第206話 変心(後編)


「ごちそうさま。美味しかったわ~!」

 ケーキを食べ終えた伊織が、緑依風に両手を合わせながら言った。


「残りは秋麻とうちのお父さんにあげましょ。今二人で髪切りに行ってるのよ~」

 伊織はそう言いながら、残ったケーキをお皿に移して、冷蔵庫の中へとしまう。


 緑依風も使い終わったケーキ皿とフォークを流し台に運び、今度こそおいとましようとした時だった。


「……あのさ」と、風麻がやや固い面持ちで緑依風に声を掛ける。


「昨日、数学でわからないとこがあったから、俺の部屋で教えてもらっていいか?」

 勉強嫌いな風麻が自ら教えを乞うなんて珍しいと緑依風が思っていると、同じように感じた伊織が「ま!珍しいわね~」と、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で言った。


「こりゃ、雨でも降っちゃうんじゃないかしら?」

「……行こうぜ」

 母にからかわれたのが面白くなかったのか、風麻はぶっきらぼうな口調で緑依風を誘い出し、リビングを出た。


 *


 部屋の前に到着すると、風麻はカチャリとドアを開け、首の動きだけで緑依風に先に入るように促し、静かにドアを閉める。


 彼は戸を閉めると同時に「冬麻が、ごめんな……」と、緑依風に謝った。


「気にしてないよ……。可愛いよね〜冬麻。多分、このままの姿でみんながずっと一緒に暮らしてるのを想像してるんだよ?あの子はただ、楽しい毎日が続いて欲しいって思ってるだけ。怒るなんてできないよ……」

 つい最近まで同じような未来を願っていた風麻は、チクリと胸を痛ませながら「そうだな……」と答えた。


 幼い冬麻と優菜は、きっと結婚=同じ家で共に暮らすとしか、考えていないのだろう。


 だから、今の幸せが――大好きな人達が常にそばにいてくれる、安心できる環境を兄や姉にもそうして守って欲しいと思い、話し合うのだ。


 風麻だって、緑依風や松山家の人達がすぐ隣の家にいて、いつでも会えるこの距離感が何よりも心地のいいもので、永遠に続けばいいと思う。


「(そのためには、まず俺が変わらねぇと……だな)」

 彼女を“きょうだい”のようだと思って、その関係に甘えていた自分の心を変えなければ。


 今もなお、一途に自分を想い続けてくれる緑依風の気持ちをもっとたくさん知りたい。


 彼女が大事に保ち続けていた心の奥底の感情に触れてみたい――。


「……なぁ、緑依風」

「ん?」

 すっかり勉強を教えるつもりだった緑依風は、散らかっている風麻の部屋の物を少しずつどけて、折り畳み式のテーブルを持ち上げている。


「お前はさ……なんで俺に作ったケーキを持ってきてくれるんだ?」

「え?」

「俺が甘いもの好きで、お前が俺のこと好きだからか?」

「…………」

 カチャン――と脚の部分を組み立てた音が空しく部屋に響くと、緑依風はそれを床の上に設置し、考えるような表情で首を斜めに傾ける。

 

「うーん……そうだけど、少し違うな」

 緑依風はそう言って、正座した膝の上に手を置くと、ゆっくりと風麻の質問に答え始めた。


「――もちろん最初は、そうやって作り続けてたら、風麻が私のこと好きになってくれるかなってだけだったんだけど……。でも、だんだんただ気を引きたいからってだけじゃなくなって……風麻が美味しそうに食べてくれて、笑ってくれるのを見るのが、私はすごく幸せだったの」

「…………!!」

「風麻が顔をギューッとさせながら叫ぶ「美味い」が聞きたい。風麻が「美味かった、また食べたい」って言ってくれる瞬間を待ちたい。それが、風麻に好かれたいだけじゃなく、風麻がそう言ってくれることで、パティシエールになりたいっていう、私の夢にも近付いている気がするの。……だから、私はあんたにケーキを作って持って行ってる……かな?」

 聞き出した緑依風の想いは、風麻が想像している以上に熱くて、熱くて――。


 そんな彼女の熱い感情に当てられたように、風麻の首から上は真っ赤に染まってしまい、ちょっぴりクラクラとめまいがする程、彼の心は様々な気持ちが入り交ざって、すぐに言葉で表せなかった。


 だが、じわじわとその形がわかってくる。


 嬉しかった。


 人から――ましてや、長年一緒にいる緑依風から『愛』を向けられることが、素直に嬉しかった。


 そして、ただ自分が好物のケーキをもらって食べるだけで、彼女が『幸せ』や『将来』を感じられることも知り、今日ほど自分の存在を認められているという実感を味わったことも無かっただろう。


「~~~~っ!!」

 火照り過ぎた顔をあまり見られたくない風麻は、緑依風と逆方向を向きながら、両手で顔を覆う。


「えっ……もしかしてドン引きだった?」

 彼の反応に不安を感じた緑依風が、言ったことを後悔するように聞いた。


 風麻は、「引いてねぇよ……」と返事をすると、両手を顔から離し、「でもなんか……いきなり素直すぎるだろ……お前」と言いながら、まだ赤い顔を緑依風の前に晒す。


「だって、もう好きってこと知られちゃったなら、隠す必要無いじゃない」

 緑依風がクスッと小さな笑い声を漏らして言うと、風麻はそんな無垢な微笑みを湛えた彼女の姿にますます調子が狂わされ、クシャクシャと片手で髪を掻き乱した。


「(むず痒くてジンと沁みる……でも、もっと強く感じたい……)」


 答えを出すにはまだ物足りないけど、ついさっきまでとは違う感情が、風麻の心の一部に芽生えて、彼はそれを声にする。


「――今さ、お前のことを親友として好きな気持ちが八十パーセント……」

「ん?」

「……特別な気持ちで、好きな気持ちが二十パーセント」

「え……」

 そう聞いた途端、今度は緑依風の顔が、先程の風麻に負けないくらい真っ赤になった。


「半端でごめん……。でも、今の気持ちを正直に表すなら、こうだなって思った」

「…………」

「これが百パーセントになったら、その時は俺からお前に告白させて欲しい。時間は……どのくらいかかるかわからないけど……」

 目をほのかに潤ませ、膝の上に置いた手をキュっと軽く握り締める緑依風は、風麻の言葉に喜んだのも束の間、「でも……もし……」と、恐れるように声を絞り出す。


「それが……そうならなかった時は――」

「わかってる。やっぱり違うと思った時もちゃんと伝える。約束は絶対守る……」

「……うん、お願いね」

「あぁ……」

 切なく、胸が詰まりそうな想いで風麻が頷くと、緑依風は一回だけぐずっと鼻を鳴らして、泣きかけの顔を歪ませ、にっこりと笑みを作る。


「……へへっ、じゃあ話も終わったことだし、勉強しよっか!」

「あ~……あれはただ部屋に呼ぶための嘘だったんだけどな……」

「な~にいってんの!!期末泣くよ?」

「へーへー」

 やる気のない返事をしながらも、風麻は教科書やノート、筆記具を準備し、緑依風の対面に座ってシャーペンを取り出す。


 普段と変わらないはずのやり取り――なのに、いつもより優しくて温かい時間が、二人の間を穏やかに流れた。


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