第210話 カレーが食べたい(中編)
翌朝。
亜梨明の様子が心配で、明日香がいつもより早く病院に到着すると、亜梨明の担当看護師の
「おはようございます。……あの、何かありました?」
三上が困り顔で亜梨明に目配せしたので、明日香がこっそりと小声で聞いてみる。
「その……亜梨明ちゃん、さっき泣いちゃったんです。ご飯をテーブルに置いた瞬間、「もうやだ……」……って」
「…………」
明日香が亜梨明の方を振り向くと、亜梨明も母が来ていることに気付いていたようで、目が合ったと同時に白い掛布団で身を隠し、背を向けて寝転がった。
「さすがに可哀想で、食べれるものだけでいいよって言っちゃいました。栄養ドリンクも、また後にしようって。だからカットバナナとヨーグルトだけ食べてもらったんですが、きっと本当は、もっと食べたい物があるんでしょうね……」
三上は明日香に一礼すると、次の仕事に取り掛かるため、彼女の横を通り過ぎて行った。
*
リハビリの時間になると、亜梨明はやや元気が無いながらも、ベッドからICUの通路まで歩き切ることができ、歩行運動にはもう心配が無さそうだと間宮先生は言った。
次からはリハビリ室でのトレーニングに切り替えるらしい。
そしてまた、食事の時間が訪れる――。
昼食のメニューは、またもや五分粥、かきたまスープ、小さく刻まれたニンジンと高野豆腐の煮物、細かくされた春雨サラダ。
朝に飲まなかった栄養ドリンクも、テーブルの端で存在感を放っている。
「…………」
リハビリ中はまだ少し笑うことができていた亜梨明だが、食事を見た途端、目を赤く潤ませ、消え入りそうな声で「いただきます……」と言った。
お粥、春雨サラダ、スープの順番でちびちびと口に運んだ後、亜梨明はスプーンをトレーの手前に置き、「ごちそさま……」と手を合わせ、食事を終わらせてしまった。
明日香は、すっかり暗い顔になった娘と全然減っていない料理を交互に見るが、こんな状態の亜梨明に「もっと食べて」「元気になるためだから」なんて、とても言えない。
そんなのは、亜梨明が一番わかっているはずだから。
かと言って、このまま胃を慣らしていくリハビリも兼ねた食事が進まなければ、辛い状況がまた延びていくばかりだ。
どうすればいいのかと、明日香が悩んでいた時だった――。
「カレー……食べたいな」と、亜梨明が虚ろな目のまま声を発した。
「カレー……?」
明日香が聞き返すと、亜梨明は小さくこくんと頷き、「うちのカレー」と言った。
「黄色いパッケージでリンゴ入りのカレールーのやつ。ニンジン少なめ、ジャガイモたくさんで、お母さんが作ってくれる相楽家のカレーが食べたい……」
「……それは、さすがにちょっと……」
てっきり、お粥の代わりにと、亜梨明の体調が悪い時によく作っていた、彼女の好きなジャガイモだけをつぶして滑らかにした、マッシュポテトなら食べれるかと思っていた明日香。
しかし、娘が食べたいと求めたのは、家で毎週必ず一回は作っていたカレーライスだった。
「他のはどうかしら……?ホラ、亜梨明の好きなマッシュポテトとか、カボチャのペーストでもいいよ?それとも、マカロニを小さくして柔らかくしたグラタンなら、きっと先生に許可をもらって……――」
「イヤっ!!カレーじゃなきゃやだ!!」
亜梨明が大きな声を張り上げて叫ぶと、同じICUにいる患者や、その家族、通路を歩く看護師が一斉に注目し、彼女が荒っぽく体を揺らした衝撃で、栄養ドリンクのビンがガシャと、音を立てて床に落ちた。
「あっ、すみませんお騒がせして……。――亜梨明、あんまりワガママ言わないでちょうだい。お母さん怒りたくないけど、これ以上言うなら……」
「……っ」
明日香がビンを拾いながら注意すると、亜梨明は目に溜めていた涙をポロポロと零し始め、「だって……っ」と言いながら、泣き出してしまった。
「いやなんだもん……っ、嫌いなものとマズいドリンクばっかり……っ!カレーならたべれるのにっ、カレーが食べたいのにっ……!」
亜梨明はそう言って、また掛布団に
食事を制限されることは、これまで何度もあった。
心臓に負荷が掛かるからと、好きな食べ物はもちろん水すらもらえず、喉の渇きを癒すために与えられたのは小さな氷のみだったことも。
だが、亜梨明はあの頃よりも今の制限の方がもっと精神的に辛いと感じていた。
明日香は、一旦亜梨明のそばから離れると、担当看護師の三上に声を掛け、高城先生への取次ぎを頼んだ。
*
「……うーん、カレー……かぁ……」
明日香から亜梨明の様子を聞いた高城先生は、腕組みしながら顔をしかめる。
「ちょっとまだ早い気もするけど……でも、このままご飯食べなくなっちゃうのはもっと困るし……」
「先生、本当にすみません……。亜梨明のことを考えてくださったメニューなのに……やっぱりカレーなんて、余計に胃に負担がかかりますよね……」
明日香は高城先生に頭を下げながら謝り、やはり無理かと諦めていた。
「…………」
高城先生は、しばらく悩むように首を何度も捻っていたが、ふぅ~っと鼻から深く息を漏らすと、「わかりました、カレー試してみましょうか」と言って、困り笑顔を明日香に向けた。
「――えっ、いいんですか?」
「……但し、ご飯はお粥くらい柔らかめに炊いてください。カレーも刺激の少ない甘口で。野菜は細かく、肉もひき肉かそれに近いくらい……レトルトを使うのならば、子供用のカレーなどで。食べさせる時も、少し食べて様子を見て、大丈夫そうならまた少量を一口ずつ、ゆっくり食べるように伝えてください」
「はい、ありがとうございます……!」
高城先生の許可が下りると、明日香は早速食材を買いに行き、宿泊施設へと戻る。
明日香が利用している病院近くの宿泊施設は、自炊ができるようキッチンや調理器具、塩コショウなどの調味料も揃っており、明日香以外の宿泊者も、ここで病院に入院している家族のために、家庭の味を料理して持っていくことはよくあることだった。
「……そういえば、もう一か月以上作ってなかったな……」
亜梨明の転院が決まった直後――奏音に、簡単にできるからと教えるために作ったのが最後。
それ以前も、亜梨明の病状が重篤化した際は、彼女の付き添いのためだけでなく、明日香自身も娘の命の危機に料理をする気なんてとても起きず、米だけを炊いて、帰りにスーパーで買ってきた総菜を温めて食べるということが続き、毎週のように作っていたカレーが食卓に並ばなくなっていた。
手術直前、ご飯が食べられるようになったら何から頼もうかと言っていた亜梨明。
明日香はきっと、彼女が一番好物のポテトサラダをリクエストされると思っていたので、「カレーが食べたい」と言われたのはちょっぴり意外だった。
でも、今ならそう言われたのも納得がいく。
カレーは亜梨明が元気で、家族と一緒に毎週絶対に食べていた“おうちごはん”。
奏音と共に、「イモを取り過ぎ」「ルーが少ない」「お肉ももっと欲しい」とワイワイ言いながら鍋の前でじゃれ合い、家での光景が最も思い出しやすいメニューだったのかもしれない。
残念ながら、今日のはいつもと少し違うが、愛用しているカレールーを鍋に割り入れると、その香りは自宅にいる時と同じで、明日香もなんだかホッと安心するのだった。
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