第185話 新緑


 三組の教室に戻ってきた風麻。


 椅子に座ると、何故か自然と首が緑依風のいる方へと向いてしまう。


「風麻にもいるよ……風麻の幸せをずっと願ってる人」

「いつも風麻の近くにいる人」

「小さい頃から風麻といつも一緒で、君からのプレゼントをずっと大事にしている女の子が、近くにいるだろ?」

 さっきの爽太の言葉が蘇り、いつもなら何とも思わない緑依風の姿を見る行為が、急に恥ずかしくなってしまう。


「(緑依風が?俺を……?俺を好き……??)」

 そんなのあり得ない――そう、思いたかった。


 緑依風とは三歳の頃から友達で、兄妹同然の間柄。

 他の女の子を相手にするには、笑われないよう、下手なことをしでかさないようにと気を使いすぎる自分にとって、ありのままの姿をさらけ出すことができる、唯一無二の大事な存在だ。


 同い年でありながら母親のようにおせっかい。

 かと思えば、繊細で傷付きやす過ぎるその性格が放っておけず、妹のように世話を焼きたくなるような女。


 恋愛対象になんて、十年以上一緒にいても全く思ったことはないし、彼女からそんな想いを寄せられていたなんて、一ミリも感じたことがない――。


「それは、松山さんが君との関係を壊したくなかったからだよ」

「…………!!」

 爽太のもう一つの言葉が、風麻の『何故』に答えを示す。


「何とも思ってない風麻と、ずっと長く居れる関係――幼馴染っていう関係を守るために、松山さんは一生懸命天邪鬼を演じてたんだよ」

「(俺と一緒に……。少し前の、相楽姉と爽太みたいにならないために……か)」

 考えてるうちに梅原先生がやって来て、直希の「起立――礼」の号令が掛けられ、立ち上がってもう一度座る。


 斜め横にいる緑依風は、梅原先生の話をよそ見することなく、真面目に聞いていた。


 *


 一時間目の授業が終わり、十分休憩の時間。


 中間テストまで日が無いというのに、授業内容は全く聞いておらず、緑依風のことと爽太の言葉を延々と考え続けた風麻の姿は、頬杖をつき、口を半開きにしたまま視点が天井を向いているという、なんとも間抜けなものだった。


「風麻~っ、風麻ってば~……」

 そして、先程から数メートル離れた所で、一時間考え続けた幼馴染に名前を呼ばれているのだが、それすら耳に入ってこず、ぼんやりを続けている。


「風麻っ、コラっ!無視すんなっ!!」

 パコンと軽く筆箱で頭を叩かれ、ようやく我に返る風麻――だが。


「――うっ、わぁぁぁっ!!!?」

 目の前に立つ緑依風の姿に驚き、勢いよく椅子と共に後ろ向きで床に倒れこむ風麻に、「えっ、ちょっとぉ!!」と緑依風も叫んで、ガシャンという音が響く瞬間にギュッと目を瞑る。


「ちょっ……!!――風麻っ、大丈夫っ!?」

「いってぇ~……」と、情けない声を発しながら、後頭部を押さえて呻く風麻の横に、緑依風は慌てて床に膝をつき、手を差し伸べて起き上がらせようとする。


「い、いいって!自分で起きれるし……それより、なんか用か?」

 風麻が緑依風の手を拒んで自力で起き上がりながら聞くと、「亜梨明ちゃんのお見舞いの話なんだけど……」と緑依風は言った。


「見舞い?」

「うん、今日みんなで行こうって話してて……風麻も一緒にどうかなって……」

「おう、もちろんい……――」

「行く」と返事をしようとした風麻だが、なんだか今は緑依風と一緒にいるのが気恥ずかしい……。


「……俺、ちょっと今日は用があるから、また今度行くわ」

「そう……」

 緑依風は少し残念そうな顔をして、奏音の所に戻った。


「…………」

 まだ痛む頭の後ろを擦りながら、風麻は「はぁ~っ……」と深いため息をつく。


 そして、その咄嗟についた「用がある」の嘘を本当にすべく、彼は後程、とある二人に声を掛けなければならないと思っていた。


 *


 放課後。


 話し合った結果、やはり大勢で押しかけてはうるさくしてしまいそうだと判断した緑依風達は、爽太のみ遅れて来てもらうことにして、女友達だけ先に夏城総合病院へお見舞いに向かうことにした。


「せっかく亜梨明ちゃんに会えるのに〜。坂下なんで来なかったんだろ?」

 星華が言うと、「用事ならしょうがないけどねー」と奏音は特に気にしない様子だった。


「……なんか風麻、元気無かった気がする」

 緑依風は立ち止まりながら、休み時間の風麻を思い出していた。


「そうなの?」

 奏音が聞くと、「うん……」と緑依風は頷いた。


「ぼーっとしてたし、なんかどことなくおかしいっていうか、悩んでる風に見えた気がして……」

 風麻がいつもと違う理由を知らない緑依風は、心配そうな面持ちで言う。


「やっぱりこの間のやつのせいじゃん?いなくなっちゃった亜梨明ちゃんの居場所を突き止めたのは、結局日下だったしさ。いくら亜梨明ちゃんを諦めるって決心しても、失恋の傷自体はまだまだ残ってるんじゃない?」

 星華の考えに、奏音も「まぁ、諦めるのとふっきれるのはまた別の話かもね……」と言って、短く鼻から息を漏らす。


「そう……だよね……」

 好きな人の幸せのために、自分の気持ちを諦めること。

 緑依風自身もそうだったからこそ、風麻の失恋の傷はとてもよくわかる。


 普段通りに元気を見せる風麻も、実は一人で悲しみを隠して過ごしているのだと思うと、緑依風の心はクシャクシャに潰れてしまいそうだった。


 *


 緑依風が心配しているその一方、風麻は駅前のアイスクリームショップにいた。


「おごり~~っ!?」

 レジの前で叫ぶ風麻に、「当然です」と言うのは、風麻や緑依風と幼稚園時代からの付き合いがある沖晶子、そして同じく幼稚園時代からの幼馴染である、幸田利久も「当たり前だろ」と白けた顔で風麻に言った。


「大事な話があるって、急に呼び出したんですよ。私は今日、合唱団の練習があるのに、それよりも大事な話があるんだって、無理矢理!」

「そうだぞ、僕だって今日は新しく作ってるアプリの開発の続きがしたいのに、どうしてもって風麻が言うから来たんだ!」

「くっそぉ~~っ!お前ら俺より小遣い多いくせに~~っ!!」

 一番小さいシングルタイプのアイスとはいえ、毎月お小遣いがピンチになりがちな風麻にとって、大きな痛手だ。


 しかし、無茶言って二人に呼び出しに応じてもらった立場。

 風麻は渋々二人分と自分のアイスの料金を支払うと、イートーンスペースのソファーに座り、その風麻の対面に晶子と利久が並んで座った。


「――で、そんなに大事な話ってなんですか?」

 晶子が尋ねると、風麻は「え~っとだなぁ……」と、照れくさい気持ちと信じてもらえるかと不安な気持ちが入り交ざって、頬杖をついている側の手で口元を軽く押さえながら躊躇ためらう。


「……そのぉ、緑依風が~~?……俺のこと、好きらしいんだけど……?」

 驚くか、「まさか」と笑われるかの予測をしていた風麻だったが、二人の反応はどちらでもなかった。


「あ、やっと気付いたんですね」

「何年越しだろうね」

 淡泊で、素っ気ない。


 それぞれアイスをスプーンですくって食べ始めていた晶子と利久は、呆れたようにまぶたを半分程下げて、「はぁ……」と、顔を見合わせた。


「なんだよその反応っ!?……ってか、お前ら知ってたのか!!」

 風麻はアイスと同様の冷たい視線を浴びせる二人の前に、体を乗り出すようにして言った。


「知ってましたよ〜かなり昔から。それなのに、風麻くんは随分酷いことを言いましたよね〜……。緑依風ちゃん本人に、亜梨明ちゃんのことが好きだなんて言っちゃって……。好きな人に好きな人の話をされた緑依風ちゃんの心はどれだけ傷付いたことか。……反省してくださいよっ!!」

 ビシッと、晶子にスプーンを突きつけられると、風麻は「ううっ……」と呻いてソファーに座り直した。


「仕方ないだろ〜……俺にとって、緑依風はなんでも相談できる親友で、家族同然の存在なんだからさ……」

 風麻も溶けかけたアイスを大口で頬張る。


「――でもまっ、あいつのこと傷付けちゃったのは変わりねぇ……。確かに、爽太に偉そうに言えた口じゃねぇな……」

「まぁ、緑依風も風麻の前ではバレないように、つっけんどんな態度ばっかだったからな……。僕らには、風麻が好きなのが余計にわかる風にしか見えなかったけど」

「気付かない風麻くんの頭が、ある意味奇跡ですよ……」

 利久はフォローするが、晶子は相変わらず冷ややかな口調だ。


「……で、気付いたわけだけど、どうするの風麻?」

 眼鏡を上げ直しする利久に聞かれて、風麻は「え〜っ……」と腕を組む。


「どうって、俺は――……爽太と相楽姉が両想いになって、自分の初恋が終わったばっかで、何も考えられないし……。どうしたらいい?」

 風麻が二人に聞くと、晶子は「そんなの知りません!」と、ツーサイドアップの長い髪を揺らすようにして、プイッと斜め上を向いた。


「……でも、緑依風ちゃんはきっと、風麻くんのことを心配しています」

「俺のこと?」

 なんで俺?と思いながら、風麻はもう一口アイスを食べる。


「緑依風ちゃんは優しい子ですから……。自分の恋が叶わなくても、風麻くんが幸せになれるなら、亜梨明ちゃんと結ばれてもいいと仰ってました。亜梨明ちゃんと日下くんが結ばれたのを知ったら、亜梨明ちゃんを祝福するのと同じくらい、日下くんに譲る決断をした風麻くんの気持ちを心配しているでしょう。……緑依風ちゃんは、そういう子ですよ」

「…………」

 晶子に言われて、風麻は今、ものすごく反省していた。


 好意を寄せていた自分に亜梨明の相談をされ、話を聞き、そばで見守りながら『好きだ』という想いも悲しみもひた隠しにして、「頑張れ」「協力する」と励まし続けてくれた緑依風。


 彼女が誰よりも優しい人間だと理解しているからこそ、その心の傷が自分の想像以上に深くて痛々しいものだというのも予想できる。


「(俺、知らぬ間にこんなに酷いことしてたのかよ……――)」

 それなのに、晶子が言うようにあいつは多分、きっと俺の方を心配してる。

 それはわかる。


 ずっと一緒にいた、幼馴染だから。


「緑依風……」

 俯き、ズボンの裾を握って肩を震わせた風麻のすっかり反省した様子を見ると、アイスを食べ切った晶子はカタンと音を立てて、スプーンをカップの中に置いた。


「――……と、言う訳で!今は何もしなくていいです!風麻くんの元気な姿が見られたら、緑依風ちゃんも安心します!」

「だから、お前はあんまり落ち込むなよ」

 利久もアイスを食べ終わったようだ。


「別に落ち込んじゃねーよ!!……まぁ、少しはまだアレだけども……」

「百パーセント落ち込むなよ!」

「くそっ……俺には失恋の感傷にちびっとも浸らせてくれないんだな、お前ら……」

 風麻はほぼ液状化したアイスクリームのカップを持ち上げると、ヤケ酒を呑む大人のようにそれをグイッと飲み干した。


 *


 晶子達と別れた風麻は、一人で家へと続く道を歩いていた。


 ふと、途中の道にある公園の桜の木を見上げると、花の姿がすっかり見えなくなった代わりに、新たな葉が枝に生え揃い、僅かな風に揺られている。


「緑の葉っぱに依りそう風……」

 風麻は見上げた格好のまま、緑依風の名前の由来をポツリと呟いた。


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