第192話 旅立つ君に贈るもの(後編)


 六月六日――。

 いよいよ、亜梨明が東京の病院に転院する日がやって来た。


「ヘリコプターに乗るなんて初めてだよ」

 亜梨明は朝からそわそわしながら、空を飛ぶイメージをしていた。


 東京の病院には車で行くと時間がかかり、亜梨明の体の負担が増えるので、一番近いヘリポートのある病院まで救急車で移動し、そこからドクターヘリに乗って行くのだ。


 幸いにも、今日は土曜日で学校は休み――。

 旅立つ前に、爽太や緑依風達は病院まで亜梨明のお見送りに来てくれるらしい。


 奏音は、呑気なことを言う双子の姉を笑いながら、彼女の長い髪の毛をブラシで梳いてあげた。


「……奏音、ごめんね」

「ん?」

「私が戻るまで……お母さんもずっと私に付いててくれるでしょ?奏音とお父さんに、お母さんが留守の間の家のこととか、ご飯のこととか……」

 亜梨明が夏城に戻るまでの予定期間は、約三か月くらいになるだろうと、家族は説明を受けている。


 一昨年まで東京に住んでいた頃は、数時間だけ明日香が家に戻ったり、泊まり込みの看病であっても、近くに住む祖母などの手助けを受けていたが、今回は完全に奏音と父の二人だけでやりこなさなくてはならない。


「ん~……まぁ、なんとかやるよ。やるしかないもん」

「はぁ~ぁ……。なんか、本当に私は家族に迷惑ばっかりだね……」

「…………」

 亜梨明が申し訳なさそうに肩を落とすと、奏音は無言でブラシを振り落とし、彼女の頭を叩いた。


「いった~いっ!!!!」

 ゴンっと鈍い音の後、亜梨明の叫びが病室の外の廊下まで響く。


「ちょっ……ヘアブラシって結構痛いんだよっ!!?」

 亜梨明は叩かれた頭頂部をさすりながら怒った。


「もーっ!しばらく会えないのに、ひどいや!!」

「これが最後の迷惑でしょ?」

「えっ……?」

 奏音は振り返る亜梨明を正面に向き直らせると、先程より少し荒っぽい動作で、彼女の髪を再び梳き始める。


「あんたが元気になってくれるんなら、そんなのいくらだって頑張れるし、あんただって向こうに渡ってからの方が大変なんだから、しっかり頑張ってよ……!」

 奏音は仕上げに亜梨明の髪を手でふんわりとまとめると、「はい、終わりー」とブラシを鞄に投げ入れ、ファスナーを閉じた。


「ふへ、えへへ……!」

 亜梨明は腑抜けた声を出しながら、まだじんじんと痛む頭を嬉しそうに撫でた。


 *


 手続きを済ませた両親が病室に迎えに来ると、亜梨明は奏音に車椅子を押してもらって、病院の外に移動する。


 正面出入口の自動ドアが開くと、すぐそばのベンチの前で緑依風、風麻、爽太、星華が待っていた。


 院内の庭の花壇を背景に記念撮影をすると、いよいよ亜梨明の旅立ちの時が迫る。


「夏休みになったら、みんなで会いに行くね」

 緑依風は亜梨明に握手しながら言った。


「寂しいけど……元気になって戻ってくるの待ってるね……」

 星華は目をうるうるさせて、しばしの別れを惜しんだ。


「相楽姉がいない間、爽太が他の女子に誘惑されないよう俺がしっかり見張っておくから、安心して治してこいよ!」

 風麻がクイッと爽太を親指でさしながら言うと、亜梨明は「うん!」と笑った。


 そして――……風麻が亜梨明から離れて後ろに下がると、爽太が入れ替わるように前に出て、亜梨明に近付く。


「――亜梨明」

「爽ちゃん……」

「これ……もらって欲しいんだ」

 爽太は亜梨明の目線に合わせるように地面に片膝を着くと、後ろ手に持っていた箱を彼女に差し出した。


「開けてみて」

「…………!」

 亜梨明は爽太から受け取った小さな箱を開けると、ハッと息を呑んで彼の目を見る。


「これって……」

「亜梨明が時計を嫌いなのは、時間が過ぎるのを見て、自分だけ周りの人に置いていかれる気持ちになるから……だよね?」

「うん……」

 亜梨明が複雑そうに頷くと、爽太は「でも、大丈夫……」と言って、彼女が開いた箱から懐中時計を取り出した。


「これからは亜梨明だって、みんなと一緒に未来に歩いて進めるんだ。そのために東京に行くんだろ?」

 爽太は亜梨明の手を掴み、その上に懐中時計をそっと乗せると、何かを決心したような、優しくも厳かな顔つきで、亜梨明を見つめる。


「去年、亜梨明に言ったこと――あれは、今も変わらないから……」

「えっ?」

「……止まりそうになったら、僕が亜梨明を引っ張る。絶対、時間の中になんて置いていかない。病気が治っても……大人になっても、もっともっと先の未来まで……」

「…………!」

「――お互いが、おじいちゃんとおばあちゃんになっても……僕はずっと亜梨明の隣で、君と同じ時間を過ごしたい……。だからこれは――……その誓いの証として受け取って欲しい……」

 爽太が懐中時計を乗せた亜梨明の手を、両手で包み込みながら気持ちを告げると、亜梨明はポロポロと大粒の涙を零し「うん……うん……っ!」と、感極まった様子で何度も頷いた。


「爽ちゃん、爽ちゃん……っ!私、絶対元気になる……!治って……絶対ここに戻ってくるから!」

「うん」

「時計、ありがとう……!お守りにするね!」

 亜梨明はぐしゃぐしゃになった顔のまま、笑顔で爽太にお礼を言った。


「あ〜あ……。亜梨明の顔ヤバいよ~……よく見たら鼻水も出てるし……」

 奏音が腰に手を当てて言うと、「うそっ……!やだぁ~っ!見ないでぇ~っ!!タオルとってぇ〜〜……!!」と、亜梨明は未だ溢れ続ける涙としゃくりを必死に抑えようとしながら、奏音に手を伸ばす。


「あははっ、泣きすぎじゃない?」

 爽太は、亜梨明の涙を自分の手のひらで拭いてやり、楽しそうに笑う。


「爽ちゃんのせいだもん〜〜っ!!」

 タオルを受け取った亜梨明は、これ以上みっともない姿を見られぬよう、顔を覆い隠しながら叫び、そんな彼女を中心とした周囲の空気は、和やかで瑞々しく――空から降り注ぐ日の光を受けて、キラキラと輝いていた。


 *


 出発の時刻まで残り僅かとなった。

 亜梨明は家族と救急車に乗り込む前に、もう一度爽太や友人達の顔を目に焼き付ける。


「……じゃあ、行ってきます!」

 泣き腫らした目を細めて、微笑みながら手を振る亜梨明に、四人も手を振り返して、彼女を元気よく送り出した。


 救急車の赤いライトが灯り、サイレンが鳴らされると、爽太は動き始めた救急車を追いかけるように走り出し、風麻や緑依風、星華も一緒になって、彼の後ろを駆けて行く――。


 やがて、スピードを上げていく救急車に追いつけなくなってくると、爽太は病院の敷地外に出た所で走るのをやめ、遠く――小さくなっていく救急車を真っ直ぐ、力強い瞳で見つめていた。


 元気になった亜梨明が、必ずこの町に戻って来てくれるのを信じている――。


 そんな彼の横顔に、風麻はすっきりしたような表情で目を閉じ、深く息を吐いた。


「……さて、帰るか」

 風麻が言うと、緑依風、爽太、星華は返事をして病院を後にした。


 *


 星華、爽太とそれぞれ別れた後――風麻は、両手を後頭部に回しながらゆっくりと歩き、緑依風は彼の半歩後ろをついて歩く。


「なぁ、緑依風……」

「ん~……?」

「好きな人の恋の応援っていうのは……すごく勇気がいるな」

 青空と白い雲を眺めながら、風麻が独り言のように語りかける。


「風麻……大丈夫……?」

「余裕!――さっきので、やっと完全に吹っ切れたって感じだ!」

「そう……」

 すると風麻は、「お前も、こんな気持ちでずっと応援してくれてたんだな……」と言って、ピタリと足を止めた。


「ん……?」

 言葉の意味がわからない緑依風が顔をしかめると、風麻は緑依風のいる方向へくるっと振り返る――。


「お前、俺のこと好きなんだろ?」

「へっ、えっ……!?……――あ、あんた知ってたのぉ〜っ!!?」

 緑依風は驚いて、大きな声で聞き返した。


「爽太に聞いた」

「あ……もぉ〜……日下のバカっ!」

 緑依風は片手で頭を押さえながら、この場にいない爽太に悪態をついた。


「今までごめん……。でも俺っ――お前のことは……!」

「――それ以上言わないで!!」

 緑依風はすかさず風麻の口を手で塞ぎ、彼の言葉を遮る。


「~~~~っ」

 緑依風はむ~っと唇を結び、上目遣いで風麻を睨みつけると、真っ赤な顔になりながら脱力していき、ゆっくりと彼の口から手を離した。


「……いいよ、知ってた。あんたが私に対して何とも思ってなかったこと……」

「…………」

 俯き、寂しそうな声色で言われて、風麻は罪悪感に言葉を無くす――が。


「――でもね、私……まだ諦めてないから!」

 緑依風はすぐさま強気な顔つきになり、再び風麻を睨む。


「へっ?」

「あんたに振り向いてもらうように、私、これから頑張るから!!」

 思わぬ発言を受け、ポカンとする風麻に、緑依風が今度は狙いを定めるように、ビシッと彼の前に指先を突き出す。


「……だから、覚悟して!」

「…………」

「~~~~っ!」

 喉奥から絞り出すような声を漏らし、ますます顔を赤く染めていく緑依風を見て、風麻は「ははっ」と笑いながら、右手をポケットの中に入れた。


「わかった……覚悟しとく」

 風麻がそう言うと、緑依風は恥ずかしそうにプイッと顔を背けて、自宅のある方向へと歩き出した。


 そんな緑依風の姿を目で追う風麻に、彼女を『可愛い』と思う感情が芽生える。


 それは今までの風麻なら、緑依風に対して感じたことのない――初めての気持ちだった。


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