第200話 似た者同士(前編)


 翌朝。


 緑依風が風麻と共に学校に到着すると、何やら教室の中がいつもより少し賑やかな様子だ。


 耳を澄まして、そばにいるクラスメイトの女子友達の会話を聞くと、どうやら爽太に彼女ができたという話で盛り上がっているらしい。


「内緒にしていた訳じゃないと思うけど、なんで今になってこんな急に……?」

 緑依風がいきなり教室中の話題になったことを疑問に思っていると、「あ~、昨日部活終わりに爽太が先輩に彼女いるのか?って聞かれたんだよ。そのせいじゃね?」と風麻が言った。


「なんかこの間先輩の妹が、爽太に告ったけどフラれたらしくってさ。そんで制服に着替えてる時、バレー部全員爽太が相楽姉と付き合ってるって知ることになったんだけど、もうこんなに広まってんのか……」

 風麻は、「多分、小山が伊藤に言いふらしたんだろうな」と、教室の窓辺で女同士で固まっている、男子バレー部員小山の彼女――伊藤まどかをチラリと見た。


 一組から遊びに来た星華は、自分のクラスでもすでにこの話題で持ち切りだと、緑依風達に報告した。


「日下、登校してきたらあちこちから質問攻めにあいそう……」

 緑依風は、人気者の彼がこれから根掘り葉掘り聞かれることを思うと、ちょっぴり気の毒そうだ。


「でもこれで、爽太に言い寄る女子も減るんじゃないか?」

「それはどうかな~?世の中には、彼女がいても横取りしようとする女子もいるからね」

 星華が両手を上げてニヤつくと、風麻は「女子怖っ!」と自分の腕を抱き、女の執念深い性質に身震いした。


 *


 一時間目の授業が終わった。


 緑依風と奏音が二人揃ってトイレに向かおうとすると、その通路の端で集まる他クラスの女子生徒が、ちょうど爽太と亜梨明のことについて話している真っ最中だった。


「聞いた?日下王子と亜梨明さん付き合ってるんでしょー?仲良かったもんね〜!」

「……って言うか~、あの二人元々付き合ってなかったの?」

「あれ?ケンカして別れてヨリを戻したんじゃなかったっけ?」

 いつのまにか噂話には尾ひれも付いており、そっと横切る緑依風と奏音は、顔を見合わせて苦笑いした。


 二人が用を済ませて教室に戻ろうとすると、今度は爽太が去年同じクラスだった男友達に、噂話の真偽を問われている場面に遭遇する。


「なぁなぁ日下、相楽の姉の方と付き合ってるってマジ!?」

 緑依風と奏音は立ち止まり、爽太がどう答えるのか気になる様子で見つめた。


「うん、そうだよ」

 爽太が素直に答えると、男子生徒達は「マジかー!」「俺も彼女欲しい〜!」と体をうねらせて悔しがった。


「でもよぉ〜相楽って今、入院中だろ?一時期危ないって聞いたし……もしなんかあったらどうすんの?」

「!」

 男子生徒の言葉を聞き、二人は胸をざわつかせる。


「どうするって……そんなこと……」

 爽太が困った顔で返事を躊躇うと、別の男子生徒が「そしたら、妹の方と付き合えばいいじゃん!」と、壁に背を預け、ふざけた笑みを浮かべて言った。


「同じ顔してんだし、どっちと付き合ったって変わらないだろ?こういう時、双子って便利だよな~!」

「あいつら――っ!」

 奏音が、あまりにも失礼な物言いに我慢が出来ず、血相を変えて男子生徒の元へ駈け出そうとした瞬間だった――。


 ダァン――!!と、鈍い音が廊下に響き、緑依風も奏音も、その付近にいた全員が、唖然として固まる。


 音の正体は、爽太が不謹慎な発言をした元級友を黙らせるために壁を力強く蹴った音で、彼はそのまま相手のネクタイを掴み上げ、拳を振り上げている。


「――――ッ!!」

 掲げられた爽太の拳が迫りくると、男子生徒は喉奥から小さな悲鳴を上げ、ギュッと目を閉じた――が、その手はすぐ横の壁にぶつかり、顔や頭には当たらない。


 男子生徒が恐る恐る瞳を開くと、白い肌を赤く染め、怒りに息を荒くした爽太が、今までに見たことのないくらい威圧感を放ちながら見下ろしていた。


「……次言ったら、今度こそ本当に殴る……!」

 怒気を込めた視線と声で言う爽太に、男子生徒達は情けない顔で謝罪し、慌ててその場を去った。


「日下……」

「あ……松山さん、相楽さん……」

 緑依風と奏音が爽太のそばまでやって来ると、彼は我に返ったように表情を普段通りに戻した。


「よかった……本当に殴っちゃうかと思ったよ……」

 緑依風は、大ごとにならなかったことを安心したように胸を撫で下ろす。


「日下ありがとう……。あいつらのこと、怒ってくれて……」

 奏音は爽太に感謝の意を示し、礼を言った。


「さすがに冗談が過ぎる……。殴ってやろうかって思ったけど……ここで僕が問題を起こしたら、亜梨明に合わせる顔がないから……」

 開いた拳をもう一度握った爽太は、再び湧き上がる感情を抑えるように、静かに深く息を吐く。


「――そういえば相楽さん。昨日の夕方、亜梨明にメッセージ送ったんだけど、既読だけついて返事が来ないんだ……。何か聞いてない?」

「ううん。実は私も返事が来なくて……。読んではいるみたいだけど……」

「寝ちゃったとか……?」

 緑依風が推察すると、「でも、グループトークに返事してたよね?」と、爽太が亜梨明のメッセージが来た時間を思い出しながら言った。


「僕が送ったのは七時前で、『亜梨明日記』にメッセージが来たのは八時過ぎだ」

「うーん……亜梨明が既読スルーなんて、滅多に無いんだけど……」


 *


 その頃。

 亜梨明はリハビリ室で、段差の上り下りを繰り返す運動をしていた。


 前日から続く不安な気持ちは、一晩経っても消えてくれず、そのせいなのか体を動かすことがいつもより辛く感じる……。


「うん……少し早いけど、今日はここまでにしておこうか」

 予定時間より十五分程早いが、先生は床に座り込んでしまった亜梨明を心配し、リハビリを中断させた。


 昼食後は、見舞いに来た明日香に連れられて、院内で行われるアニマルセラピーのイベントに参加した。


 ふわふわの毛並みの猫を触ると、自宅にいるフィーネを思い出し、久しぶりの柔らかい生き物の感触に癒された。


 アニマルセラピーが終わると、亜梨明は今日もお気に入りのプリンを買ってもらい、いつもと同じように母との時間を過ごした――が、母が帰って一人になると、夫婦の光景、手術への恐怖が再び湧き出してしまう。


 ベッド横にある引き出しに手を伸ばし、懐中時計を取り出す亜梨明。


 蓋を開くと、時計の針は一定のリズムを刻みながら止まらずに進み続け、亜梨明は円盤を守るガラスの中に爽太の姿を思い浮かべた。


「約束したもん……大丈夫……っ、大丈夫だよ……!!」

 元気になって、必ず戻ると約束したから……。


 同じ未来を生きたいと伝え、この時計を贈ってくれた彼のためにも、自分自身のためにも、今更弱気になんてなりたくないのに――。


 だが、そう思えば思うほど、恐怖心はに大きな影のように広がり、亜梨明の心を光から隠すように包み込んでしまった。


 *


 放課後の夏城中学校では、奏音が昼休みに亜梨明へ送ったメッセージを確認するためアプリを開くが、今度は既読すらついておらず、表情を曇らせていた。


「相楽さん、どうだった?」

 星華と共に一組にやって来た爽太が聞くと、奏音は無言で首を横に振り、小さくため息をつく。


「具合、悪いんじゃないか……?」

 風麻が心配そうに言うと、「お母さんからは、別に普通だって来てた」と、奏音は亜梨明の様子を伺った内容に明日香が返したメッセージを見せた。


「もしかして……彼女の件についてからかうようなこと言ったからかな?」

 奏音が唯一思い当たる節を述べると、爽太もギクリと体を硬直させ、「そういえば、僕も……」と、自分が送った内容を思い出す。


 グループトークに返事が来たのに、自分達にだけ返信が来ない共通点が合致した二人は、気まずそうに顔を合わせ、奏音のスマホ画面を見る。


「と、とりあえず謝ろうか……」

 奏音は亜梨明に謝罪の文面を送信し、爽太も、亜梨明の許可無しに口走ったことを後悔するように肩を落とした。


 *


 夜、八時半――。


 昨晩から一度もスマホを手にしていなかった亜梨明は、奏音から謎の謝罪メッセージが届いていたことで、ようやく返信していなかったことに気付き、わざと無視したわけじゃないことを説明するべく、電話を掛け始める。


「あ、やっと連絡来た~っ!!」

 電話に出た奏音は、ちょっぴり怒ったような、安心したような声色で、亜梨明は「返事しなくてごめ~ん、うっかり忘れてて……」と、取り繕うように言った。


「彼女呼びいじったことで怒ってんのかと思ったし……。日下からのメッセージも返事しなかったんだって?不安がってたよ」

「う……あとでちゃんと返事します……」

 爽太の文章を思い返せば、確かに既読無視なんて怒っていると思われても仕方が無いと反省した亜梨明は、奏音との通話が終わり次第、すぐに彼にも返事を送るつもりだ。


「……なんかあった?」

「え?」

 ため息交じりに奏音に問われ、亜梨明の胸がドキッと跳ねる。


「別に何もないよ?ちょっと退屈はしてるけど……」

「そりゃ病院だからね」

「あ、でもね!今日もおやつにプリン食べてね、あと、お昼にはアニマルセラピーで猫ちゃんに触ったの!猫可愛いかったなぁ〜!フィーネは元気にしてる?」

「うん、今はソファーで寝てるよ」

 奏音は後ろを振り向きながら、ソファーで丸くなって寝ているフィーネを撫でた。


「土曜日、お父さんと一緒にそっちに行くね」

「フィーネは?」

「日下が預かってくれるって」

「本当?よかったぁ〜!そういえば、ジャック今どのくらい大きくなったんだろう?」

「さぁ?こっち戻ってきたら、日下んちに見に行けばいいじゃん」

「あ……」


 戻ってこれるかな――。

 胸の中の独り言が、声に出そうになる。


「……どうしたの?」

「……ん?あっ……そうだね!見に行こうかな!?」

「…………」

 亜梨明は心の内を悟られぬよう、咄嗟に声のトーンを上げるが、奏音はそんな姉の不安な気持ちを見抜き、困ったように眉を下げた。


「――ねぇ、手術の前に私ができることとか、欲しい物ある?」

「えっ?別にいいよ〜!もう奏音には、たくさんいろんなことしてもらったし……」

「遠慮しないで言いなよ!後でた~くさんっ、恩返ししてもらうからさ!」

 奏音がふざけたように言うと、「え〜……怖いなぁ」と亜梨明も笑う。


「じゃあ……奏音がこっちに来たら、二人で一緒に写真撮りたいな!」

「うん、いいよ!」

「あと、みんなの写真も欲しいな!」

「みんなの写真?この間も撮ったのに?」

「ちゃんと夏城に戻れるように、みんなの写真を見て手術に挑みたいの!」

「わかった……明日、みんなに撮らせてもらうね」

「それから……」

「意外と多いな……」

「ゴメン、つい……」

 奏音は若干口角を引きつらせていたが、やれやれといった様子で鼻から息を漏らすと、「いいよ、言ってごらん?」と、姉のワガママを全て聞き入れようとした。


「あのね、爽ちゃんに伝えて欲しいことがあるの……」

 亜梨明はそう言って、左手で枕元に置いてある懐中時計に触れる――。


「私から……?自分でメッセージじゃダメなの?」

「――うん、奏音から伝えて欲しいの……」

「……なんて伝えるの?」

 奏音が訝し気な表情をしながら伝言を待つ一方、亜梨明は触れていた懐中時計を握り締め、キュッと目をつぶる。


「あのね……っ!もしっ……もしも、私が死んだら――……!」

「――それは、引き受けられない!!」

 張り上げられた奏音の声が、亜梨明の耳をつんざく勢いで言葉を遮る。


 そして、それと同時に通話もプツンと途切れてしまい、亜梨明はハッと息を呑む。


「……か、奏音っ、ごめん!!今の嘘っ!!嘘だから――っ!!」

 亜梨明は慌てて訂正すべく、スマホの受話口じゅわぐち向かって必死に叫ぶ――だが、画面にはすでに『通話終了』の文字が表示されており、奏音の元には届かなかった。


 *


「はぁ~あ、まったくもう……!ほんっとうに、手のかかる姉なんだから!!」


 奏音は、亜梨明から掛かってきた電話の呼び出しをあえて無視しながら、一旦着替えたパジャマを脱ぎ、普段着を纏い始める。


「絶対私からなんて伝えてやんない……!本音は、そんなんじゃないくせに!」

 二回目の荒々しい息を吐いた奏音は、スマホと家の鍵だけ手にすると、玄関のドアを開けて、黄色の街灯が光る夜の町を駆けだした。


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