第205話 変心(前編)
土曜日。
学校は休み。
木の葉の手伝いも、人手が足りているので必要ないと言われた緑依風は、朝からケーキ作りに励んでいた。
「ん~っと、昨日の夜仕込んでおいたタルト生地と……あとレモンも出さなきゃ」
独り言を呟きながら、テキパキと準備を進める緑依風の顔は、とても明るくてイキイキしている。
お菓子作りは楽しい。
ご飯用のおかず作り、父のケーキを美味しそうに頬張る人の顔を見れる木の葉での手伝いも好きだが、やっぱり自分が一番好きなことは、ケーキやお菓子を作ることだなと、緑依風は思った。
母の葉子は今日も父と共に店で仕事。
閉店後の雑務で疲れている中、今朝も早くから出勤する姿を見ると気の毒なのだが、自分が菓子作りをすることにいい顔をしない母の留守は、正直緑依風にとって、気が楽になるものだった。
「そんな風に考えちゃいけないって、わかってるけど……。――なんで、私にだけ厳しいのかなぁ」
末っ子の優菜ならまだしも、年の近い妹の千草にも母は緑依風程、勉強や将来について細かく言うことは無い。
「本気でお父さんの店を継ぎたいなんて思ってないでしょ?」
去年母に言われた言葉が、緑依風の胸の中で蘇る。
きっと、原因はこれだ。
母は父の店を継ぎたいという気持ちが、面白くないのだ。
「(今は怖くて言えない……でも、いずれはきちんと言わなきゃ。パティシエールになりたい気持ちは本気だってことも、そのためにお母さんが望む道には進まないってことも!)」
緑依風はキュッと唇を噛み締めると、深く息を吐き、再びケーキ作りの作業に取り掛かった。
*
「……よし、いい感じに冷えたかな?」
数時間後、冷蔵庫で冷やし固めたケーキを取り出した緑依風は、丸い型から中身を取り出し、最後の飾りつけを済ませると、形が崩れないよう、丁寧に箱の中にそれを詰め、お隣の坂下家に向かう。
ピンポーン――と、緑依風が坂下家のベルを鳴らすと、風麻の母、伊織がドアを開けて「あら、こんにちは!」と挨拶をした。
「おばさん、こんにちは。あの、風麻は……」
「風麻なら今、リビングで冬麻と遊んでるわよ。あがってってちょうだい」
伊織に手招きされた緑依風が、家の中に入ってリビングに向かうと、「へんしんだー!」と、大好きな戦隊ヒーローの変身ベルトを腰に装着している冬麻が、ソファーの上でポーズをとっている。
「悪いことするかいじんめ!かくごぉーっ!!」
そう言って、ソファーの上からかっこよく床に着地した冬麻は、怪人役の風麻に力一杯パンチやキックをして、すっかりヒーローになりきっている――が。
「なんのこれしきー!こんにゃろー!!」
風麻は冬麻の攻撃を物ともせずに距離を詰め、背面から抱きかかえるように捕まえると、ぐるぐるとその場で回転を始めた。
「うわ~っ!はなせ~っ!!……きゃはははっ!!」
「おりゃ~!どうだ参ったか――……って、お前来てたのか」
緑依風の存在に気付き、ピタッと回転を止めた風麻の腕の中では、冬麻がキャッキャと楽しそうな声を出しながら、「お兄ちゃん、もっともっとー!!」と続きをおねだりしている。
「今来たところ。あ、おばさんこれ作ったんです!良かったら皆さんでどうぞ」
「あら、ありがとう。開けて見てもいいかしら?」
「はい」
緑依風が伊織にケーキが入った箱を渡すと、彼女は早速テーブルの上で箱を開き、「わぁ~!」と歓声を上げた。
緑依風が作ったのは、レアチーズケーキだった。
それも、ただのレアチーズケーキではなく、宝石のようにキラキラと光る、細かく砕いた黄色いレモンゼリーを上に乗せて、味だけでなく、目でも楽しめるような見た目に仕上げた。
真ん中にちょこんと乗せられたミントの葉が、より一層爽やかさを引き立てており、後ろから覗き込んだ風麻や、テーブルの淵に掴まって背伸びをする冬麻も、「うおっ、すげー!!」「おいしそう~!!」と言いながら、感動している。
「本当にありがとうね緑依風ちゃん」
伊織がもう一度緑依風にお礼を伝えると、「なぁ母さん、早速切り分けてくれよ!」と、風麻が待ちきれなさそうな様子で伊織に頼む。
「あんた、まず緑依風ちゃんにお礼は……?」
「あ、忘れてた。ありがとな!」
「ううん、こっちこそ。もらってくれてありがと!」
「緑依風ちゃーん、ぼくもたべていい?」
「うん、もちろん!……では、私はこれで」
緑依風が小さく一礼して、帰ろうとすると「緑依風ちゃんも一緒に食べましょ」と、伊織が言った。
「あ、いえ……これは皆さんに作ったので」
「そんなこと言わずに……ね?」
伊織が首を少し傾けてにっこりと微笑みかけると、緑依風もこれ以上遠慮はせず、彼女の厚意に甘えさせてもらうことにした。
*
一緒に食べさせてもらう代わりに、お手伝いを名乗り出た緑依風。
失敗して崩してしまうと申し訳ないからと言う伊織に頼まれ、ケーキの切り分け作業を行っていると、「こうして一緒にキッチンに立つと、娘がいるような気分だわ」と、伊織が嬉しそうな声で言った。
「え?」
「うち、男の子ばかりでしょう?一人くらい娘が欲しいって思ってたのよ」
伊織は棚からお皿とフォークを取り出し、それを緑依風の横に置く。
「ま、緑依風ちゃん達のことは、ずーっと小さい頃から知ってるから、勝手に娘のようにも思ってるけどね!」
「あはっ、ありがとうございます!うちは逆に娘ばかりなので……お父さん達、男の子欲しかったのかな……?」
そんな話は一度も聞いたことが無いが、緑依風が八歳になる年に生まれた優菜の存在を考えると、もしかしたら次こそは男の子だと思っていた可能性も無くはない。
「じゃあ、ぼくが緑依風ちゃんのいえのこになるよ!」
「えっ?」
話を聞いていた冬麻が、子供用椅子の上で元気よく宣言する。
「は?緑依風んちの子??」
冬麻の向かい側に座る風麻が聞き返すと、「そしたらぼくは、優菜ちゃんといつもいっしょだね」と言うので、伊織は「お婿さんになるのね」と笑った。
「そっか~!それじゃあ、冬麻は苗字が松山になっちゃうね!」
ケーキを切り分け終えた緑依風が、冗談のつもりで言いながら席に着くと、「それで、緑依風ちゃんがうちにくれば?」と、冬麻は曇りなき眼を彼女に向ける。
「んん?」
「ぼくが“まつやま”になるから、緑依風ちゃんがかわりに“さかした”になれば?おないどしだから、お兄ちゃんとけっこんするといいよ」
「えっ……!」
「あっ……!?」
何の悪気も無い、純粋無垢な思いでそう発言する冬麻。
しかし、互いに結婚やそういったものが、どういうことか理解できる緑依風や風麻は、つい過剰に反応して、恥ずかしい気持ちになってしまう。
「冬麻、結婚っていうのは難しい問題なのよ?そんな簡単な理由ではできないの」
「そうなの?」
冬麻はケーキを少しずつ食べながら、母親に聞いた。
「お兄ちゃんたち、けっこんしない?」
「え、えっとぉ……だな……」
「しない!……と、思うよ……多分……!」
風麻がどう答えようか躊躇しているのを見た緑依風は、彼を助けるつもりで、それは無いと答えた――が、そう聞いた瞬間、冬麻は「えぇ~っ!!」と残念そうに叫び、ゴロゴロとテーブルの上で頭を転がしてご不満な様子だ。
「ぼくは、お兄ちゃんと緑依風ちゃんがけっこんしてくれたらいいな~って、いつも優菜ちゃんとおはなしてるのに~!!だって、そしたらおおきくなっても、お兄ちゃんとも、緑依風ちゃんたちとも、いえがとなりどうしだから、ずっとまいにちあえるでしょ?」
冬麻はそう言うと、少し拗ねたような態度でケーキを頬張り、そんな彼の期待通りの返答ができなかった緑依風と風麻は、気まずさに顔を強張らせる。
「まぁ、そうなったらきっと楽しいかもしれないけどね……。こればかりは冬麻が決められることじゃないから。……ごめんね緑依風ちゃん、嫌な気持ちになってない?」
「全然大丈夫です!あ、ケーキお口に合いますか?」
伊織が冬麻に代わって緑依風に謝ると、彼女は気にしてない素振りで伊織に話しかけ、その場の雰囲気を和ませようとする。
風麻は、そんな幼馴染を横目でチラチラと見ながら、こっそりと小さなため息をついた。
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