第202話 アリア(前編)


 カラカラカラと車輪の音がする。

 ストレッチャーの上に乗せられ、手術室へと運ばれていく亜梨明の視界は、だんだんとぼやけて、曖昧なものになる。


 エレベーターにストレッチャーごと乗り込み、別の階へと移動すると、手術室のライトが見えて、そこに複数の人の気配がした――。


「亜梨明ちゃん、今日はよろしくね」

 瞼が重くなり目を閉じると、高城先生の声がまるでエコーがかかったように、おぼろげに聞こえる。


「麻酔を入れますね」

 ――と、今度は別の人の声がして、体全体にピリピリした弱い痺れを感じ、その感覚がビリビリに変わった瞬間、亜梨明の意識はプツリと途切れた。


 *


 夏城町では、奏音から手術開始時間を聞いていた緑依風達が、それぞれ別の場所で落ち着かない様子で過ごしていた。


 亜梨明の命運がかかった日だというのに、空は不吉にも暗くて分厚い雲に覆われ、青空を覗かせる隙間すら無い。


 緑依風は父親のお店を手伝いながら、ポケットに入れているスマホを何度も取り出す。


 風麻は部屋で漫画を読みながら寝転がり、一冊読み終えるごとに、どんどん暗くなっていく空を見上げた。


 星華は母親と共に、好きなアイドルのDVDを見て夢中になっていたが、時々亜梨明のことが心配になり、テレビから聞こえる歌声が頭に入って来なかった。


 爽太は夏城総合病院の裏庭を抜けて、祈りの石がある丘へと向かった。


 石に手を当てると、空からはゴロゴロと唸り声のような雷の音が響いている――。


「神様……どうか……」

 爽太は、石に触れている手の上に自分の額をくっつけると、願いが石の神に届くよう、強く思いを込めた。


 *


 その世界は真っ白だった――。


 白い壁と白い床、白い扉がいくつかあって、水に浮かぶ中央の丸い広場の上には、白いグランドピアノがある。


 目の前を見渡す亜梨明は、見知らぬ景色が広がる世界に、これが現実ではないと気付いたが、いつもなら麻酔が効いた後に夢なんて見たことが無いため、不思議に思った。


「もしかして……夢じゃなくて天国?」

 独り言をぼやくと、決して狭い空間ではないにもかかわらず、自分の声がこだまするように響いて、なんだか心細くなる。


 すると、中央の広場の方からシクシクと、小さな子供のような泣き声が聞こえてくる。


 亜梨明が目の前の通路を通ってその場所に赴くと、水色のパジャマ姿の男の子が、白いグランドピアノの前で膝を抱えて泣いていた。


「どうしたの?」

 亜梨明は男の子の前でしゃがみ、声を掛けた。

 だが、男の子は泣くばかりで何も答えてくれない。


「困ったな……」

 辺りを見回しても、この少年の両親のような人どころか、自分達以外誰の姿も無いし、そもそもこの場所がどこなのかわからない……。


 すると、男の子が「ピアノ……」と言った。


「え?」

「ピアノ……弾いて……」

 男の子は、すぐそばにあるピアノを指差した。


「……うん、いいよ!」

 亜梨明は喜んで引き受けると、ピアノの椅子に座り、軽く深呼吸をする。


 鍵盤に指を置き、亜梨明が奏で始めたのは、初めて作った曲――未完成の“あの曲”だった。


 この男の子を見た時、何故だか昔プレイルームで出会った、あの少年を思い出したからだ。


 もしかしたら、この子はその男の子なのかもと亜梨明は思った。


 ここはきっと夢の中。

 だったら記憶の奥底で眠っていたあの子が、今ここに出てきてもおかしくないと、亜梨明は考えていた。


 あの頃は和音も何もない、とても単調な音楽しか聴かせることができなかったが、今はあの日よりも想いや願い――言葉にできない悲しみも喜びも、たくさん音に乗せられるようになった。


「(もしかして、聴いて欲しいって思ってたから、聴きに来てくれたのかな?)」

 例え、ただの願望が夢になっただけだったとしても、亜梨明は成長した自分の音楽を男の子に聴かせることができて、嬉しく思った。


 本物の男の子は、きっとあの日のことを覚えていないかもしれない。

 生きているかも、どんな風になっているかもわからない――。


 それでも――自己満足でもいい。

 こんな形でも、小さな願いを叶えられたのだから。


 *


 演奏を終えると、男の子はすっかり笑顔になっていた。


「やっぱり、すごくいいとおもう!」

 その言葉を聞いて、亜梨明はやはりこの子はあの男の子なんだと確信した。


「お礼に、いいとこつれていってあげる!」

「いいとこ……?」

 亜梨明が首を傾げると、「こっちに来て!」と男の子は亜梨明の手を引っ張り、水に浮かぶ細い通路を渡って、白い扉を開けた。


 扉の向こうに広がるのは、今の無機質な空間とは打って変わって、青い空と花畑。

 そして、その花畑に挟まれるように白い道が続いていた。


「はやくはやく!こっち!!」

 男の子は亜梨明の手を離すと、白い道を走って進んで行く。


「ちょっ、ちょっと待って……!!」

 亜梨明も男の子を追いかけた。


 男の子は小さい体なのにとても足が速く、亜梨明は見失わないように必死に後を追う。


 現実なら、こんなに走ったら苦しくなってすぐに動けなくなってしまうのに、ここではどれだけ走っても、全然息が切れない。


 全く、夢の中は本当に不思議だなと思いながら、亜梨明が走り続けていた時だった。


「あ……」

 道と同じように遠くへと続く花畑の中に、笑顔で手を振る人達がいる。


 亜梨明は、その人達を知っていた。


 お姫様の物語が大好きだったちぃちゃん。

 消防士になるのが夢だったけいくん。

 みんなより年上のお姉さんだった早苗ちゃん。

 とても意地悪だったけど、痛みに我慢強かっただいきくん。


 小さい頃、同じ病室で過ごした――悲しいお別れをした友達だ。


「みんな……っ」

 亜梨明が立ち止まると、花畑の中にいる友達は、大きな声で声援を送った。


「止まっちゃダメ!」

「頑張って!」

「もうすぐだよ!」

「もっと先に行って!」

「………っ」

 亜梨明は彼らを横切り、目の前を走り続ける男の子を再び追いかけた。


 花畑の中の友から遠く離れた所まで走り続けると、男の子は急にピタッと走るのをやめて、くるっと亜梨明の方を向く。


 そしてにっこりと微笑むと、吹かれた風と共にすうっと透明になり、消えていってしまった。


「あっ……!」

 亜梨明が消えゆく男の子に手を伸ばすと、その手をパッと誰かが掴み、引っ張り上げる。


 亜梨明が顔を上げると、そこには爽太の姿があった。


 爽太の周りには、緑依風、風麻、奏音、星華が立っており、穏やかな笑顔を浮かべてこちらを見ている。


「さ、一緒に歩こうか」

 爽太にそう言われながら手を引かれると、亜梨明は「うん!」と返事をして、みんなと共に歩き始めた。


 さっきまで一人で辿っていた白い道を、六人並んで共に進みだす。


 一緒といっても歩幅や歩き方は皆それぞれ違い、六人の列は綺麗な一直線ではなく、バラバラだ。


 緑依風は手を後ろに組みながら、控えめな速度で歩いている。

 風麻は両手を後頭部に回して、一歩前をドカドカと。

 奏音はみんなの中間くらいの位置を意識しながら。

 星華はまるでスキップをするように、少し跳ねた歩き方をしていた。


 そして爽太は、亜梨明と手を繋いだまま、彼女の歩調に合わせるように歩いてくれている。


 それぞれが自分だけの道を、自分の好きなペースで歩んで進む。


 それに気付いた時、亜梨明はふと、父の真琴から聞かされた自分の名前の意味を思い出した。


 この名前は、音楽好きの父親が、音楽用語の『アリア』から取って付けた名だ。


 母の明日香は最初反対したそうだが、その時真琴は、『ARIA』という用語の意味と、クラシックで有名な『G線上のアリア』の話をした。


 この言葉は、『旋律』『独唱』の他に『空気』という意味もある。

 人が生きていくのに必ず空気が必要なように、この子は自分達にとって空気同様、無くてはならない存在。決して失わないように、二人で一緒に守り育てよう。


 弦一本のメロディーと多くの伴奏で奏でられるこの曲のように、今はたくさんの人に支えられながらでも、いずれはちゃんと自分の道を自分で決めて歩いていける、強い子に成長して欲しい。


 そんな真琴の想いを知った明日香はようやく賛成し、亜梨明はこの名前となったのだった。


 父が名前に込めてくれた願いを思い返しながら、亜梨明は両脇にいる親友達の顔を見る。


 これまでは、自分だけが周囲に取り残されたまま前に進めず、未来に向かって進んでいく人々の背を悔しい思いで睨んでいるような気持ちだった。


 でも、今は違う。

 爽太も奏音も、緑依風や風麻、星華も皆、横を向けば目が合い、笑いかけてくれる距離にいる。


 だから――。


「……もう、置いていかれるなんて思わない……。私はみんなと一緒に自分の力で、明日を……未来を歩いて行けるから」


 風が吹く。

 花と葉が揺れて重なり合い、優しい音が奏でられる。

 暖かい日の光が、道を明るく照らす。


 亜梨明は果てしなく続く道を、みんなと共に進み続けた。



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