第189話 鼓動


 中間テストが終わった日の放課後。


 最終日のテストは二教科のみで、部活も無いため、爽太は終礼が済むと同時にすぐ学校を出て、夏城総合病院へと向かった。


 亜梨明が東京に旅立つまで残り僅か――。


 さすがにテストの前日と初日は見舞いに行けなかったが、可能な限りは亜梨明に会って、一緒に居ていたいと思い、少し急ぎ足で病院までの道のりを歩く。


 亜梨明の病室前に到着した爽太は、コンコンコンと、ドアを三回ノックする――が、部屋の主である亜梨明の返事は無く、シーンとしたままだ。


「そっか……まだこの時間なら、リハビリ中かな……」

 爽太はスマホの画面で時間を確認し、リハビリ室へと移動する。


 一階のリハビリ室の廊下まで辿り着くと、爽太の予想通り、理学療法士の先生とバトミントンをしている亜梨明の姿が見えた。


 バトミントンといっても、先生がふわりと軽く打ったシャトルを、その場に立ったまま打ち返すだけの、ラリーにもならないもので、心臓への負担はそれほど大きくない。


「じゃ、もう一回行きますよ~」

「はーい!」

 ポンっと、先生がラケットでシャトルを下から打つ。


「ていっ!」

 タイミングを見計らった亜梨明がラケットを上から振り下ろす。

 ――が、ラケットは何も打ち返さず空気の音だけが鳴り、床にはすでにシャトルがコロリと揺れて落ちていた。


「あ……先生っ、今のナシです!!もう一回ね!次は当たるから!!」

 そう言って、シャトルを拾う亜梨明だが、その後も彼女は二、三回に一度しか打ち返すことができず、その度に「あれ?」と前後左右をキョロキョロ見回し、シャトルの行方を探していた。


「――っふ、ふふふ……っ!」

 その姿があまりに可愛くて面白くて、堪えきれなくなった爽太が息を漏らして笑うと、彼が背後にいることに気付いた亜梨明は、「あーっ!笑ったーっ!!」と怒りながら、落ちたシャトルを摘まみ上げ、爽太の元へと近付いた。


「だって……亜梨明がラケットを振った時、もうシャトルは落ちてるんだもん」

 爽太はお腹を押さえ、目尻に滲んだ涙を拭きながら、ふくれっ面になる亜梨明に言った。


「これ難しいんだよ?爽ちゃん体育でやったことある?」

「僕はラリー得意だよ」

「…………!」

 ガーンという効果音が流れてきそうな反応を見せる亜梨明に、爽太はまた笑い出し、少し離れた所にいる先生も、「ははっ」と声を上げて微笑ましそうに二人のやり取りを見つめていた。


 *


 タイミングよく、リハビリ終了の時間になったので、爽太は亜梨明が乗る車椅子を押しながら、共に彼女の病室へと戻ってきた。


「テストどうだった?」

 ベッドに上がった亜梨明が、車椅子を部屋の隅に置く爽太に聞いた。


「全部埋めることはできたけど、松山さんに勝てるかはまだわからないなぁ~。今年こそ勝ちたいとは思ってるんだけどね!」

「一番と二番の勝負なんて、私には遠い話だなぁ~……」

 亜梨明はそう言いながら、引き出しから筆記用具とノート、教科書を取り出すが、声と表情が先程よりも元気が無いことに爽太は気付き、「体、大丈夫?」と労わる言葉を掛ける。


「うん、ちょっと疲れちゃってるかな……。でも、リハビリは終わったし、座ってるだけだったら大丈夫だよ」

「今日は勉強やめとこう?疲れたなら寝たほうがいいよ」

 爽太は鞄から出したばかりの勉強道具をもう一度しまおうとするが、亜梨明は「ううん」と首を横に振った。


「東京に行く前にもう少し勉強しておきたい。向こうで自分一人じゃだらけちゃいそうだし、また学校に行くようになって、遅れまくってるのは嫌だもん……」

 ペンを握り、やる気を見せる亜梨明。


 しかし、やはり疲れのせいなのか、勉強開始から十分も経たずに亜梨明はウトウトとして、何度も目を閉じては開くを繰り返す。


「……ほらね、やっぱり今日はお休みしよう」

 爽太は開いていた教科書を閉じ、勉強会を中止しようとしたが、亜梨明は「やだ、ちゃんと、勉強する……!」と言いながら、小さい子供がぐずり出すようにイヤイヤと何度も首を振る。


「眠い時にやっても頭に入らないし……」

「だって、勉強やめたら、爽ちゃん帰っちゃうでしょ……?」

「…………!」

 ギュっと、自分の服の裾を掴んで訴える亜梨明を見て、彼女がただ勉学の遅れを気にしているのではなく、自分と一緒に居たいが故に無理をしようとしていることに気付いた爽太は、亜梨明の細い手に触れ、「わかった」と言いながら、にっこりと微笑んだ。


「じゃあ、もう少しだけここにいるから、後でちゃんと寝てね。もうすぐ誕生日会やるんだろ?」

 爽太に説得されると、亜梨明はトロンとしたまぶたのまま「うん」と返事をした。


「……転院の日まで、あと十日かぁ……。爽ちゃんがここに来てくれるまでの時間はすごく長く感じるのに、ここから東京に行く日を数えると、一日が、すっごく早く終わっちゃう気がするの……」

「そうだね……。待っているものがある時はその時間までの距離が遠くて、終わって欲しくない時間は、一瞬でやって来る。不思議だね……」

「うん、手術は……――手術の時間は……すぐに終わって、すぐに目を覚ませるかな……?」

 予定では六時間から七時間。

 長引けば、十時間以上になる可能性もあると、亜梨明は説明を受けていた。


「僕の時も、時間はかなりかかったらしいけど……案外、あっという間だよ。麻酔で眠って、目が覚めたら、亜梨明もきっと――……」

「ねぇ、爽ちゃん……」

 亜梨明が不安げな声で、爽太を呼ぶ。


「ん……?」

「……爽ちゃんの心臓の音……聞いてもいい?」

「僕の……?」

 爽太は亜梨明の意外な頼み事に、ぱちくりと瞬きをし、不思議そうに首を傾げる。


「うん、いいかな……?」

「…………」

 爽太は黙ったまま頷き、座っていた椅子ごと亜梨明に近付くと、彼女の頭を優しく撫でた後、自分の胸元へと招き入れた。


 亜梨明は、小さく「ありがとう」とお礼を言って、爽太の左胸へと耳をくっつける。


 トクン、トクン――と、規則正しく鳴り響く爽太の鼓動を、亜梨明は目を閉じて聞き入った。


 これから自分も辿る険しい道を先に乗り越え、生き続ける爽太。


 触れている部分から伝わる彼の優しい温もりは、亜梨明に安心感を。

 そして、強く脈打つ心音には、「きっと私も大丈夫」という勇気を与えてくれた。


 埋めた部分から漂う、甘くも爽やかで清涼感のある匂い――おそらく、彼が愛用している制汗剤の匂いなのかもしれないが、その香りも彼の人柄を表しているようで、亜梨明は心地よさのあまり無意識に横顔をすり寄せ、より深く、彼の胸へと身を任せた。


 すると、トクントクンとしていた爽太の心音が、段々速度を上げていき、ドクンドクンと、大きく音を鳴らし始める――。


「………?」

「………ッ!!」

 亜梨明が異変に気付くとほぼ同時に、突然、爽太がバッと彼女の身を自分から引き離した。


「もっ……もういいかな……?」

 そう言った爽太の肌はとても真っ赤で、恥ずかしそうな困り顔になっている。


「爽ちゃんのそんな表情初めて見たよ……可愛いっ!」

 亜梨明がこれまで見たことのない様子に嬉しく思っていると、爽太は拗ねた口調で、「ほら、もう寝て!」と亜梨明の体を横にさせ、掛布団を掛けた。


「……ちゃんと、起きるまでいるからさ」

 まだ赤い顔を見られたくないのか、少し斜め上を見ながら言う爽太に、亜梨明はクスクスと笑って、目を閉じた。


 数分後。

 穏やかな寝息を立て始めた亜梨明――。


 照れ臭さに熱くなっていた体の火照りがようやく冷めてきた爽太は、ふと見た彼女の枕とベッドの隙間に、小さな置時計が挟まって隠されていることに気付く。


 去年の雨の日。

 彼女は、時計を見ることが『嫌い』で『怖い』と、爽太に語った。


 その理由について、同じ年頃の子供達が元気な体で未来に向かって進むのに対し、自分は立ち止まったまま前に進めないと感じてしまうからだとも――。


 根治手術を受けると決めた今も、亜梨明は時の流れに恐怖を感じ、そして――自分の命が止まってしまうかもしれないことに怯えている……。


 それを察した爽太は、亜梨明が一人抱え続けるものを分けて欲しい気持ちで、彼女の手に触れて、そっと呟いた。


「誰も置いて行かないよ……」


 置いて行かない。

 立ち止まらせないし、君の手を引っ張ってでも、同じ未来に連れていく――。


 爽太は、そんな想いと一緒に亜梨明の片手を包み込むと、眠る彼女の顔を切ない表情で見つめ続けた。


 *


 日曜日。


 緑依風、風麻、星華、爽太の四人は、相楽姉妹に贈るプレゼントを買うために、冬丘街のショッピングモールにやって来ていた。


 あの話し合いの後、立花と晶子にお金を出し合って買おうという作戦について相談すると、二人はすんなりと承諾し、何を贈るかは四人に任せて、後日割り勘ということでまとまった。


 ぐるぐるとあちこちの店を巡り巡った末、二人への贈り物は、同じデザインで色違いのお財布に決まった。


 淡い色合いが好きな亜梨明には、パステルピンクのお財布を。

 シックな色合いが好きな奏音には、黒のお財布を選んだ。


 雑誌の付録についていたようなものを使っていた姉妹に、少し大人っぽいアイテムをプレゼントだ。


 喉が渇いた風麻と星華が飲み物を買いに行っている間、爽太は緑依風と一緒に、待ち合わせ場所付近のアクセサリーショップで、亜梨明へ贈る指輪を選ぶことにした。


 ――が、どれを手に取ってみても、彼の中で亜梨明とイメージが結び付くデザインのものは無く、元の場所に戻してはため息ばかりついていた。


「そんなに悩むなら、指輪じゃなくてもいいんじゃない?お守りとして持ってて欲しい物でも」

 緑依風が指輪の前で眉間にシワを寄せる爽太にアドバイスした。


「うん……――?」

 爽太が指輪売り場から他のアクセサリーコーナーへと視線をずらすと、ふとあるものが彼の目に留まった。


 アンティーク風に古びた加工がされた、丸くて金属製の物を持ち上げると、チャリ……と本体に取り付けられたチェーンの音が鳴る。


 そして、爽太は昔何かで知った、この装飾品を贈り物にする時に込められた願いを思い出し、ふっ……と柔らかく微笑んだ。


 指輪よりも――ブレスレットやネックレスなんかよりも、きっと亜梨明はこの贈り物を喜んでくれるはず。


「それにするの?」

「……うん!」

 爽太は、斜め後ろから覗き込むように尋ねる緑依風に返事をすると、キュッと手の中の物を軽く握り締めて、レジに向かった。


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