第197話 自分勝手な気持ち


 五時間目の授業が開始されて、約三十分が経過している。


 カッ、カッ、と教科担当の先生が黒板に文字を書き記していく音と、説明する声――それを生徒達がノートに写すシャーペンの音の中で、風麻はずっと、緑依風や晶子に言われたことを考え続けていた。


 普段なら、お腹も満たされ眠くなってくる頃合いなのだが、この日は何度も晶子の厳しい言葉が脳内で再生されて、居眠りどころではない。


 ただし、起きてはいるものの、授業に集中しているわけではないので、ノートはいつもと同じくほぼ真っ白なのだが……。


「(向き合う……な)」

 晶子に言われた、『緑依風の気持ちと向き合う』こと。


 爽太に緑依風の好意を知らされたばかりの時は、予想だにしていないことを知って気が動転してしまい、日が経ってからも、彼女の気持ちを深く理解して考えようとは、全く思っていなかった。


「(違うな……満足して、安心しちまったんだ……)」

 他人ではなく、自分を好きでいてくれることに――。


 緑依風の心が自分に向いている間は、彼女が自分から離れることはない。

 今まで通りでいられるだろうと、油断しすぎていた。


 だが、緑依風は違った。

 亜梨明の見舞いに行った時――彼女はすでに“幼馴染で親友”の関係が続けば、共に過ごす日に終わりを見据えていた。


 一緒にいるのが当たり前なんて、どうして信じていたんだろう。


 楽しい日常は全国あちこち、誰かの元で突然終わりがやって来るというのを、ニュースなどで見聞きしても、いつも他人事。


 それと同じで、毎日緑依風と顔を合わせるのも、彼女が自分を好きでいることも、瞬きしたと同時に終わる可能性だって、充分ありうるのに。


 風麻は軽く目を閉じ、緑依風と出会ってから過ごした日々を、断片的に思い出してみる。


 人見知りで恥ずかしがり屋の頃の緑依風。

 小学生になって、これからは互いに呼び捨てで呼ぼうと決めた日の緑依風。

 両家揃って訪れたキャンプで、好き嫌いをまるで母親のように咎める緑依風。

 運動会の練習中、転んで怪我をしたら、真っ先に走って来て絆創膏をくれた緑依風。


 亜梨明のことが好きだと告げた後、自分の気持ちを押し殺しながら、恋路を応援してくれた緑依風――。


 緑依風は風麻のために、いつも一生懸命だった。


 風麻はこれまで、腐れ縁だから、きょうだいのような仲だから当然と感じていたことは、全部当たり前ではなく特別で、緑依風が好きでいてくれるからこそのものだったと理解する。


 そして、自分が『めんどくさい』『口うるさい』と悪態をつきながらも、彼女の小言を本当に嫌だと思ったことは無いことも――。


「(あぁ、そっか……。俺があいつに一番安心して気を許せるのも、あいつと一緒にいるのが楽しくて心地いいって思えるのも、全部……全部、俺のことを想ってくれる緑依風が作ったものなんだ……)」

 風麻がそう実感した時だった――。


 自分以外のクラスメイト全員が、席から立ち上がって正面を向いている。


「……ん?」

「坂下、起立だって……」

 後ろにいた奏音に声を掛けられ、考え事をしているうちに授業が終わっていたことにやっと気が付いた風麻は、慌てて椅子から立ち上がった。


 *


 部活が終わった風麻は、自分の家に帰らず、先に松山家を訪れることにした。


 ドアを開けてくれた緑依風に部屋に通されると、風麻はもう一度前日の件について謝り、今度は変に誤魔化さず、理由をきちんと説明する。


「――そういう話が、男子だけだとあるからさ、心配……だったんだよ」

 風麻が首を掻きながら恥ずかしそうに話すと、緑依風も頬を紅潮させながら、「そうだったんだ……。大丈夫だとは思うけど、気をつけるね」と言った。


「それから昼間の……」

「やめんなって話?」

「うん……」

「……やめなくていいの?」

「なんで?」

 風麻が首を傾げると、対面に向き合って座る緑依風は、自信なさげに重い口を開く。


「……だって、風麻は私のこと好きじゃ無いのに……。風麻に私の気持ちが迷惑とか、気持ち悪いって思われるくらいなら、やめようかなって……」

「そんなことはない!」

 風麻は上半身を乗り出すようにして、緑依風に言った。


「え……?」

「そりゃあ……知った時は驚いたし、俺にとってお前は、姉ちゃんみたいな、妹みたいな……きょうだいって感じの存在だったけど……」

「…………」

「――でも、お前に対しての気持ちがちょっとずつ変わってる気がするんだ……。今は、ただの幼馴染でもなく、恋愛したいわけでもなく……真ん中のとこ。……俺自身も、どっちなのかわからない……」

 風麻は体勢を戻しながらズボンの布地をギュッと握り締め、手にかいた汗を拭う。


「……多分俺は、お前といるのに慣れ過ぎちゃってるんだ。家族でも親友でもあるような関係が長すぎて、色んなもんが混ざった状態……。でも、これからはお前をそういうのじゃなく、ちゃんと『一人の女の子』として見るし、お前が俺のために色々してくれること、好きでいてくれることは嫌じゃない、嬉しいから……。だから、さ……やめるとか寂しいこと……言うなよ」

 最後の方の声は、小さく弱々しくなった。


 風麻は緑依風の反応を伺うように、恐る恐る彼女の顔を見るが、緑依風はすぐに返事をせず、しばらく何かを考えているようだ。


「……――なんかもう、めちゃくちゃだね。……ワガママ」

 ようやく出てきた、緑依風の一言。


「晶子にも言われた……」

 風麻が苦笑いして言うと、緑依風は「でも、少し嬉しい」と僅かに微笑んだ。


「私はずっと……風麻に気付いて欲しいって思いながら、気付いて欲しくないって真逆のことを考えてた。知ったあんたにドン引きされて、嫌われるって思ってたから」

「嫌うわけねーじゃん。めちゃくちゃ驚きはしたけど」

 風麻はそう言ってだらりと姿勢を崩し、ホッと息をついた。


「でも風麻、一つ約束して欲しいの」

「約束?」

「あの時止めておいて言うのもなんだけど……もし、今度また新しく好きな人ができたり、私の気持ちが嫌になったら……その時はちゃんと振ってね。じゃないと私、一生風麻を想い続けたまま歳を取っちゃうから……」

「…………」

 寂しげな笑みを浮かべて小指を差し出す緑依風に、風麻は一瞬躊躇ためらったが、彼女の覚悟を汲むと「わかった……」と自分の指を差し出す。


「ゆーびきーりげーんまん!!嘘付いたらそん時は風麻の顔思いっきりブンな~ぐるっ♪」

 緑依風は明るく歌いながら腕を数回強く降り、ブチっと音がする勢いで指を切った。


「いってぇ~~っ!!お前っ……それが好きな男にすることか!」

 風麻はジンジンと痛む指を擦りながら、涙目で言った。


「あはははっ!」

 緑依風は立ち上がり、「はい、おやつ」と机の上にあるカゴから、焼き菓子を一個風麻に渡した。


 床の上に座っていた二人は、いつも通りベッドを椅子代わりにして横に並び、焼き菓子を頬張る。


 こうして過ごす時間が、永遠に続くのか――それとも、近い将来終わりを迎えるのか、今の風麻にはまだわからない。


 ただ、ずっと変わらないで欲しいと願っていた、緑依風との関係を風麻は今、共にあり続けるために『変えたい』と願っていた。


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