら、今日こそ大好きな『お姉ちゃん』が帰ってきたかもしれない。


 そう期待するフィーネだったが、下駄箱前でサンダルを脱いでいたのは『お姉ちゃん』ではなく、奏音だった。


「ただいま~……ちょっと、私の顔見た瞬間リビングに帰らないでよ」

 これが亜梨明だったら、脚に尻尾を絡ませ、すり寄って出迎えるというのに、奏音相手には塩対応のフィーネ。


 奏音がリビングに入ると、今日は大人しく過ごしていたのか、部屋の中は綺麗な状態が保たれている。


「ニャー!」

「はいはい、おやつね。まったく……おやつとご飯の時しか、私の前で甘えた顔しないんだから……」

 奏音がペースト状のスティックタイプのおやつを取り出すと、フィーネは「はやくちょうだい!」と言わんばかりにニャーニャーと鳴き続け、目の前にそれがやってきた途端に静かになって、ペロペロと舐め始めた。


「あ~あ……猫って本当にきまぐれ。ツンとしたり、急に甘えたり……。だから私、あんまり猫って得意じゃないんだよねぇ~……」

 奏音はそう言ってため息をつき、袋の下の方に溜まっているペーストを押し出し、それをまたフィーネに与えた。


 元々奏音は、猫より犬派だった。


 小学生の頃、友人の家で生まれた犬をうちで引き取りたいと母に頼んだ時には、「動物っていうのはね、可愛いだけでは――」と、去年の亜梨明と同じことを母に言われ、いつ具合が悪くなるかわからない亜梨明がいる我が家で、散歩や細かいしつけが必要な犬を飼うのは、他の動物以上に難しいとも付け加えられた。


「――なのに、結局猫飼っちゃうんだもん……。可愛いけどさぁ~……」

 奏音がおやつを支えていない方の手でフィーネの頭を撫でてやると、ちょうどおやつが無くなり、フィーネは「ありがと、もういいわ」と感じるような態度で、ふいっと回れ右をして奏音から離れ、ネコ用ベッドとして置いてあるバスケットの中へと入っていった。


「…………」

 ピクピクと奏音の口角が小刻みに痙攣する。

 イラっとした気持ちを、奥歯を食いしばることで抑えた奏音は、空っぽになったおやつの袋をゴミ箱に捨て、喉の渇きを癒すため、冷蔵庫から麦茶を取り出した。


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