第198話 手術予定日(前編)
六月十日――朝七時。
相楽姉妹の母、明日香といつものメンバーを含めたグループトークルーム『亜梨明日記』の第一号が配信された。
◇◇◇
皆様おはようございます!
今日から不定期ですが、亜梨明の様子をお知らせさせて頂きます!
東京の病院にやってきてからも、夏城にいた時と同じようにリハビリを繰り返している亜梨明ですが、昨日のお昼のリハビリでは、階段を使って三階まで上り切ることできました。
一見すると「これのどこがすごいの?」という感じですが、リハビリを開始した当初は、体力が低下しすぎて二階に上がることすらできなくなっていたのです。
途中すごくキツそうに手すりにしがみついていた亜梨明も、辿り着いた瞬間は達成感に満たされたように笑っていて、一緒についていた私も大喜びしちゃいました。
下りはエレベーターで戻って、お部屋に帰ったらすぐ寝ちゃいましたが、日に日に体力が戻ってきていることを実感します。
最後に皆さんに大切なお知らせがあります。
六月十四日に、手術をすることが正式に決まりました。
応援よろしくお願いします!
◇◇◇
*
朝休み。
廊下に集まった緑依風、風麻、爽太、奏音、星華の話題はもちろん、今朝の亜梨明の報告についてのことだった。
「亜梨明ちゃん、手術日決定おめでとう~!!」
星華がパチパチと拍手をしながら奏音に言った。
「ありがとう」
「こんなに早く予定が決められたってことは、手術しても大丈夫ってくらい、検査結果が良かったってことだよね?」
緑依風の問いに、奏音は「うん、半分はね」と、少々複雑そうな笑みを浮かべた。
「どういうことだ?」
風麻も奏音の言葉の意味を追求するように、眉を曲げて聞く。
「確かに前より体力もついたし、高城先生曰く成功率も上がったんだけど、心臓の状態はこっちにいる時と変わらないから、これ以上悪くなる前にしようってことなの」
「そっか、まだ喜ぶには早いんだな……」
奏音の説明を受けると、風麻、緑依風、星華はしゅんと肩を落とし、喜びモードから一気に暗くなってしまう。
「でも、大きな一歩だよ!『手術ができない』から『手術ができる』に変わったんだもん!!だから、みんな応援しっかり頼んだよ!」
奏音が励ますように三人に言うと、緑依風達は元気を取り戻して頷いた。
「相楽さん、手術当日は東京に行くの?」
爽太が聞くと「うん」と奏音は返事をする。
「手術は日曜だから、土曜日にお父さんと東京に行って、月曜日はお休みするんだ。期末テストが近いけど、こっちの方が大事だからね……」
「安心して、ノートコピーしたやつ後で渡すから」
「緑依風のノート自分で書くよりわかりやすいから助かるよ〜!亜梨明に私のノート写メで送ってるんだけど、何度も質問されて……。私も勉強得意じゃないから、答えられないところも多くてさ〜……」
「亜梨明、リハビリだけじゃなくて勉強も頑張ってるんだね」
爽太が言うと「うん!」と奏音は返事をした後「あ……でも〜……」と言った。
「わからなくて手付かずの所も増えてきたらしいから、今度から緑依風と日下に勉強教えてもらうかもしれない……」
奏音が申し訳なさそうに言うと、緑依風と爽太は快く引き受けた。
*
東京の病院では、亜梨明が自宅から持ってきたキーボードを音量を小さく設定して弾いていた。
「うーん……やっぱりこっちの方がいいかなぁ……」
亜梨明は、何度も書き直してついた、鉛筆の跡がたくさん残る楽譜とにらめっこした。
この日はリハビリは無く、代わりに午後から麻酔科の診察があった。
「んん~っ……!!はぁ、ちょっと休憩しよ……」
グーンと背伸びした亜梨明は、鉛筆をテーブルに置くと、ベッド横の引き出しから爽太にもらった懐中時計を取り出した。
チクタクと、音を鳴らして進む針が昔は嫌いだったのに、今は夏城で爽太も同じ時間を過ごしていると思うと、離れていても彼の存在を近くに感じて、ずっと見ていたい気持ちになった。
時計を見つめてニコニコしていると、コンコン――と、病室のドアがノックされた。
亜梨明が返事をすると、「やぁ!調子はどうだい?」と、ポロシャツの上に白衣を纏った高城先生が入ってきた。
「あ、ピアノ弾けるの?」
「はい、ちゃんと習ったことは無いんですけど、父が音大出身で、基礎だけ教えてもらって、あとは自己流です」
高城先生は、年季の入ったキーボードを見て、「へぇ〜」と言いながら顎ヒゲを触る。
「今弾いていたのは?お恥ずかしながら、僕は流行りの歌とかに
「今のは……オリジナルです」
亜梨明は照れながら答えた。
「作曲もできるんだね」
「これは……初めて作った曲なんです。――五歳の時……ちょうど、この病院に入院していた時に浮かんで……。でも、未だに完成はしていないんです」
「初めて作ったのに?」
「完成したと思っても、なんだかもっと良い曲に仕上げたくて、何度も何度も修正して……そしたら、ちゃんと完成しないまま、こんなに時間が経ってました」
高城先生は穏やかな笑みを浮かべたまま、亜梨明の楽譜に視線を移す。
端の方は日に焼けて黄色っぽく変色しており、五線譜の周りも、真っ白な部分より消しきれていない鉛筆のグレーの汚れがたくさん残っている。
「もし、大きいピアノが弾きたかったら、術後回復した時にでもプレイルームの方に行ってみたらどうだい?確かここの病院には、グランドピアノがあったはずだ」
「はい、気が向いたら行ってみます!」
高城先生が病室を出て行くと、亜梨明は「ふぅ……」と小さなため息をついた。
亜梨明は元々、夏城に引っ越す前は何度もこの病院に入院していたし、大体の造りは知っている。
旧病棟を改装したばかりのレストランや、飲食店が入っている建物の方は詳しく無いが、ここは彼女にとって『もう一つの家』みたいなものだった。
飲み水を入れている水筒の中身が空っぽだったことに気付いた亜梨明は、給水機のあるデイルームに向かう。
戻って来る途中、彼女のそばをピュンっと駆け抜ける子供達。
亜梨明が今いる場所は、主に十五歳以下の子供が集う、小児病棟――。
数々の出会いと別れを繰り返した、懐かしくもあり、切なくもある場所。
少し離れた場所では、入院生活に飽きた小さな子供達が、この場所に似つかわしくないくらいに、楽しそうにはしゃぎまわっている。
あの中に、かつて自分もいた。
体調のいい日は、健康な子供達と同じようにふざけあって、笑いあった。
でも、一緒に遊んだ子に再び会うことはぼぼ無く、それっきり――。
元気になって、もうここに戻ってくる必要のなくなった子。
永遠の旅へと出てしまった子。
「……早く戻ろ」
つい立ち止まって眺めてしまったが、死んでしまった友のことが頭によぎった途端、胸が詰まりそうになった亜梨明は、自分の病室のある方向へと体を転換しようとした――その時。
「あ………」
一人の男の子が、遊んでいるうちにムキになってしまったのか、一緒にいた子を叩いてしまった。
その光景を目撃した途端、亜梨明は遠い日のとある記憶を思い出した。
亜梨明は病室に戻り、テーブルに置いたままの楽譜を手にすると、その当時――この五線譜に書かれた曲を、初めて人前で披露した日の記憶に意識を辿らせる。
あの日、幼い子供は入場できない小児病棟の外で、久しぶりに奏音と面会できることを楽しみにしていたのに、奏音が前日の晩から風邪を引いてしまったことで、会うのが延期になってしまった。
母も数時間だけ家に戻り、寂しくてピアノを弾くことに没頭していた時、急に鍵盤を乱暴に叩いてきた男の子がいた。
ピアノを独り占めしたことを怒っていたのかと思った亜梨明だったが、何故かそのあとすぐに帰ってしまおうとするその子が、なんだか泣き顔に見えて、咄嗟に思い付いたのが、作ったばかりの曲を披露することだった。
「あの子は今……元気にしてるのかな?」
顔も声ももう全く覚えていないけど、演奏を終えた後に褒めてくれたことが、とても嬉しかった。
どこが悪くて入院していたのか、どこに住んでいるかも名前も知らない、その時だけしか会ったことのない少年にもし再び会えたなら、亜梨明はいつかこの曲を完成させて、もう一度聴いてもらいたいと思うのだった。
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