第191話 旅立つ君に贈るもの(中編)


 空がすっかり真っ暗になる頃――。


 皆お腹がいっぱいになったようで、椅子に腰かけたり、立ったまま会話を続けたりして、ケーキを食べる前の食休みをしていた。


「あれ……?亜梨明ちゃん……なんか顔色悪くなって来たよ?具合悪い?」

 ウーロン茶を飲み干した立花が、亜梨明の異変に気付いて心配する。


「そんなことないよ……。暗くなってそう見えるだけじゃないかな?」

「でも……」

「本当にっ、ホントに大丈夫だから……!」

 亜梨明は首を振って大丈夫と訴えるが、奏音は「椅子に座っているだけでも疲れるよね……ちょっと横になろう?……お父さーん!」と父を呼び、亜梨明を部屋へ運ぶように頼んだ。


「もっとみんなとお喋りしたいのに……」

「ケーキ食べる時に、また迎えに行くから」

 しょんぼりと落ち込む亜梨明に、奏音は機嫌を取るように言う。


「すみません。少し休ませてきますから、みんなはそのままゆっくり過ごしてください」

「…………」

 真琴に抱き上げられると、亜梨明の目に心配した表情の爽太が映り、この場を離れたくない気持ちが、より一層大きくなる――。


 真琴はみんなに一礼すると、亜梨明を彼女の部屋まで連れ運び、そっとベッドの上に降ろした。


「亜梨明、休まなきゃいけない時は休むって……南條先生に言われただろ?」

「……うん」

 亜梨明が渋々横になると、真琴は少し蒸し暑い部屋の空気を入れ替えるために窓を開け、ベッド横にある温かい色合いの間接照明のスイッチを入れた。


「お父さん……」

「どうした、寒いかい?」

「ううん……私、ひとり……?」

「いや、すぐお母さんに――……」

 ――と言いかけて、真琴はすぐ言葉を止めた。


「……ちょっとだけ、待ってて」

 真琴はそう言い残し、亜梨明の部屋を出ると、彼女が今一番そばにいて欲しい人物の元へと近付き、声を掛ける。


「日下くん」

「はい……?」

 晶子と話をしていた爽太が、真琴に振り向く。


「あの……もし、迷惑じゃなければ……亜梨明のことを看ててくれないか?」

「僕が……ですか?」

 爽太がキョトンとしながら聞き返すと、真琴は静かに頷いた。


「亜梨明を一人にしておくのは不安だし……でも、おじさんは炭の始末をしなきゃならないし……おばさんは、食器の片付けがあるだろ?……その、亜梨明も……君と一緒がいいだろうから……」

「…………!」

 爽太は少し驚いたように目を見開くが、真琴がヘラリと表情を崩すと、「わかりました」と返事をして、家の中へと入っていった。


「お父さんすごいねー……。普通、年頃の娘と彼氏をわざわざ二人きりにする父親なんていないよ〜」

 近くでそのやり取りを見聞きしていた奏音は、そろそろと父親のそばにより、顔を見上げながら言う。


「まぁ、普通はそうなんだろうけど、日下くんは信頼できる子だと思ってるよ。それに……好きな人のそばに居たい気持ちは、父さんだって知ってるんだぞ?懐かしいなぁ……初めて会った時の母さんは、ひいおじいさんを預けた介護施設の介護士で、そこで父さんは一目惚れして――……」

「あー……親の惚気話程聞きたくないものは無い……」

 突然語り出す会話の内容が聞こえぬよう、奏音は耳を塞ぎながら真琴の元を離れた。


 *


 庭に面している部屋の窓のカーテンが、夜の風にふわふわと揺れる。


 亜梨明がベッドの上で目を閉じ、外から聞こえる友人達の話し声や食器を片付ける音に耳を傾けていると、コンコンコン――と、ドアがノックされた。


「どうぞ」と、亜梨明が返事をすると、ゆっくり開かれるドアの向こうから現れたのは、爽太だった。


「あれっ、爽ちゃん――?」

 亜梨明が驚いて起き上がろうとすると、爽太は「あ……寝てて」と言いながら、静かにドアを閉める。


「びっくりした……お父さんが戻って来ると思ってたよ」

「おじさんが亜梨明を看てて欲しいって」

 爽太が床に座りながら説明した。


「ごめんね……爽ちゃんみんなとお話したかったでしょ?」

「いや……亜梨明のことが気になってたから、おじさんに感謝だよ。しばらく会えなくなる前に、少しでも多く亜梨明と一緒に居たかったし……具合はどう?」

「横になったら楽になったよ」

「よかった……」

 爽太は安心したように微笑みながら、羽織っている薄いベストのポケットに手を入れ、その中にある小さな箱に触れる――。


 箱の中には、亜梨明への贈り物が入っていて、先程から何度も渡すタイミングを見計らっていたのだが、何と言って渡そうか――言葉をなかなか決められずにいたのだ。


「――ねぇ、爽ちゃん……」

「なに?」

 爽太が少しドキッとしながら返事をすると、亜梨明が布団の中から小さく細い手を出し、彼の前に伸ばす。


「手……握ってもらっていい?」

「……いいよ」

 爽太はベッドに上半身を乗り出し、伸ばされた彼女の手を優しく握ると、ひんやりとした彼女の手を温めるように、もう一つの手も添えて包み込むようにした。


「爽ちゃんの手はいつもあったかいね……」

「僕だって昔はいつも手足冷たかったよ。でも、治ればきっと、亜梨明もあったかくなるよ」

 亜梨明は小さく頷き、ゆっくり目を閉じた。


「治ったら……また学校に行きたいなぁ」

「うん」

「それから、またみんなと遊びに行きたい……」

「うん」

「バレーボールも……やってみたいな」

「うん……教えるから」

「ピアノも弾きたい……」

「僕も、亜梨明のピアノがまた聴きたい……」

「それから……爽ちゃんとデートしてみたいな」

「いいよ、行こう。亜梨明が行きたい所、連れて行ってあげるから……」

 爽太が言うと、亜梨明は「ホント!?」と、目を開けて彼の顔を見上げた。


「うん……。僕も亜梨明とやりたいことがたくさんあるんだ」

「何がしたい?」

「そうだなぁ……。二人きりでお出かけしたり……ゆっくりお話したり……美味しいものを食べたりとか……」

「ふふふっ……」

「どうしたの?」

「なんだか……想像したらすごく楽しそうで……」

 亜梨明の頭の中には、元気になった自分が、爽太の言ったことを一緒にする姿が浮かんでいた。


「二人で楽しいって思えること、いっぱいしよう。ずっと、ずっと――……」

 爽太は自分の頬に、握ったままの亜梨明の手をそっと当てた。


「うん……」

 亜梨明は満たされたように深く息を吐き、大きな瞳で爽太を見つめる。


「ねぇ、爽ちゃん……」

「なんだい?」

「大好き……」

「うん……僕も大好きだよ」

 爽太はそう言って、片手を握ったまま、横になった亜梨明に覆いかぶさるように優しく抱き締めると、亜梨明ももう片方の手を爽太の背に回し、笑顔のまま再び目を閉じた。


 *


 しばらくすると、亜梨明の部屋のドアが再びノックされ、「入るよー!」と言う声と同時に、奏音が入ってきた。


「しーっ……」

 爽太は振り向きながら口元に指を立て、奏音にやんわりと注意した。


「亜梨明、寝ちゃったんだ……」

「あれまぁ……」

 奏音が静かに二人の元へと近寄ると、爽太の手を握り締めたまま、とても幸せそうに微笑みながら眠る亜梨明の姿があった。


「そろそろケーキ食べるから呼びに来たんだけど、やっぱり疲れたのかな?……でも、すごくいい顔して寝てる!」

 奏音はクスッと笑いながら亜梨明の寝顔を眺める。


「見張りはお母さんに交代してもらうから、日下は庭においでよ」

「わかった」

 爽太は亜梨明を起こさないように、ゆっくりと手を離した。


「まぁ、本当……こんなに柔らかい表情で眠ってるのなんて、初めて見たわ」

 奏音に呼ばれてやって来た明日香も、亜梨明の寝顔を見て笑っている。


「日下くん、亜梨明に付き添ってくれてありがとう。みんなと一緒にケーキ食べてね」

「いえ、僕も一緒に居られて嬉しかったので……」

 爽太が奏音と共に庭に戻り、部屋には亜梨明と明日香の二人きりになった。


「――よかった。私は亜梨明を不幸に生んでしまったとずっと思ってたけど……あなたは幸せなのね……」

 明日香は亜梨明の頭を撫でて、これまでのことを思い返した。


「なんでわたしはダメなの?」

「なんでかのんはげんきなのに、わたしはげんきじゃないの?」


 小さな亜梨明に問われる度、亜梨明が発作に苦しんだり痛みを伴う治療に大声で泣く度、明日香は何度も心の中で、亜梨明に謝り続けながら育ててきた。


 不幸に生まれてしまったあなたを、どうやったら幸せにできる――?


 今はその考えが間違いだったと思える。


 亜梨明は最初から、不幸になんて生まれていない。

 同じ痛みを分かち合える人に出会い、幸せを掴む運命を持って、私の元に来てくれたんだ。


 苦労ももちろん絶えなかったけど、爽太と出会い、今こうして幸せに満ち足りた娘を目にして、明日香の胸に熱いものが込み上げてくる――。


「…………?」

「あら、起こしちゃった……?」

 亜梨明はゆっくり目を開けて、部屋の中を見回す。


「お母さん……爽ちゃんは?」

「みんなとケーキ食べてもらってるわ」

「私も……」

「うん、食べましょ……」

 明日香は亜梨明を背中に掴まらせると、ゆっくりと立ち上がって、後ろを振り返る。


「亜梨明、最後まで……お母さんも一緒に頑張るから、絶対元気になろうね」

「うん……」


 *


 ケーキを食べ終わり、八時半を過ぎた頃――。

 パーティーはお開きとなり、亜梨明は両親と共に病院へと戻っていった。


 みんなは、一人留守番をする奏音ともう少し一緒にいるために、残った片付けを手伝いながら、雑談をした。


 片付けも全て済ませ、帰り支度を始めていると、星華が「そういえば日下、亜梨明ちゃんにプレゼントは渡せた?」と、質問した。


「それが……タイミングを逃しちゃって、渡せなかったんだ」

「何?亜梨明に何か渡したかったの?」

「指輪だよ、指輪っ!!」

 星華が奏音に興奮気味に話すと「指輪じゃないよ」と爽太は言った。


「なんか……指輪はこれだと思うものが見つからなくて……。でも、それよりもっと贈りたいと思えるものがあったから、そっちにしたんだ」

「指輪より贈りたいものぉ~?何それ……?」

 星華は不満げな様子で眉を曲げる。


「懐中時計」

「はぁっ!?」

「えっ……!?」

 爽太がベストのポケットから小さな箱を取り出しながら言うと、星華は「なんでそんな物……」と呆れた顔を、奏音は「あ~っ……どうしよう……」と、気まずそうな顔になった。


「日下……あのね、買ってもらっておいて言いにくいんだけど……亜梨明……昔から時計が嫌いで――」

「うん、知ってる」

「え?」

 爽太は手に持った箱に視線を移した。


「亜梨明が時計を嫌いなことも、嫌いな理由もちゃんと知ってる……」

「嫌いなのわかってて買ったの?」

 あの時、爽太が時計を選んだのを間近で見ていた緑依風も、口を開けてポカンとした表情になった。


 亜梨明への特別な贈り物に、わざわざ苦手なものを選んだ爽太を、緑依風も風麻も星華も立花も、信じられないといった目で見る中、ただ一人、晶子だけはクスクスと声を上げ、おかしそうに笑う。


「日下くんは、ロマンチストですね!」

「?」

 爽太以外の全員が、疑問符を頭に浮かべたような面持ちで晶子に振り向く。


「日下くん。もしかして、好きな人に時計を贈る意味……知っていましたか?」

「うん、だからこれにしたんだ」

 爽太がにっこりして答えると、晶子は更に大きな笑い声を上げた。


「んん~っ?どういうことだ?」

 風麻がとても気になる様子で、爽太と晶子を交互に見る。


「男性が恋人に時計を贈るということは、相手と時間を共有したい気持ちの表明……――つまり、『一緒に同じ時を歩もう』という意味が込められているんですよ!」

 晶子が説明すると、爽太は照れるように頬を染め、そして――彼以上に風麻や他の者達が全身を一気に火照らせ、「ぎゃあぁぁぁぁ~っ!!!!」と絶叫しながら悶絶した。


「うわぁ~っ!恥ずかしいっ……!!日下はやっぱり恥ずかしいよぉぉ~!!!!」

「正直、指輪より重いっ!!私、直希にそんなことされたら恥ずかしさで死ぬ!!」

 星華と立花は床に転がり、顔や頭を抱えてじたばたしながら叫び続けた。


「お前……やっぱりすごいわ……」

 風麻も苦笑いをしながら、爽太に畏敬いけいの念を抱いた。


「――でも、その意味……亜梨明が知ったらきっと喜ぶかも。……東京に行くまでに渡してあげてね」

「うん……」

 奏音に言われると、爽太は手の中にある箱をキュッと握り締めて頷いた。



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